風の街で
真久部 脩
第1話:小樽、風の街で
小樽の街に初めて降り立ったのは、春が終わりを告げる頃だった。
肌を撫でる風は、港町特有の潮の匂いを運び、どこか切なげな汽笛の音が遠くで響いていた。
早瀬ささらは、慣れないキャリーケースを引きずりながら、見慣れない風景の中に立つ自分を確かめるように、深く息を吸い込んだ。
「風の街」――そう呼ばれるこの土地で、私はガラス工芸の道を踏み出すのだ。
ささらは美術大学で工芸工業デザインを学び、ガラス食器メーカーに就職していた。
しかし、自身の芸術性を活かせるわけではなく、会社と自宅との往復の日々に疲弊していた。
そんな東京での日々を捨てて、この北の港町まで来たのは、漠然とした憧れだけではなかった。
どこかで、この風が、私の心の澱を吹き飛ばしてくれるような気がしたのだ。
工房は、運河から少し入った、古い石造りの倉庫を改装したものだった。
重厚な扉を開けると、ガラスがぶつかるカランコロンという涼やかな音と、微かに熱気のこもった空気がささらを迎えた。
奥から現れた師匠は、眼鏡の奥の鋭い目でじろりとささらを見上げ、短くこう言い放った。
「今日からか。まあ、見て覚えろ」
その素っ気ない歓迎も、この街の風のように、ささらには新鮮に感じられた。
初日は、工房の掃除と道具の手入れに終始した。
埃を払い、使い込まれた道具を磨きながら、ささらは胸の高鳴りを感じていた。
ここで、自分もいつか、美しいガラスを生み出すことができるのだろうか。
夕暮れ時、師匠がささらの隣に立って言った。
「お前も、いずれあの男のようなものを作れるようになりたいとでも思って来たのか」
師匠の視線の先には、壁に飾られた一つのガラス作品があった。
それは、透明なガラスの塊に、まるで氷の結晶が閉じ込められたかのような、精緻で涼やかな切子が施されたものだった。
光を受けてキラキラと瞬くその輝きは、ささらがこれまで見たどんなガラスよりも美しく、一瞬で心を奪われた。
「あれは、うちで一番腕のいい奴が作ったものだ」
師匠は言った。
しかし、その声には、称賛だけでなく、どこか複雑な響きが混じっていた。
その「腕のいい奴」こそが、氷室晶だった。
晶との出会いは、翌日のことだった。
ささらが、言われた通りに吹きガラスの準備をしていると、工房の奥から一人の青年が現れた。
黒い作業着に身を包み、腕まくりをしたその腕には、鍛えられた筋肉が浮かんでいた。
彼の目元は涼やかで、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。
それが、師匠が言っていた「あの男」なのだと、ささらは直感した。
「先日から入りました、早瀬です」
ささらは緊張しながら挨拶した。
晶はちらりとささらの顔を見たが、何の言葉も返さず、黙々と作業台へと向かった。
その無関心な態度に、ささらは少し拍子抜けした。
しかし、彼の指先がガラス棒に触れた途端、空気が変わるのを感じた。
晶の作業は、まるで舞のようだった。
熱を加えて溶けたガラスを巧みに操り、息を吹き込み、形を整えていく。
彼の集中力は凄まじく、周囲の喧騒が一切届いていないかのようだった。
そして、彼は何よりも切子に並外れた才能を持っていた。
少し冷めかけたガラスにダイヤモンドの歯を当て、寸分の狂いもなく、氷の結晶のような模様を刻み込んでいく。
研磨されて輝きを増すガラスは、その名の通り、まるで氷が陽光を浴びて煌めくようだった。
ささらは、彼の作業に見入っていた。
彼の作り出すガラスには、どこか小樽の風のような、透明で、掴みどころがなく、しかし確実に心を捉える力が宿っているように感じられた。
言葉を交わすことはほとんどなかったが、同じ工房でガラスに向き合う日々の中で、ささらは晶の才能と、彼の作品に込められた静かな情熱に、強く惹かれていった。
工房の窓辺には、たくさんのガラスの風鈴が吊るされていた。
小樽の海から吹き込む風が、それらの風鈴を揺らし、カランコロンと涼やかな音を奏でる。
その音色は、二人の間の言葉にならない会話のように、ささらの心に深く響いた。
ある日のこと、休憩中にささらは意を決して晶に話しかけた。
「あの、晶さんの切子って、本当に綺麗ですね。まるで、本物の氷の結晶みたいで…」
晶は、一瞬だけ作業の手を止め、ささらの顔を見た。
その目は、少しだけ驚いたようにも見えた。
「風を、閉じ込めているんです」
訥々と、しかしはっきりとした口調で彼は呟いた。
それが、晶がささらに向かって発した、最初の言葉だった。
ささらの胸に、熱いものがこみ上げた。
「風を閉じ込める」
なんて詩的な表現だろう。
彼は、ささらにとってまさに「風」のような存在だった。
晶は、切子だけでなく、様々なガラス作品に挑戦していた。
特に、彼はガラスで「器」を作ることに強い興味を持っているようだった。
「この素材は、液体から固体へ、一瞬で形を変える。それが面白い」
晶は、完成したばかりのシンプルな器を掌で転がしながら、ポツリと言った。
「器ですか。難しそうですね」
ささらが言うと、彼はその器をささらの手に乗せた。
ひんやりとした重みが伝わる。
「だが、一度形になれば、ずっとそこにある。風のように移ろいやすいものも、この中に閉じ込めることができる。そう思わないか?」
彼の言葉は、ささらにはまだ難解だったが、彼の芸術への探求心と、確かな情熱を感じさせるものだった。
彼は、ガラスという素材の透明性の中に、土のような温かさや、火のような情熱を宿らせようとしているかのようだった。
季節は巡り、秋の気配が深まっていた。
師匠から、卒業制作に取り組むよう指示が出た。
ささらは、晶と一緒に制作したいと、心の中で強く願った。
ある日、師匠が晶に「お前も、そろそろ卒業制作に取り掛かるか」と声をかけると、晶は迷うことなくささらの方を見て言った。
「早瀬と、共同でやります」
ささらの胸が、ドクンと大きく鳴った。
まさか彼も、同じことを考えてくれていたなんて。
二人が選んだテーマは、「風鈴」だった。
彼の精緻な切子の技術と、ささらの持つ色彩感覚を融合させた、世界に一つだけの風鈴。
晶は、ガラスの本体に、風紋や風の流れを思わせるような流麗な切子を施し、ささらは、その切子が最も美しく映えるような、透き通った色のガラスを選び、細部の装飾を担当した。
二人で作業する時間は、言葉は多くなくとも、互いの呼吸や手の動きで心が通じ合っているのを感じるような、温かく満たされた時間だった。
「ここの曲線、もう少し強く出せませんか?」と晶が言えば、ささらは黙って何度も試作を重ねた。
「この色、晶さんの切子に合うでしょうか」とささらが尋ねると、晶は真剣な眼差しでガラスを見つめ、「…ああ、悪くない。風が、より鮮やかになりそうだ」と答えた。
時には意見がぶつかることもあったが、それもまた、互いの感性を深く理解し合うための必要な過程だった。
晶は、ささらの想像力を刺激し、ささらは晶の技術に畏敬の念を抱いた。
彼の手から生み出されるガラスは、二人の絆を象徴するかのように、ますます輝きを増していった。
完成に近づくにつれて、二人の間には、言葉にならない感情が満ちていった。
それは、ガラスが熱を帯びて形を変えるように、ゆっくりと、しかし確実に育まれる、淡い恋心だった。
ささらは、この幸せな日々が永遠に続くようにと願った。
晶もまた、時折、ささらの顔をそっと見つめることがあった。
その眼差しは、小樽の風のように静かで、しかし熱を帯びていた。
しかし、そんなある日のことだった。
工房に、一本の電話がかかってきた。
師匠が受話器を取るなり、その表情はみるみるうちに曇っていった。
耳に届くのは、「……ご病気が」「……煉様が」「……戻るしか」といった断片的な言葉だった。
晶は、師匠の顔色を伺うように、作業の手を止めていた。
電話が終わり、師匠は晶に向かって何かを告げた。
晶の表情が、一瞬で凍り付いたように固まる。
そして、彼は、一度だけ振り返り、ささらの方を見た。
その目は、これまで見たこともないほど、深く、複雑な感情で揺れていた。
ささらは、何かを問いかけようとしたが、声が出なかった。
晶は、そのまま工房の奥へと姿を消した。
ささらは、彼の急な変化に戸惑いながら、その日の作業を終えた。
次の日、そしてその次の日も、晶は工房に現れなかった。
師匠に尋ねても、「急用だ」としか教えてくれない。
漠然とした不安が、ささらの胸に広がっていった。
そして、三日目の朝。
工房に行くと、晶の作業台が綺麗に片付けられていることに気づいた。
彼の私物は全てなくなっていた。
師匠は、何も言わなかった。
ただ、壁に飾られた、あの氷の結晶のような切子の作品が、まるで彼の不在を嘲笑うかのように、静かに輝いているだけだった。
晶は、消えた。まるで、この小樽の風のように、突然、そして音もなく。
ささらは彼の姿を探しに、小樽の街を彷徨った。
港の風は冷たく、彼の残した言葉が、耳の中で木霊する。
「愛や夢や胸の鼓動なんて、今の僕にはありはしない」
それは、彼が去る前に、ただ一度だけ、自分に言い聞かせるように呟いた言葉だった。
その言葉の真意を、ささらはまだ知る由もなかった。
共作の風鈴は、完成を目前に、工房の片隅で、彼を待ち続けるかのように静かに佇んでいた。
置き去りにされたのは、風鈴だけではなかった。
ささらの心もまた、小樽の冷たい風の中で、途方に暮れていた。
(第1話 終)
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