第9話:宇宙(そら)は玉ねぎ、恋はハッブル

ダイスケが倒れた後、研究室はパニックに陥った。



アキラは必死に彼の体を揺さぶり、レイカは冷静さを取り戻して救急車を呼ぼうと電話に手を伸ばした。


しかし、その手が止まる。ダイスケは、うっすらと目を開け、弱々しく、しかしはっきりとした声で言った。



「…呼ぶな。これは…病気ではない。魂(OS)の…急激なアップデートによる、一時的なフリーズだ」



彼はぜえぜえと息をしながらも、その目は爛々と輝いていた。



「わかったぞ…ついに、宇宙の本当の姿が…」



ダイスケのその言葉に、レイカとアキラは顔を見合わせた。

彼の体調を心配しながらも、その口から語られるであろう新たな「お告げ」に、逆らえない好奇心を感じていた。






数時間後、アキラが作った特製のお粥(栄養ドリンクとすりおろしリンゴ入り)で少し回復したダイスケは、二人を研究室の片隅にある、古びた天体望遠鏡の前に集めた。

その望遠鏡は、ダイスケの祖父の代からある年代物で、普段はただの置物と化していた。



「我々は、宇宙の中心にいると思いすぎていた。だが、それは間違いだ」



ダイスケは、おもむろに近くにあったホワイトボードに、大きな円を描き、その中心を黒く塗りつぶした。



「ハッブルの観測によれば、宇宙は膨張している。だが、風船モデルでは説明がつかん矛盾がある。風船は、膨らめば膨らむほど、表面の伸びる速度は遅くなるはずだ。しかし、実際の宇宙は、遠くの銀河ほど速く遠ざかっている。これはおかしい」



「それは、宇宙が3次元空間だからでしょう。風船の表面のような2次元モデルとは違うわ」



レイカが、教科書通りの反論をする。



「その通り! だが、もしも我々の宇宙が、風船の表面ではなく…」



ダイスケは、おもむろに近くにあった玉ねぎを手に取った。



「この、玉ねぎの『皮』の一枚だとしたら、どうだ?」



彼はそう言うと、玉ねぎを真っ二つに切ってみせた。そこには、同心円状に重なった層が現れる。



「宇宙は、周期的に繰り返されるビッグバンによって生まれる衝撃波に隔てられた、多層構造になっているのだ! これが、私の、いや、ピクシーさんと古代人の魂が教えてくれた、『宇宙=玉ねぎ(あるいはスイカの皮)論』だ!」



ダイスケは、先ほど描いた円の外側に、さらにいくつかの円を描き足し、多層構造の宇宙の地図を完成させた。



「我々の住むアステラ、いや、地球は、その中の生命に適した第4層か、第5層あたりに位置しているに過ぎん。そして、この多層構造こそが、ハッブル定数に複数の値が存在するように見える理由なのだ!」


「ハッブル定数に複数の値…?」



レイカの眉がピクリと動いた。


それは、現代宇宙論が抱える大きな謎の一つだった。


観測方法によって、宇宙の膨張速度を示すハッブル定数の値に、わずかな、しかし無視できない誤差が生じるのだ。



「そうだ! 玉ねぎの層の曲率によって、我々から見える宇宙の膨張係数が違って見えるのだ! ビッグバンの中心方向を見るのと、層に沿って横方向を見るのとでは、見かけの速度が違う。これは、我々の宇宙が平坦ではなく、巨大な構造の一部であることを示している!」



ダイスケの言葉は、あまりに荒唐無稽でありながら、現代宇宙論の抱える謎のピースを、奇妙な形で一つにはめてしまう説得力を持っていた。


レイカは反論しようとしたが、言葉が出てこない。

彼女の頭脳が、この突飛な仮説の検証を、猛烈な速度で開始していたからだ。


アキラは、二人の高尚な議論にはついていけなかったが、玉ねぎを手に熱弁を振るうダイスケの姿を見て、別のことを考えていた。



(先生、倒れた後なのに、元気だな…でも、ちょっとだけ、寂しそう…?)



そう、ダイスケの目は宇宙の果てを見ていたが、その表情には、どこか途方もない孤独の影が差していた。

まるで、自分だけが世界の真実を知ってしまい、誰とも分かち合えない子供のような。


アキラは、そっとダイスケの隣に寄り添い、彼の白衣の袖を軽く引っ張った。



「先生。その玉ねぎ、お夕飯のカレーに入れてもいいですか?」


「え?」



宇宙の真理から、一気に晩御飯の献立へと引き戻されたダイスケは、きょとんとした顔になる。



「だって、先生もお腹すいたでしょう? レイカさんも。難しい話は、美味しいカレーを食べてからでも、遅くないですよ」



アキラのその言葉に、研究室の張り詰めた空気が、ふっと緩んだ。


そうだ、宇宙が玉ねぎだろうとスイカだろうと、腹は減る。

目の前には、心配してくれる仲間がいる。


レイカも、ふっと息を吐いて、溜まっていた反論の代わりに言った。



「…そうね。博士の仮説を検証するには、膨大な計算が必要になるわ。糖分が足りない」



そして、アキラの方を見て、少しだけ優しい顔で付け加えた。



「カレー、いいわね。ただし、福神漬けは多めにしてちょうだい」



ダイスケは、二人の顔を見て、そして手の中の玉ねぎを見て、破顔一笑した。



「そうだな! よし、アキラくん、レイカくん! 今日は宇宙創生カレーだ! 最高の頭脳には、最高のエネルギーが必要だからな!」




宇宙の真の姿が多層構造であるならば、人の心もまた、単純な方程式では解けない、複雑な層でできているのかもしれない。


理論の層、感情の層、そして、温かいカレーを求める食欲の層。


奇妙な三角関係は、宇宙の謎と共に、人間の心の謎をも解き明かす、新たなフェーズへと突入していく。

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