第6話:ピンセットは、恋のキューピッドになれるか?
ダイスケが『反重力ピンセット』の開発を宣言してからというもの、研究室は久々に本来の活気を取り戻していた。
ギャンブルにうつつを抜かしていた奇行は鳴りを潜め、三人は(そして、見えざる一人も)それぞれの能力を最大限に発揮し、試作品の設計に没頭していた。
「ピクシーさんの助言によれば、反重力場の安定には、Nマシンの回転コアに純粋なビスマスではなく、ごく微量のガリウムを添加した合金を用いるのが最適解だそうだ!」
ダイスケが、虚空からの啓示を得意げに語る。
「ガリウム…融点が極端に低い金属ね。確かに、回転による熱膨張率の変化を吸収し、安定性を高める可能性があるわ。非凡な発想だけど、理論的には筋が通っている」
レイカは、悔しいかなといった表情でそのアイデアを認め、即座にシミュレーションの計算を開始する。彼女のプライドは、見えざる妖精に負けることを許さなかった。
一方アキラは、彼女の『身体感覚』を頼りに、複雑な配線とエネルギー伝達系の組み立てを担当していた。
「先生、ここのケーブル、ほんの少しだけ張りが強い気がします。このままだと、稼働時に微細な振動を起こして、出力が不安定になるかも」
「うむ! アキラくんのその感覚は、どんな高価なセンサーよりも信頼できる! レイカくん、その振動係数も計算に入れてくれたまえ!」
理論のダイスケ、検証のレイカ、そして実装のアキラ。
そこに、時折トンデモな助言(しかし核心を突いていることも多い)を与えるピクシーさんが加わり、奇妙ながらも非常に効率的な開発チームが形成されていた。
数日後、ついに試作一号機が完成した。
それは、Nマシンから伸びたアームの先端に、対になった二つの小さな電極が取り付けられた、物々しい装置だった。
ピンセットというよりは、歯科医の使う器具のようにも見える。
実験台の中央には、テスト用のシャーレが置かれ、その中には一粒のゴマが置かれている。
「記念すべき最初のターゲットは、このゴマだ! この一粒のゴマを、我々の手で時空の束縛から解放するのだ!」
ダイスケが、いつものように大仰な宣言をする。
緊張が走る中、装置のスイッチが入れられた。
ウィーン、という静かな駆動音と共に、アームの先端から淡い青色の光が放たれる。
三人が固唾をのんで見守る中、シャーレの中のゴマが、ふわりと宙に浮き上がった。
「おお! 浮いた!」
「反重力場の形成、及び対象物の捕獲に成功!」
アキラとレイカが歓声を上げる。
「まだだ! ここからが本番だ!」
ダイスケが慎重にコンソールのレバーを操作する。
すると、浮き上がったゴマは、まるで意思を持ったかのように、ゆっくりと空中を移動し始めた。
右へ、左へ、上へ、下へ。その動きは滑らかで、驚くほど精密だった。
「すごい…完璧な制御よ…!」
レイカが、信じられないといった表情で呟く。
アキラは、喜びで目を輝かせながら、ダイスケの横顔を見つめた。
彼の夢が、また一つ形になった。
その瞬間に立ち会えることが、何よりも嬉しかった。
そんなアキラの視線に気づいたのか、ダイスケはふと彼女の方を向き、満面の笑みで言った。
「やったな、アキラくん! これも君の精密な組み立てのおかげだ!」
その屈託のない笑顔に、アキラの胸が高鳴る。
その時だった。
「博士、油断は禁物よ」
レイカが、二人の間に割って入るようにして、鋭く指摘した。
「対象物がゴマだから安定しているだけかもしれないわ。次は、質量の違うもの、例えば…そうね、その辺の消しゴムのかけらで試してみましょう」
レイカはそう言うと、自分の机から消しゴムのかけらを持ってきて、シャーレの中に置いた。
その行動は、科学者としての探究心からか、それともダイスケとアキラの間の甘い空気を断ち切りたかったからか、判断が難しいところだった。
「よし、やってみよう!」
再び装置が作動し、消しゴムのかけらがふわりと浮き上がる。
しかし、次の瞬間、事件は起きた。
消しゴムのかけらは、ゴマのように滑らかには動かず、突然、猛烈な勢いで研究室内を飛び回り始めたのだ!
「きゃあ!」
「まずい! 制御不能だ!」
暴れる消しゴムのかけらは、銃弾のように飛び交い、壁に小さな穴を開け、コーヒーカップを粉砕し、ついにはレイカがまとめていた貴重な研究ノートの束を散乱させた。
「私の論文が!」
レイカの悲鳴が響く。
パニックの中、ダイスケが叫んだ。
「ピクシーさん! どうすれば!」
すると彼はハッとした顔になり、叫び返した。
「そうだ! 対象物の質量に応じて、反重力場の周波数を変調させる必要があるのだ! レイカくん、そのノートの一番下に書かれている数式を、早くコンソールに入力するんだ!」
「え? ノートの…?」
床に散らばったノートを必死でかき集めるレイカ。
その一番最後のページ、彼女が昨日、走り書きでメモしただけの、未検証の周波数変調に関する数式があった。
「こんなもの、まだ理論上の…!」
「いいから早く!」
レイカは半信半疑のまま、その数式を猛烈な速さでキーボードに打ち込んだ。
すると、あれほど暴れ狂っていた消しゴムのかけらは、ピタリと空中で静止した。
静寂が戻った研究室で、三人はぜえぜえと息を切らしながら立ち尽くす。
ダイスケが、なぜレイカのノートの走り書きを知っていたのか。
それはピクシーさんのおかげなのか。もはや、誰もツッコむ気力はなかった。
ただ、床に散らばった論文を拾い集めるレイカの耳が、かすかに赤くなっているのを、アキラだけが見ていた。
反重力ピンセットは、物質だけでなく、人の心さえもかき乱す、とんでもないキューピッドになるのかもしれない。
そんな予感を胸に、奇妙な研究室の夜は更けていくのだった。
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