皇女イオーラの異国宮廷譚 〜氷の帝と紡ぐ世界攻略〜
藍月希帆
第1話 風を読む姫
木に登り風を読む。
いつもの静かな森に何か違和感がある。
——鉄、いや……何か鼻につくような臭いだ。
イオーラは木から地面へと迷いなく飛び降りた。訓練された体が着地の衝撃を地面に流し、足音一つ立てずに立ち上がる。
「イオーラ様!」
茂みから護衛役のヤンが、珍しく慌ててやってきた。
「ヤン、何が起きた」
皇女に相応しくない、半袖とズボンに身を包んだ彼女を見て、護衛のヤンは一瞬眉をひそめたが、すぐに言葉を紡いだ。
「グランヴェリア帝国の使節団が参りました! 皇妃様から至急支度せよと」
グランヴェリア帝国。
新興ながら、次々と周辺諸国を喰らっていく。
あの帝国を恐れぬ国は、今や大陸には存在しない。
イオーラも噂を耳にしていた。
冷血な暴君。好色な狂人。顔すら知らぬ男の名を、誰もが恐れていた。
イオーラは目を細めた。
――まさか、本当に来るとは。
グランヴェリア帝国は、恐ろしいほどの勢いで侵略を進めていた。
だが、このエルシア皇国に辿り着くには、“魔の森”を越えるしかない。
未だ研究の進まぬその森は、無数の国の侵略を拒み続けてきた。ゆえに、この地に住む者たちは、いつしか異端視されるようになっていったのだ。
……だが、帝国は来た。
つまり、抜け道を見つけたのだ。
「せめて、元老院がイオーラ様の発言を少しでも汲んでくれていればよかったのですがね……」
ヤンがため息まじりに言う。
「……仕方がない。目の前に現れないと幽霊の存在を信じないように、国家の危機に遭わなければ気づかないこともあるさ」
「国家の責務は国民を危機に遭わせないことでもあると思いますがね」
「……それだけ、私という存在に、発言の価値がなかったということだ」
唇の端に、わずかに笑みを浮かべる。
「誰もがついていきたくなる英雄なんて、絵本の中にしかいない」
エルシア皇国は長く平和の時代を過ごしていた。長く侵略の歴史から遠のいたことは、突然の強敵に対して成す術がないこの事態を招いている。
そのための防衛策を皇女ながらにイオーラは訴えてきた。今日という日まで聞き入れられることはついに無かったが。
剣を持ち、馬を走らせ、弓を引く皇女など、誰も求めてはいなかった。
変わり者。そう揶揄されるのにも慣れた。
だからもう、政治には口を出さないと決めたのだ。
木の上で、静かに風を読むだけの日々。
――だったはずなのに。
部屋に戻り、久々の正装に身を包む。
裾の長いドレスの重量や足捌きの面倒さに苛立ちを覚えつつ、足早に謁見室へと急いだ。
「お待たせしました」
部屋へ入ると、皇王、皇妃、上二人の姉と弟、大臣達が青ざめた表情で机の上の書状に視線を注いでいた。
重く沈んだ空気。書状の文面をなぞる者の指が僅かに震えている。
「イオーラ、来たか」
父皇王の声はいつに増して低く、力を失っている。
「……帝国はなんと?」
イオーラの問に答えたのは皇王ではなく皇妃であった。
「帝国からの使節は、皇帝は和平を望んでいるが……ただし、条件があると」
「……皇女との婚姻でも結べと言ってきたのでは?」
イオーラがそう言うと、その場の全員はイオーラに視線を向けた。
「……すでに帝国はこの数年戦いを続けていますからね。その実、そろそろ内政に目を向けたいところ。和平とは名ばかりの婚姻を結び、人質を取ることが血を流さず、最も簡単にこの国を手に入れられる方法でしょうから」
書状には、
『——エルシア皇国皇女との婚姻を望む』
と明記されていた。
「奴らは本気だ」
重臣の一人が呟くように言った。
「この森を超えてきた事実だけではなく、今、この国が戦えないとわかっているからこそ要求しているのだ。戦うのか、従うのかを」
「戦う準備は何一つできていませんよ」
弟のエレンディルが言う。
「イオーラ姉様がずっと帝国の脅威を指摘していたにもかかわらず、聞く耳を持たなかったのはどこの誰です?」
場が凍りつく。
エレンディルの鋭い一言に、大臣たちはうろたえるように視線を伏せた。
「……今さら責任を追及しても、状況は変わらないわ」
イオーラが静かに言う。だがその声音は、どこまでも冷静だった。
「問題は、
言いながら、彼女は机の上の書状へと歩み寄る。
自らの指で、その一文をなぞった。
——エルシア皇国皇女との婚姻を望む。
「名指しではない。つまり
イオーラは顔を上げ、家族たちをまっすぐに見つめた。
「……姉上たちは?」
弟の問いに、長姉も次姉もわずかに顔を伏せた。答えなくても、その意志は伝わってくる。
この国を、民を、家族を守るための犠牲。
それが自分だと名乗り出る者はいなかった。
「——国を愛し、自然を愛し、人を愛せよ。我らエルシアの子よ」
エルシア皇国憲章序章第一節。
この国の者なら知らぬ者はいない、初代皇王の言葉。
イオーラはそう唱えると、柔らかく微笑んだ。
「……この件、私に預けてください」
重たい空気の中、ただ一人、風のように軽やかな声で。
だが、その一歩は確かに前へと進んでいた。
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