第5話:反重力の妖精は、意外と世知辛い
宇宙大輔博士に取り憑いたとされる『反重力場の妖精(アンチグラビティ・ピクシー)』、通称「ピクシーさん」との奇妙な共同生活が始まって一週間が経過した。
ダイスケは今や、この見えざる同居人との対話を日常の一部として完全に受け入れていた。
「ピクシーさん曰く、宇宙の年齢は現在の定説である138億年ではなく、実際には兆の単位を超えるらしい。我々が観測している宇宙は、玉ねぎの皮の一枚にすぎんのだよ!」
ダイスケが興奮気味に語る壮大な宇宙論を、アキラは「また始まった」と聞き流し、レイカは「その妖精とやら、査読付きの論文を発表してから語ってほしいものですわ」と冷たくあしらう。
研究室の日常は、一人と一匹(?)の存在が増えた以外、あまり変わらないように見えた。
しかし、ピクシーさんのもたらす情報は、必ずしも高尚な科学理論だけではなかった。
「うむむ、ピクシーさんが、レイカくんのPCの壁紙になっている子猫の画像について何か言っているぞ。『もっと解像度の高い画像があるはずだ。探せ』とな」
「なっ…! なぜそれを! これは私のプライベートな癒やしで…!」
レイカは顔を真っ赤にして狼狽する。
ダイスケの「透視能力」は、今や彼女のプライベートさえも脅かし始めていた。
「アキラくん、君が冷蔵庫の奥に隠している、とっておきのプリンだが…ピクシーさんによれば、賞味期限が昨日で切れているそうだ。危険だと」
「きゃあ! 私のささやかな楽しみが! っていうか、なんで知ってるんですか!」
ピクシーさんの能力は、宇宙の真理から女性陣の秘密まで、実に幅広く、そしてどうでもいいことにも遺憾なく発揮された。
そんなある日、研究室の財政状況を揺るがす大事件が勃発した。
Nマシンの心臓部である、超高純度のビスマス結晶にクラックが入ってしまったのだ。
これは実験の要であり、交換には莫大な費用がかかる。
「どうしよう…今月の研究費では到底足りない…」
アキラが青い顔で帳簿と睨めっこする。
「これでは研究がストップしてしまう…ピクシーさん、何とかなりませんかね?」
ダイスケが、神頼みならぬ妖精頼みで虚空に問いかける。
すると、ダイスケはハッとした顔になり、真剣な表情で二人に向き直った。
「ピクシーさんが、解決策を授けてくれた!」
「本当ですか!?」
「ええ? まさか、錬金術でも使うというの?」
期待するアキラと訝しむレイカに、ダイスケは自信満々に告げた。
「うむ! 週末の競馬だ!」
二人のがっくりと肩を落とす音は、研究室の床を揺るがしたかもしれない。
「ピクシーさんには、未来予知の能力もあるらしい! 明日の東京第11レース、3番の馬が鉄板だそうだ! これで一気に研究費を稼ぐのだ!」
「博士、それは科学者として、いや、人として完全にアウトですわ」
レイカは心の底から軽蔑した視線をダイスケに向ける。
アキラも「先生、落ち着いてください! ギャンブルはダメです!」と必死で説得した。
だが、背に腹は代えられない。
ダイスケは研究費の捻出のためだと聞かず、なけなしの金で本当に馬券を買いに行ってしまった。
結果は、惨敗だった。3番の馬はスタート直後につまずき、最下位に終わった。
「ピ、ピクシーさん…どういうことですか…」
研究室の隅で体育座りをし、うなだれるダイスケ。虚空から返事はない。
レイカはため息をつき、アキラはそっと温かいお茶を差し出した。
「どうやら、あなたの妖精さんは、未来予G知の精度より、人のプライベートを覗き見る能力の方が高いようですわね」
レイカの皮肉が、ダイスケの心に突き刺さる。
その夜。
すっかり意気消沈してしまったダイスケを励まそうと、アキラが夜食の準備をしていると、ダイスケが突然、深刻な顔で呟いた。
「…わかったぞ。ピクシーさんがなぜ予知を外したのか」
「え?」
「彼は、私に試練を与えたのだ。安易な道に逃げるな、と。そして、彼は我々の研究の真の価値を理解している。彼は言っている…『この反重力技術を応用すれば、金などという俗な概念を超越した価値を生み出せる』と」
ダイスケの目は、いつもの狂気じみた輝きではなく、静かで、しかし確固たる意志の光を宿していた。
「我々が作るべきは、金を稼ぐ道具ではない。世界を変える技術そのものだ。そうだ、まずは試作品を作ろう! 反重力でわずかな物体を浮かせ、その位置を精密に制御する…『反重力ピンセット』だ! これができれば、医療分野や精密機器の組み立てに革命が起きる!そうなれば、研究費など後からいくらでもついてくる!」
失敗から立ち直り、さらに大きな夢想へと飛躍する。
そのあまりにダイスケらしい思考回路に、レイカは呆れつつも、どこか惹きつけられるのを感じていた。
アキラは、そんなダイスケの横顔を見つめ、静かに微笑んだ。
これこそが、自分が愛した天才科学者の姿だった。
「よし、やるぞ! ピクシーさん、いや、我が友よ! 我々の真の戦いは、ここからだ!」
ダイスケが虚空に向かって拳を突き上げる。
反重力場の妖精の正体は、依然として謎のまま。
彼は本当に高次の存在なのか、それともただのダイスケの妄想の産物なのか。
しかし、その存在がこの奇妙な三角関係の研究チームに、新たな目標と、前代未聞の奇妙な一体感をもたらしたことだけは、間違いのない事実だった。
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