第3話 星を見た少女
夜の森はどこまでも暗く、その闇は無限に広がった。唯一の輝きは空にひっそりと鎮座した赤月。その異質な何かは祭典へと迷い込んだ少女を祝福しあざ笑うかのようにぎらついた笑みを浮かべていた。少女は不思議と恐怖を感じていなかった。それは赤月の異様さによる非現実さから来るものか、将又恐怖に蓋をし続けた少女の生きざまによるものかは定かではなかった。
ふと辺りの音に耳を傾ける。とうに少年らの足音など消えていた。そこにあるのは不気味すぎるほどの静寂であった。少女は近くの大木の下に座り疲れを癒すことにした。
とはいえ少女にはなんの宛もなかった。町に戻れば今度こそあの家主に殺されてしまうだろう。少年らのことも気がかりだ。彼らは無事町へ戻ったのか。もし彼らが失踪か死亡でもしていれば、行き場のない怒りと悲しみの矛先が少女自身に向くことなど明白だ。
町を出て生きようにも少女には自立して1人で生き抜く能力などありはしなかった。奴隷という身分より教育を受けてこなかった故一般教養もない。そして魔術を使うことができなかった。物覚えはいい方なので教養などは後からでもなんとかなるだろう。問題は魔術だ。ここは魔術が理を支配する世界。奴隷と言えど魔術は使えた方が使い勝手がいいと考えた家主の男は一度少女に簡単な魔術の指導をしたことがある。しかし少女は魔術を使うことができなかった。それどころか自身の魔力を操作するという誰しもが生まれた時点で当たり前のようにできることができなかったのだ。そんな落ちこぼれの少女を他の奴隷たちが感情の掃き溜め所としたことは言うまでもないだろう。この世界でこの少女程地の底を這い蹲った者などいはしないだろう。
風音1つしない森の違和感を断ち切るかのように誰かの足音が聞こえてきた。少女は木の影に隠れ耳を澄ました。足音からして二足歩行。少年らだろうか。それにしてはやけに落ち着きがある。あの少年らがこんな夜の森でこんなにも落ち着いていられるだろうか。そんなことを思案しているうちに足音の主が口を開いた。
「随分と探したんだよ。ヴィレヤちゃん。」
厚みのある声が夜の静寂の中に響く。神父だ。リュス=ヘルヴァルト神父だ。なぜこんな所へ来たのか。まさか自分を探しにはるばる来たとは思えない。少女は恐る恐る声の方向に目を向けた。
「・・・それは。」
リュスは形容しがたい笑みを浮かべてこちらに歩いていた。無数の返り血で染まった神父服と銀髪を揺らしながら。その手には長身の少年の生首と引きずりだされたであろう腸や消化管などの臓器があった。血の匂いに気づけなかったのは疲れからか、或いは家主の趣味で狩ってきた魔物をずっと捌いていて慣れていたからだろうか。
「駄目じゃないかヴィレヤちゃん。この冥刻の夜に外になんか出ちゃ。なんせ今宵は、年に一度の魔族の宴。魔族だけの世界なんだから。」
「魔族? あなた魔族なの?」
ヴィレヤは怯えることもなく、淡々と尋ねる。その様子にリュスは静かに眉を潜めた。
「あんまり驚いてないようだけど。もしかしてバレてた?それともまだ状況が飲み込めていないのかな?」
リュスはそう言うとヴィレヤに向けて生首と臓器を投げた。これ程わかりやすく脅してくるとは。目の前の魔族の短慮さに呆れたヴィレヤはある種の抵抗のつもりか、目の前に転がった生首、散らばった臓器には目も暮れなかった。その様子を見てついにリュスは激昂した。
「何を! 小娘がっ!!! クールに気取りやがって。俺様は偉大なる魔族様だぞ! ひれ伏せ! 跪き、恐れおののけ!」
リュスはそう言うと全身を満遍なく掻きむしった。黒い羽衣のような肉の鞘を纏い、顔は白骨の仮面のような姿に変貌。下半身が黒煙状に変化し、常に浮遊した状態となった。右腕が異様に長く、左手がナイフ状に変質。そして白骨化した口から伸縮自在の舌が飛び出す。
「〝
伸縮自在の舌は曲がることなくヴィレヤへと伸び続ける。ヴィレヤは何を思ってか散らばった臓器をかき集めて木の陰に隠れた。だが暗闇の中、冷静さを失ったリュスにはその様子は見えていなかった。
「いいぞ。餓鬼が。恐れ、おののけ。」
リュスは木の裏に舌を回す。リュスの下はまだ生暖かい人型の何かを感じ取った。
「捕らえた!」
リュスは人型の何かに舌を巻き付けた。そして伸縮自在の舌を縮め、それを自身の口元まで運んだ。
「な、なんだ? これは・・・。」
リュスが捕らえた何か。それは先ほどの少年の臓器だった。腸を中心に人型を象るように結び付けられていた。まるでバルーンアートかのように。
「あっ、あの餓鬼。正気か?」
リュスの舌の圧により腸内に残っていた汚物がリュスの舌へと垂れ流されていた。リュスは人を喰らう魔族とは思えぬほどの潔癖症だ。糞尿を喰らうことを避けるためあえて臓器を残して食べる習性がある。それをわかっていてヴィレヤはリュスに自身のダミーとして少年の臓器を食わせたのだ。
「おのれっ! よくもっ! あの餓鬼ぃぃぃ!」
リュスの怒号が森に響き渡る。自身の思惑通り敵の冷静さを奪うことに成功したヴィレヤは静かにガッツポーズを取る。
目の前に転がる怯えに怯え切った顔で死んだ獣の顔を見てヴィレヤはようやく理解した。なぜ自分が少年らから逃げ出したのか。あの獣らに大人しく体を差し出さなかったのか。屈辱だったのだろう。このまま地を這い蹲い他の誰かの欲を満たすために生きるなど。痛みや苦痛に耐えることなど容易い。だがこのまま屈辱を受け続ける。自身が首輪に繋がれた子犬のまま朽ち果てるなど到底許せなかったのだろう。
怯え切った少年の顔。この様子では彼はあの魔族の快楽を満たしに満たして死んだのだろう。欲に溺れ自信を襲った獣は自身の命をもってして、更なる獣の欲を満たした。
「ミイラ取りがミイラになる。少し違うけど皮肉なことには変わらないか。」
ヴィレヤは空を見上げた。赤月には目も暮れず。空に浮かぶ星だけを見つめた。ヴィレヤの目には全てが虚無に映っていた。それでもあの星々の美しさだけには、心打たれずにはいられなかった。彼らは常にギラついている。意思も何も持たない、ただの石ころ同然の彼らが懸命にギラつき命を燃やしている。遥か彼方の星に住む虚無の少女ですら眩さを感じるほどに。
「これから私は喰い殺される。それでも、ただでは死なない。ただで死んでたまるか。」
ヴィレヤは夜空の星に向けて呟いた。それは己を鼓舞する儀式だったのか、或いは自分にとっての唯一の光に対する別れとエールの言葉だったのか。ヴィレヤは木の影を飛び出した。逃げるわけでもない。ただ目の前の魔族に向かい駆けていった。華奢で色白な、小さなその手でギリギリ持てるほどの大きな石を抱えて。
「自ら出てくるとは。いい度胸だ。」
リュスは舌を伸ばした。ヴィレヤは死を悟った。悲しみも恐怖もなかった。あるのは満足感。あの少年とは違う。自分は逃げることなく戦い抜いた。この残酷な世界に立ち向かったのだと。悔いはなかった。
いや、1つだけあった。それは昔読んだおとぎ話についてだ。ある町の領主の娘の話だ。突如として町に舞い降りた魔族により民たちは皆喰い殺された。領主らも殺され、まだ幼い娘には泣きわめくことしかできなかった。そこへ1人の騎士が現れた。騎士は魔族と戦うも重傷を負わされてしまう。死を悟った騎士は娘を連れて遠くの森へと逃げた。騎士道の精神も、誇りも、生まれ故郷も捨てて。全ては娘を守り抜くために。
どこで読んだのかすら覚えていない物語だが何故だがヴィレヤにはこの話がとても印象に残っている。それはなんの力も持たず、ただただ泣きわめくことしかできなかった娘と自信を重ねていたからだろう。最もヴィレヤ自身は泣きわめくとこすらできなかったわけだが。ひょっとしたら自分は誰かに救って貰いたかったのかもしれない。痛みに耐え、苦痛に耐え、それでも生き永らえ。ある日ふと現れた誰かがごみ溜めに繋がれた首輪を断ち切る。もう大丈夫だとそっと抱きしめてくれる。そんな未来を望んでいたのかもしれない。
「〝
突如暗闇は照らされた。魔術師の少女の持つ杖は静かに優しく、しかしどこか猛々しく燃え盛っていた。再び森に静寂が訪れる。パチパチと炎の音だけが響く。天のお星さまのように鮮やかで透明な炎に照らされた少女の顔は遠い王宮からここまで迷い込んできたお姫様のように美しく、そんな哀れな姫を助けに現れた騎士のように勇ましかった。
「もう夜更けですよ。あまり大声を出さないように。特にこの冥刻の夜には。魔族より遥かに恐ろしい悪魔が出ますから。」
少女の声と共にリュスの体が灰へと変貌していく。少女の手にあった炎はいつの間にかリュスの体を焼いていた。
「き、貴様。この餓鬼・・・。こんなこともあろうかと貴様の部屋に睡眠ガスをばらまいていたというのに。」
「そんなもので私を縛っておけるとでも?」
少女の言葉を聞きリュスは小さく後ずさりをした。焼けた体を懸命に動かした。
「貴様、その、黒かっ、黒髪。まっ、まさか。オーレルって。あの、魔女オーレル!?」
「・・・その名で私を呼ばないでください。変に名前が広まっても面倒なので。」
オーレルはそう言うとリュスの前で杖を軽く振った。リュスの体は完全に灰と化し消え去った。哀れな人形喜劇の閉幕を合図するかのように吹く風の音だけが静寂の森に響き渡った。
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