夜は、白く燃えていた
灰谷 漸
始まりと終わり
俺は、何不自由なく生きている。
それはそれは、明るい日向のような人生だ。
社会でも、それなりに人に頼られ、信頼され、周りからの評価も悪くない。何不自由はない。
友人関係も、恋人関係も、特に問題なく順風満帆である。何不自由は、ない。
――だが、本当の心はどうなのだろうか。
毎日、死ぬことばかり考えている。
何が満たされないのだろう。
何が、この心の渇きの原因なのだろうか。
「先輩!今日、おごってくださいよ!」
そう明るく話しかけてきたのは、後輩の綾部。
こいつは人懐っこくて、世間で言う“陽キャ”である。それに爽やかなイケメン。
……憎たらしい後輩め。
だが、この性格がまた、憎めないのも事実だ。
「わかったよ。もう少しで明日の会議の資料が終わるから、待っててくれ」
「はやくしてくださいよ!もう僕、くたくたなんですから!」
そう言って、なんやかんや言いながら仕事に戻る綾部。
根は真面目なやつだから、結局ちゃんと先に明日の仕事に取り掛かる。
できるやつは、本当に困る。……自分がさぼれないから。
半刻ほどして、明日の会議資料が完成した。
綾部に声をかける。
――いつもの居酒屋。仕事終わりの一杯。
ビールだと思うかもしれないが、あいにくビールは体質か味覚か、どうにも受けつけない。
いつもハイボールで、乾いた喉を潤す。
綾部も入社してからずっと、俺と飲み続けているせいか、今ではビールは飲まず、同じくハイボールで乾杯をする。
「先輩、最近彼女とどうなんですか~」
ほろ酔いで茶化すように言ってくる。
「なにもないよ。進展も後退もない。普通だ」
淡泊に返すと、「お前はどうなんだよ」と問い返した。
もちろん、綾部には彼女がいる。このルックスでいないわけがない。
にひひ、と笑って言った。
「先輩、僕、プロポーズしたんです」
「おお、それはめでたいな。……結果は?」
「もちろん、オッケーもらいました! 二週間後に籍を入れるんです」
こいつはめでたい。今日は一段と、いい酒を呑ませてやらないとな。
……こいつには、『悪いこと』をすることになるんだから。
彼女ののろけ話、仕事の愚痴、たわいもない会話。
酔っ払って、べろべろになった綾部にタクシーを呼び、代金を渡し、
タクシーが走り去るのを見送る。
――夜中の繁華街に、ひとり取り残される。
自分の心とは裏腹に、夜が、まぶしい。
夜はもっと、暗くて、寂しくて、冷たいものであってほしい。
こんなに明るくて、にぎやかで、暖かいと、感覚が麻痺してくる。
……俺は、二週間後に死ぬつもりだ。
綾部の記念日――その日に。
帰り道、ネオンの灯りが、まるでこちらを覗き込むように揺れている。
酔いはとっくに醒めていた。だが、心はずっと霞がかかったままだ。
ガラスに映った自分の顔が、誰かに似ている気がした。
昔、学生時代に観た映画の登場人物だろうか。
笑っていた。でも目が笑っていなかった。
今の自分も、あの頃の虚構の男と、どこか似ている気がする。
電車には乗らず、しばらく歩いた。
都会は、夜中になっても消えない。
コンビニの光、タクシーのヘッドライト、スマホに照らされた若者たちの顔。
どれも明るい。明るすぎる。
そういえば、今日ひとつだけ嘘をついた。
彼女との関係は「順調だ」と言ったが、実際はもう、三週間も会っていない。
LINEも既読にならない。
理由は訊いていない。訊いてはいけない気がした。
――本当は、すでに終わっているのかもしれない。
なのに、俺は“何不自由ない”ふりをしていた。
信頼されている先輩。彼女と安定した関係を築いている男。
そういう仮面を被って、今日も笑っていた。
心の中では、ただ一つのイメージが燃えていた。
燃えて、焼けて、真っ白な灰になった夜のイメージ。
「明るい夜」
――この言葉が、最近ずっと頭から離れない。
生きていることが、まるで照明に晒されているようだ。
どこにも影がなく、逃げ場もない。
そんな光の中に晒されながら、ひとりでひとり分の演技を続けている。
信号が青に変わる。
誰もいない横断歩道を、ゆっくり渡る。
耳元で風が鳴いた。
それだけで、少し泣きそうになった。
携帯が震えた。綾部からだった。
「先輩、今日はありがとうございました! 本当にいい夜でした!」
――いい夜、か。
「そうだな」とだけ返し、携帯をポケットに沈めた。
そのまま、夜の川沿いを歩いた。
川面に、街の灯りが映っている。
まるで、川の水が光そのものになったように、きらきらと揺れている。
人が死ぬとき、世界はこんなにも美しいのだろうか――
ふと、そんなことを考える。
帰宅すると、部屋はいつもどおり静かで、整っていた。
冷蔵庫には買い置きの缶ハイボールが並んでいる。
テレビもつけず、スマホも伏せて、電気を消した。
暗い部屋の中、ひとりで飲むハイボールは、喉ではなく、心にしみた。
この感覚だけが、まだ俺を“人間”に繋ぎとめている気がする。
二週間後。
綾部の結婚記念日。
それは彼の「始まり」であり、俺の「終わり」だ。
明るい夜は、すべてを焼き尽くす。
そして、焼かれたものだけが――ほんとうの影を手にするのかもしれない。
夜は、白く燃えていた 灰谷 漸 @hi-kunmath
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