第2話 言葉こそ、武器
緋の絨毯が敷かれた謁見の間に、彼らはいた。
帝国の使節団。誰もが一様に沈黙し、ただ中央に立つ一人の男へと視線を向けている。
イオーラは深呼吸をひとつだけしてから、静かに歩を進めた。
背筋を伸ばし、視線はまっすぐ。纏うドレスの裾がわずかに床を擦る音が、やけに大きく響く。
「お待たせして申し訳ありません。私、エルシア皇国第三皇女イオーラと申します。大使殿との交渉は私に一任されております」
やや高めの壇上から言葉を投げかけると、中央の男――大使が、恭しく深く礼をした。
その所作には寸分の狂いもない。表情も声色も、完璧に整えられた外交の仮面だ。
「皇女殿下に置かれましては、御拝顔叶い恐悦至極に存じます。グランヴェリア帝国皇帝の名代として参りました、リッツェルと申します。先にお渡ししました親書は読んでいただけましたでしょうか」
低く落ち着いた声。柔らかくはあるが、鋼を思わせる芯が潜んでいる。
「ええ、拝読しました。和平に向けた提案と条件、確認しております」
イオーラは静かに頷く。
形式のやりとりとはいえ、この瞬間から言葉の一つ一つが国の行く末を決める。
わずかな誤解も、感情の揺れも、許されない。
「ご理解が早く、助かります。皇帝陛下は誠に戦火を避けることを望んでおられます。……ただ、それには相応の証が必要だろうと」
「……それが婚姻だと?」
イオーラの声は低く、しかし明確だった。
場の空気がほんの僅かに張り詰める。
「左様にございます」
リッツェルはまるで天気の話でもするように淡々と続けた。
「これまで幾度となく、表面的な同盟は結ばれてきましたが、真の信頼には至りませんでした。我が帝国にとって、この地は地理的にも戦略的にも重要です。しかし、我々は武力でそれを得たいとは考えておりません」
言葉には偽りのない平穏があった。だが、それが本音かどうかは分からない。
外交の場において、真実よりも『信じさせる力』の方が重要なのだ。
「ですが、条件が皇女との婚姻のみというのは、あまりに一方的ではありませんか? 保障条項、通商、軍事不干渉など、他国間の和平ではそれらが議題に挙がるはずです」
イオーラは一歩踏み出した。
瞳に迷いはない。ここが押し返すべき場面であることは、彼女自身が最も理解していた。
リッツェルは、やや口元に微笑を浮かべた。
「それらは……婚姻が結ばれた後、自然と整えられていくことになるでしょう。陛下は寛容であられます。御心配には及びません」
言葉の裏に甘い毒がある。
『信じるならば安全』だと。だが、信じなければ?
「『自然と整えられる』では、国を守る者として判断がつきかねます」
きっぱりと、イオーラは言った。
相手が一歩譲るのを待つのではない。引き出すのだ。たとえ相手が、自国よりも圧倒的に強大な帝国の名代であっても。
リッツェルは軽く目を細めた。だが、その奥に怒りはない。むしろ、興味を抱いたようにも見えた。
「ごもっとも。……ですが陛下が何よりも望んでいるのは、信義ある人物と並び立つこと。我が主の理想は冷酷に語られておりますが、その実、和平に心砕いておられるのです」
その瞬間、イオーラの中に、わずかな違和感が生まれた。
——この男の『冷酷』という言葉に、どこか悲しげな響きがあったのは、気のせいだろうか。
「……一つ、伺っても?」
「どうぞ」
「なぜ名指しではなく
リッツェルはしばしの沈黙の後、答えた。
「……賢察に恐れ入ります。陛下は、真に国を想い、自らの意志で歩む者でなければ意味がないとお考えなのです。命じるだけでは、証など結べぬと」
イオーラは妙に納得して、目を細めて静かにうなずいた。
「……国にとっても、私にとっても、大きな決断です。お返事には少し、お時間をいただきます」
「もちろん。ご返答は然るべき形でいただければ、それで構いません。皇女殿下にとって、このご縁が未来の礎となることを願っております」
謁見の間を下がると、イオーラは肩でそっと息を吐いた。
緊張が解けたわけではない。ただ、感情を整えるための小さな
「……よく切り返されましたね」
控えの間で待っていたヤンが言った。
手にはまだ温かい香草茶の入った銀の器。イオーラが好む、控えめな甘さと微かな苦味のある香りが漂っている。
「……切り返したというより、押し切られた感もあるけれど」
苦笑して、イオーラは椅子に腰を下ろした。ドレスの裾がわずかに音を立てて広がる。
「リッツェル――ただの大使じゃない。言葉の選び方も、間の取り方も、意図的すぎる」
「何か隠していますか?」
「いいえ。……隠してはいない。ただ、全てを言っていない」
そう言いながら、イオーラは器を手に取り、そっと口元に運ぶ。温かさが指先を伝い、胸の奥に張りつめていたものを少しだけ和らげた。
「『信義ある者でなければ意味がない』。……あれは、ただの綺麗事じゃない。あの目を見ればわかる。信じるということに、彼自身が縋っているような……そんな気配すらあった」
「皇帝陛下の名代が、ですか?」
「そう。だからこそ……厄介だな」
香草茶をもう一口。微かに苦い。
「こちらが強く出れば、突っぱねることもできる。だが、相手が『誠実であろうとしている』時、強く出れば出るほど、こちらが悪者に見える。まるで『和解を拒む側』のように」
「……その通りに見せるために、あのリッツェルという男は『誠実さ』を演じていると?」
「演じているのか、本物なのか……それすら、今の私には判断できない」
イオーラは窓の外を見やった。夏の光が静かに庭を照らしている。
この平和な風景が、紙一枚の交渉で崩れるかもしれないという現実は、あまりに静かすぎて不気味だ。
「……陛下に伝えてくれるか。私が帝国へ行くと」
「わかりました。ですが、私も連れて行くと約束してください」
ヤンは膝をついて騎士の礼をとった。
「馬鹿を言うんじゃない。私は婚姻に行くんだ。どこの世界に男を連れて嫁ぎ先に行く奴がいるんだ」
「そりゃあ……女にはなれませんけど。ですが、単身で帝国に乗り込むなんて、いくら姫様でも無茶ですよ」
「そう思うか?」
「力の無い小国の皇女なんて、周りの女達にいびられて、空気のような存在として扱われるかもしれないじゃないですか!」
「相手が私だとしても?」
ヤンは一瞬言葉に詰まった。それでも、絞り出すように答える。
「……相手が姫様でも、です。相手が姫様だからこそ、です。姫様が空気のように扱われるなんて、耐えられません」
イオーラはふっと笑った。その笑みには、どこか寂しさが滲んでいる。
「ありがとう。でも、ヤン。私は『嫁ぐ』つもりでは行かないの。私は――『見る』ために行くのよ」
「……見る、とは」
「グランヴェリアという帝国の、内側を。交渉のために、そしてこの国を守るために、私の目で見て、私の足で歩いて、確かめる」
言葉に込められた決意は重く、静かに空気を震わせた。ヤンは立ち上がり、もう一度、深く頭を下げた。
「それでも、俺の主は姫様だけです。どうしても無理と言うなら、帝国の武官としてあなたの側に必ず戻ってきますから」
イオーラは、彼のその背中に目を細める。
出会いはただの遊び相手として選出されたにすぎなかった。それが、次第に武を極める同士となり、隣にいないことはなかった。
「……じゃあ、公式には『文官の随行』ってことで、どうにかして手配しよう。陛下の許しは……後でなんとかする」
ヤンは目を見開き、少しだけ唖然としたように笑った。
「……結局、姫様が一番無茶をなさる」
「これも戦略よ」
その日の午後、帝国からの使節団は、華やかな饗応の場を前にして宮を辞した。そしてイオーラは、静かに準備を始める――帝国へ向かう、長く短い旅の支度を。
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