僕らの夏のモーツァルト

深山心春

第1話

 エアコンから出てくる涼しい風が僕の髪を揺らす。室内は快適だ。

 暗譜をしたモーツァルトのワルツをピアノにのせて弾く。もう練習をはじめて何時間経過したんだろう。

「……だから、ピアノに金をかけすぎだと言ってるだろう……!」

「大きな声を出さないで! あの子には才能があるのよ……! 辞めるなんてもったいないことできないわ!」

「ずっと部屋に籠もって練習しているのが何が楽しいんだ……!」

 その言葉にピアノを弾く手が止まった。窓を見る。真っ青な空には入道雲。僕は立ち上がり窓を開けた。途端に、もわっとした夏の暑さが立ち込め、うるさいほどの蝉の鳴き声が耳をつんざいた。

「今年の夏で終わりだ」

 僕はつぶやく。

「僕のピアノは今年で終わりにする」

 ママ、僕は知ってるよ。僕のピアノに多額のお金が投入されていること、そのせいで、ママとパパの喧嘩が絶えないこと。

 それだけじゃない。僕は夏の匂いもよく分からない。お稽古には車で出かけて、あとはピアノの練習。指を痛めるといけないから、夏の体育も見学だ。

 目を閉じる。照りつけるような陽射しが、僕の瞼を焼いた。夏はまだはじまったばかりだった。


「結構上手い子が多いわね」

 混雑するファミリーレストランでアイスティーを飲みながらママは言った。僕はこぼさないようにメロンソーダのアイスを口に運びながら、うんと頷く。白いワイシャツにグレーのベストと同色の半ズボン。簡易式のネクタイは汚れるといけないので外しておいた。空いている左手が、無意識にリズムを刻む。

「そうだね、ママ」

 結構どころではない。上手い子揃いだ。僕はガラス窓から外を見る。今日の気温34℃。真夏日だ。東京郊外の自宅では蝉時雨がうるさいほどだけど、23区の真ん中とくれば蝉の声もそうは聞こえない。

 僕にとって夏といえばピアノだ。ううん、春も夏も秋も冬もピアノなんだけれど、夏は特にコンクールがある。予選、本選、全国大会とあって、予選は2カ所全部突破したので、今日は本選ひとつめ。予選の会場とは違い大ホールで行う本選は、緊張感さえも予選とは違う。

 全国にはまだ行ったことがない。昨年の3年生の時にはあと0.1ポイント足りなかった。ママや先生は残念がったけど、僕としてはできる限りのことをしたと思うから後悔はない。

「そんな冷たいものばかり食べて大丈夫? おなか痛くなったりしないの?」

「大丈夫」

 そう言いながら僕はメロンソーダのアイスを掬う。ガラスのコップには水滴がついている。僕はそれを手で拭った。

「午後から出番は3番目。すぐなのよ?」

「わかってるよ」

 左手がリズムを刻む。対照的に足はきちんと揃えている。

 小学生3、4年生の部。予選はまだ、拙い子も多い。記念出場の意味もあるから。けれども本選にくれば、そんな子はいない。皆、1音1音に気を配って、練習の成果が最大限に出るよう祈りながら、そして全力で弾くのだろう。僕だってそうだからだ。

 春の初めと共に課題曲が発表される。曲を4曲選んだら、そこからは猛練習の毎日だ。毎日毎日、僕はピアノを弾いた。平日は2時間。休日はもっと。4時間は練習してたかもしれない。

 なぜそんなに練習するのか、自分でもわからない。物心つく前にはもうピアノを弾いていた。だから僕は、ピアノができないママやパパの気持ちはわからないし、ママやパパもピアノができるぼくの気持ちはわからないだろう。

 ちゅっと、メロンソーダを飲み干す。

「ごちそうさまでした」

「足台、本当に自分でできるの? 椅子の高さ調整も?」

「大丈夫だよ」

 周りを見ていると、すぐ近くの席に、同じコンクールに出るのだろう、淡いピンクのドレスを着た女の子が目に入った。大丈夫かな、と僕は思う。顔色が真っ青だ。肩までの髪に、同じく淡いピンクの髪留めをつけた様子はひどく愛らしかった。目の前に出されてあるハンバーグには全然手をつけていない。

「樹。本当に大丈夫?」

「平気。ひとりでできる」

 僕は視線をママに戻した。ママは心配そうに僕を見ている。きっと一緒にいた方が落ち着くんじゃないかと思っているんだろうな。でも僕はこれでもピアノ歴はもう7年。コンクール参加は5回目。ママが言うより慣れている。

 店内は涼しいけれど、窓から見ると日傘をさしている人が多い。ああ、夏なんだなと僕は思う。室内でピアノを弾いていることが多い僕にとって、窓の外の景色とコンクールが夏の象徴だ。

「もうそろそろ、行きましょうか」

「うん」

 午後の部がはじまって3番目。待ち時間も長くないし、僕にとっては絶好の順番だ。

 がたと、椅子を引く音がする。目をやると、先ほどの女の子の一家も立ち上がっていた。


 本選会場は同じ施設の7階にある。エレベーターがついて扉が開くと、そこは広い会場。赤い絨毯が敷き詰められていた。モニターが設置されていて、ホールの中に行かなくても中の演奏が見られるようになっている。午後の開始までにはあと30分ほど。

「ママ、僕、トイレ行ってくるね」

「わかったわ。気をつけてね」

 ママの顔はもう落ち着きがなくなっている。これから弾くのは僕だと言うのに。僕は人混みをかき分けて進んでいく。

 トイレを済ましてドアを開けると、誰かにぶつかった。

「あっ、ごめんなさい」

「私こそ……!」

 見れば先ほどファミリーレストランにいた淡いビンクのドレスを着た子だった。相変わらず蒼白な顔をしている。僕は少し心配になった。

「大丈夫?」

「えっ?」

「人に酔った?」

 そう尋ねると、女の子はううん、と首を振る。お節介かな、とも思うけど、袖振り合うも多生の縁って言うでしょう? それに、同じコンクールに出るんならなんとなく同志のような気持ちもある。 

「僕は午後の3番目。君は?」

「ご、5番目……」

「本当? なら一緒に舞台袖に行かない? あ、でも足台の設置はママがやるのかな?」

「ううん、ひとりでやるの……」

「なら、一緒に行こうよ」

 にこりと笑ってそう言うと、その子はこくりと頷いた。


 舞台袖にはまだ誰も着ていなかった。スタッフの人に案内されて舞台袖の簡易式の椅子に並んで腰掛ける。

「前の子が終わったら足台を持って出ていってね」

 スタッフの説明に僕は、はいと頷いた。隣の女の子も声はなく頷く。

「来るの早かったね」

 そう言って笑うと、女の子はおずおずと頷いて僕を見た。

「名前……名前は? 私は奏。4年生」

「僕は樹。同じ4年生だよ」

「そう……。樹……君は堂々としてるのね。本選は初めてじゃない?」

「うん。奏ちゃんは?」

「私は初めて……コンクールも初めてなの……」

 奏ちゃんはこわごわと口にした。

「練習、いっぱいした?」

「え……?」

「今日のために、練習いっぱいした?」

「う、うん」

「じゃあ、一緒だ」

 僕は笑う。わかってる。予選から来る子たちは一生懸命練習をしている。まぐれで本選に来られるほど甘くはない。

「曲目は何を弾くの? 僕はクラシックと現代曲」

「私は、バロックとクラシック」

「もしかして、モーツァルト? あれ、難しくなかった? どう解釈して弾いて良いのかわからない感じで……」

「う、うん。そうなの。苦手で。今日もこれから弾くのかと思うと怖くて……」

 奏ちゃんはそう言うと、ぎゅっと目を閉じた。困ったな、と僕は思う。初めての本選でこの大ホールで弾くだけでも緊張するだろうに、苦手な曲なら尚更だ。

 僕は右手と左手の指を合わせて、三角形をつくる。そして奏ちゃんにそれを見せた。

「僕がよくやるおまじないなんだけど、これは効くよ。こうして、目を閉じて集中する。そうすると他のことを考えなくなる」

「こう……?」

 奏ちゃんは僕のやった通りに三角形を作り目を閉じた。あ、睫毛が長いな、と僕は思う。

「そうそう。それで頭の中にはなにも雑念が入らないから、余計なことも考えない。弾くことだけに集中てきるよ」

「本当……?」

「本当だよ。僕のほうが順番早いから見てて。これでもし、上手く弾けたら奏ちゃんも上手く弾ける」

 奏ちゃんは、目をぱちぱちと瞬かせた。でも……と、遠慮がちに声を紡ぐ。

「もし、樹君にプレッシャーかけたら悪いわ」

 その一言で僕は思った。ああ、この子は良い子だな、と。だから僕も優しくしようと決めた。

「大丈夫。そんなプレッシャーには負けないから。奏ちゃんも負けないで」

「う、うん……」

 そしてふたりで三角形を作り、目を閉じた。思い出す。春からずっと練習してきたことを。季節の感覚がなくなるほど、室内に籠もって練習したことを。

 いつの間にか周囲の席には子どもたちが集まりはじめ、やがてピアノの音が鳴り始める。

 二人弾き終わった。次は僕の番。

「行ってくるね」

 そう囁くと、奏ちゃんがゼスチャーで、頑張って、と伝えてくる。僕は少し笑った。

 肩の力が抜けてる。お礼を言うのは僕のほうかもしれないと思う。

 足台を設置して椅子の高さを調整する。真夏なのに、ホールは空調が効いてとても涼しい。

 ハンカチで鍵盤をそっと拭く。なぜ、コンクールに出るのか、なぜ時間を全てピアノにつぎ込むのか、わからなくなってきていた。

 ステージの真ん中に立つ。真ん中の審査員席よりやや後ろにママの姿を見つけた。心配そうな顔をして僕を見ている。僕は深く頭を下げた。

 椅子に座り高さと位置を確かめる。右手と左手を合わせて、ふうと息をする。

 そして、僕は無心で弾き始めた。


 たった数分。けれども果てしなく長い数分が終わる。僕は立ち上がり礼をする。

 頭の中が空っぽで、上手く弾けたのか、そうでないのかわからなかった。舞台袖に戻った時、音を出さずに拍手している奏ちゃんが見えた。僕は親指を上げてみせる。

 うまく弾けたかのかはわからないけど、奏ちゃんの役に立ったみたいだ。そう思うと悪い気はしなかった。そのまま舞台袖から通路を通って観客席に大急ぎで戻った。

 とりあえずホールのいちばんうしろに腰かけると、奏ちゃんが右手と左手の指を合わせて弾き始める前だった。

 奏ちゃんの弾く曲はとても綺麗な音色だった。心に響くような澄んだ音色を僕は目を閉じて聴いた。

 なんだ、ちゃんと弾けるじゃないか、と僕は思う。

 あのおまじない、即興で作ったのだけど、もしかしたら本当に効果があるのかもしれない。そんな事を思いながら、僕は奏ちゃんのモーツァルトのワルツのリズムを左手で刻んだ。


「全国……」

 午後の部が終わり、審査員の審査がはじまり、結果を発表される頃にはすっかり日も暮れていた。

 僕は張り出された紙を見て、呆然とつぶやく。

全国大会へ行けるものは3名だった。

3番、24番、48番と番号と名前が綴られている。ママが真っ先に先生へと電話をしている。

 その下にある優秀賞の名前を探せば、5番とあり、橋田奏と、名前が書いてある。

 橋田奏ちゃんというのか、と僕は思った。僕は全国大会行きを決めたから、もうひとつの本選コンクールには出ない。彼女が全国大会に来ない限り、もう会うことはない。きょろきょろと会場を見渡したけれど、人混みが凄くてとても見つけられなかった。

袖振り合うも他生の縁というけれど、今回、力を貰ったのは僕の方な気がする。

 受付で番号と名前を言って、批評の書かれた封筒と、大きめの盾を受け取った。

「樹。やったわね! 先生も喜んでらしたわよ」

 ママが興奮気味に声をかけてくる。僕の夏はまだ終わらない。全国大会が終わる8月の後半まで。

「ねぇ、ママ。全国大会が終わったらお願いがあるんだ」

「なに? なんでも聞いてあげるわ」

「約束だよ、全国大会が終わったらね」

 僕はそう言ってにこっと微笑む。

 ママ、僕はこれでピアノを辞めようと思っていたんだ。

 だけどね、やっぱりピアノを弾いているのはとても好きなんだ。もし、もしも、全国でも賞を獲れたら……ピアノは続けたいんだ。

コンクールはもしできるのなら、特別レッスンをなくして良いから出てみたい。好きなピアノを弾いていきたい。力を試してみたい。

 パパに一緒に話してくれる? 僕の味方になって欲しいんだ。

 出口に向かっていた目の端に、奏ちゃんの顔が捉えられた。彼女は手を大きく振って、僕がしたように親指をぐっと差し出した。

 僕も親指を差し出す。

 ああ、泣きそうだと思う。こんなことがあるから、ピアノをやめることができない。

 たまらず人混みをかき分けて奏ちゃんの元へ走った。奏ちゃんは少し驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔になって笑う。

「全国、おめでとう!」

 なんのてらいもないその言葉に鼻の奥がつんとした。僕も笑う。

「優秀賞、おめでとう!」

 奏ちゃんはそれは嬉しそうに笑う。

 ありがとう、と心のなかで伝える。ありがとう、君のおかげでまだ弾きたいと思えた。

 僕たちは手を振り合って別れた。

 僕は夏の匂いを知らない。けれど、コンクールのこの熱狂がまさに僕の夏なんだと。僕は改めてそう思った。

 自動扉が開いて静かになった施設の外へ出ると、ひぐらしの鳴く声が響いていた。

 むわっとした暑さが僕を包み込む。 

空を見る。街の明かりで星は見えなかった。ぼくは手を空へと伸ばすとぎゅっと拳を握る。

 僕は、僕の夏をつかみに行くために、最初の一歩を踏み出した。(了)

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕らの夏のモーツァルト 深山心春 @tumtum33

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ