第18話 理の波紋



午後の陽が斜めに差し込む回廊を抜け、ラグナは神殿西翼――魔術講義室へと足を運んでいた。

白亜の円形回廊には人の気配が少なく、石の床に落ちる影の模様だけが時の流れを映していた。


扉の前で立ち止まったセラフィナが、いつものように控えめに頭を垂れる。


「ここから先は、主様だけの“理の時間”です。

 ……どうか、ご自身の中にある声を――見失いませんように」


ラグナは小さく頷き、深く息を整えて扉を押し開けた。


 


――第四講義円室。


静けさが支配するその空間には、既にサリウス・フェンテが待っていた。

中央の魔術円陣のそばに立つ彼の姿は、書板に浮かび上がる淡い光の中に溶け込むように静かだった。


「来ましたね、ラグナ殿」


「……お待たせしました。少し、身体を動かす訓練があって」


「それは良い。疲れは余計な思考を捨て、感応を研ぎ澄ませます。

 本日は“構造”に関する講義です。……少し理層が深くなりますよ」


「構造?」


サリウスは静かに手を動かし、書板に映る魔術陣の模様を指で撫でた。

すると、三つの円環が交差する単純な図形が浮かび上がる。


「ラグナ殿。これまでに――君は“いくつもの詠唱”を目にしてきたはずです」


「……はい。イレーネ様の《ルミナ・アルヴェン》。

 セラフィナの祈祷。自分自身の、三句構文も?」


「その通りです」


サリウスは頷き、視線をラグナの目に合わせた。

まるで今この瞬間のために、講義が積み重ねられてきたかのような静けさ。


「これらの詠唱は、用途も言葉も異なります。

 しかし、根幹にある“構造”は同じ。今日はその“詠唱体系”を明示しましょう」


 


ラグナの表情が僅かに引き締まる。


(……体系化されてる?)


これまで、詠唱とは“術を使うための言葉”という以上の意味を、深くは考えてこなかった。

だが、サリウスの口から出た「構造」という言葉には、それを裏付ける何かがあると感じられた。


 


「詠唱には、大別して三つの“様式”があります」


サリウスは書板に魔力を走らせながら、淡く浮かぶ語句を指し示した。



【1. 神語詠唱】


「王族や、特別な祈祷を担う者のみが扱う、古の言葉による詠唱。

 神聖なる血筋が持つ象徴性を介して、世界理に“祈り”を届ける様式です。

 《ルーメン・オルヴィス》――導きの光よ、我が声に応えよ……などがこれにあたります」



【2. 高位詠唱】


「神官たちが祭儀や儀式の場で用いるもの。神語と現代語を交えた詠唱構造で、

 精緻な意図と信仰の波動を同時に伝える形式。

 セラフィナ殿の祈祷詠唱もこれに属します」



【3. 実用詠唱】


「君が使ってきた“三句構文”です。

 魔素操作、戦術的運用、個人の感応性を重視した、最も即応性のある詠唱。

 理との接続を、構文によって安定させる訓練用でもあります」



ラグナは書板の上に並ぶ三つの詠唱例をじっと見つめた。

どれも形式は違うが、そこにある“リズム”や“段階”には、確かに共通点があった。


 


サリウスは続ける。


「見た目は異なっても――詠唱の根はすべて“同じ構造”です。

 始まりの句、繋ぎの句、結びの句。

 この三段構成が、“理への回路”を開く」


「……神語詠唱も、三句構文なのか」


「構文的には、そうです。

 神語は“象徴によって始まり”、

 “古の契約語で繋ぎ”、

 “祈りによって結ぶ”――ただそれを、神語と信仰の形式で包んでいる」


ラグナは言葉を飲み込むように、そっと息を吸った。


(ずっと別のものだと思っていた……だが、確かに。どれも、似た構造だ)


「高位詠唱も同様です。

 典礼としての美しさを備えつつ、構文的には非常に洗練された三段型。

 感情の込め方と構文の精度――両方が求められる高度な技術です」


 


サリウスはそこで一歩、書板から下がり、ラグナをじっと見た。


「さて。君は今、“実用詠唱”を身につけている。

 しかし、君の中に芽生えつつある“共鳴”は、

 いずれその枠を越えようとするでしょう」


ラグナの脳裏に、あの光がよぎる。

講義中、掌に灯ったはずの橙の火が、白く変じ、空気を震わせた――あの一瞬。


(……あれも、“理の反応”なのか)


「先生。あの……以前の講義で見えた“白い反応”、

 あれも、この“構文”に関係しているんですか?」


サリウスは、目を細めたまましばし沈黙した。

灯りの光が、彼の眼鏡の縁で微かに反射する。


「名を問うのは、まだ早い。

 だが――あれもまた、君の“構文”に何かが応じた結果。

 つまり、“理の外”にあるものが、君の語に反応した」


ラグナは拳を軽く握りしめた。


「詠唱が……通じた?」


「否。“接続された”のです。

 詠唱は単なる“術の鍵”ではない。

 言葉は、世界と術者の“呼吸”を合わせる“接点”です」


サリウスはそう語り、手元に浮かぶ光の文を指で弾いた。


「今後、君は三句構文をさらに“調律”していく必要がある。

 君だけの“声”を、構文の中に込めなさい。

 それが“呼応”と“共鳴”の起点となる」


 


その言葉に、ラグナの胸の奥が静かに熱を帯びた。


(構文の中に、俺の声……)


「では――今日は、その“声”を探る練習ですね?」


「ええ。灯火術の変調から始めましょう。

 揺らぎ、色、形……そのどれかが、“君の声”を映すはずです」


サリウスの声音は、いつにも増して静謐だった。

だがその奥には、確かな“期待”と“危うさ”が潜んでいた。


 


ラグナはゆっくりと掌を開いた。


――この構文が、自分の“扉”になるのなら。


いま、自分の声で、理に語りかける時だ。


静まり返った講義室に、わずかな風のような気配が流れた。

天窓から落ちる光は西へ傾き、淡い橙が床の白石を染めている。

魔術円陣の輪郭が、その光に呼応するようにかすかに揺らいだ。


サリウス・フェンテは、円の中心から半歩退きながら言った。


「――では、いつものように始めましょう。

 まずは基本構文で“灯火”を呼び、その安定を確かめてください」


ラグナは頷き、静かに両足をそろえる。

右掌を前にかざすと、指先に柔らかな魔素の流れが集まり始めた。

それは呼吸と同じ――外界から内へ、内から外へ。

理に息を合わせるようにして。


サリウスの声が静かに重なる。


「焦らず。言葉よりも先に、意図を整えることです。

 “願い”は言葉よりも早く理に届く。詠唱はその軌跡を形にするだけのものです」


ラグナは小さく息を吸った。

意図が定まると、胸の奥にわずかな震え――

魔素が応じる前触れが走る。


そして、彼はゆっくりと口を開いた。


「――燃素、我に在らず。

 指先にて掬う光は、夜の理を帯びて……

 我が願いに応じ、ここに灯れ――《灯火》」


その声は低く、しかし澄んでいた。

発声の途端、空気がわずかに張り詰める。

掌の上に淡い橙の光が生まれ、静かに揺れる。

それはまるで、息のリズムに合わせて鼓動する小さな心臓のようだった。


サリウスが静かに目を細める。


「よろしい。構文の流れは安定しています。

 では次に、“変調”を――」


彼は指先を軽く動かし、光の筋を描く。

円陣上の三つの環が、音もなく回転を始めた。


「――色を変えるのです。

 魔素の指向を変化させる。

 焦点は、揺らぎの中心。そこを見失わないように」


「……揺らぎの、中心」


ラグナは灯火を見つめた。

光は安定している。しかし――中心には、確かにかすかな“呼吸”のようなものがある。

その律動を感じ取りながら、彼は再び詠唱を重ねた。


「――燃素、我に在らず。

 この光、理の層を越えて揺らぎ、

 我が意に応じて、変われ――《灯火》」


光が一瞬、ふっと沈んだ。

まるで息を止めるように、炎がかすかに揺れる。

そして――色が変わった。


橙から、淡い青。

青から、白金。

その瞬間、空間がきしむような微音を立てた。


(……来る)


理の流れが、彼の皮膚の裏を通る。

手のひらに痺れるような感覚。

サリウスの声が聞こえたが、もう遠い。

音が水に沈んだように曖昧になっていく。


掌の上の光は、もはや炎の形をしていなかった。

粒子が浮遊し、淡い霧のように舞う。

それは“光”でありながら、まるで意思をもった存在のように揺れている。


――その瞬間。


空間の奥で、鈴のような微音が鳴った。

それは講義室のどこからともなく響き、

ラグナの胸の奥――“理核”の深い層に、何かが触れた感覚を残した。


(……誰かが……見ている?)


声ではない。

言葉でもない。

けれど、確かに“何か”が、彼の灯火に呼応していた。


サリウスが低く呟く。


「……止めなさい、ラグナ殿」


その言葉で我に返る。

ラグナは息を詰めたまま、指先を握りしめる。

灯火は一瞬、白く閃き――そして音もなく消えた。

魔術円陣の光も次第に薄れ、部屋に静寂が戻る。


ただ、空気の密度だけが微かに重い。

理の層が震えた余韻が、まだ漂っている。


サリウスは少しの間、何も言わなかった。

やがて深く息を吐き、静かに言う。


「……今のは“失敗”ではありません。

 むしろ、通常の構文では到達できぬ領域に、わずかに触れた。

 その反応――まさに“理の外”の揺らぎです」


ラグナは汗ばんだ掌を見つめた。

灯火の残滓はもうないが、皮膚の奥がまだ温かい。

そこに、何かの“記憶”のような感覚が残っている。


「……あの音。聞こえましたか?」


「ええ。私にも感じました。

 だが、あれは“音”というよりも、“理の共鳴”――

 おそらくは、君の内に宿る“もう一つの応答”です」


「もう一つの……」


サリウスは軽く首を振った。


「名を与えるのは早計です。

 今はただ、記憶しておきなさい。

 あの光の形と、胸に響いた“音”を――忘れてはなりません」


 


沈黙が落ちた。

天窓の光が西へ傾き、部屋の中に長い影をつくる。

その静けさの中、ラグナは小さく息をついた。

掌の痺れがようやく消えていく。


(……理の外の応答。

 もしそれが、本当に“誰か”の声だとしたら――)


自分がいま呼びかけているのは、果たして“理”なのか。

それとも、もっと遠い、別の存在なのか。

ラグナにはまだ分からなかった。


だが確かに、今日の灯火は――彼の願いを超えて、応えた。


 


サリウスは書板の魔術陣を静かに消しながら言った。


「本日の講義はここまでです。

 ……この現象は、私一人の観測では不十分でしょう。

 観環室に報告を上げ、理層の揺らぎを記録します」


ラグナは頷いたが、その目はまだ掌を見つめていた。

小さな光の名残が、視界の隅で揺れている気がした。


――まるで、それが“まだここにいる”かのように。




ーーー




神殿上層、円蓋の内奥――

理の流れがもっとも濃く交わる、その静域に《観環室》はあった。


常の者が踏み入ることを許されぬ、理の流れそのものを観測するための空間。

壁面を覆うのは水晶盤と銀糸の管。

そこを流れる魔素の脈動は、まるで神殿そのものが呼吸しているようだった。


部屋の中心には、七基の観測台が並ぶ。

それぞれに神官が座し、理の波形を読み取っている。

低い鐘の音が間を刻み、静寂の中でただ魔素の光がゆっくりと脈打っていた。


サリウスは扉を押し開け、静かに一礼した。


「――講義の報告を。灯火術、第二変調段階において異常反応を確認しました」


報告の声に反応して、最奥の座より神官長レメゲトンがゆるやかに顔を上げた。

白く長い髭が光を受け、銀の糸のように輝く。

その瞳は老いてなお澄み、深い湖の底のような静けさをたたえている。


「異常反応……と申すか、サリウス。

 記録としては、先ほど第七盤にも波形の乱れが出ていた。

 やはり講義中の事象であったか」


サリウスは頷き、持参した記録板を差し出す。

板面には淡い光線が走り、波形が刻まれていた。

通常の魔力波とは明らかに異なる、二重の振動がそこに描かれている。


「はい。灯火構文中に、第二句の詠唱直後、光が橙から白金に変化。

 同時に周囲の理層に反転波が走りました。

 聴覚的には“鈴のような微音”。

 この反応は術者本人――御使ラグナ殿の内部理核にも感応が生じたと見られます」


「……“鈴のような”か」


レメゲトンはゆるく目を閉じた。

周囲の神官たちが小声でささやく。

観環室の空気が、いつになく張りつめていく。


一人の若い観測神官が口を開いた。


「神官長、これは“幽応”の初期兆候では?

 理層の反応速度が通常の七倍近く――記録上は、外層共鳴に近い値を示しています」


レメゲトンは目を開け、静かに首を振る。


「軽々にその名を口にしてはならぬ。

 “幽応”は、ただの共鳴ではない。

 術者の意志を超えて、理の外より“呼ばれる”現象だ」


その声は低く、しかし一点の迷いもなかった。

サリウスは深く息を吐き、続けた。


「理の外、ですか……。

 確かに――私の見た限りでは、彼の詠唱は構文の枠を超えていました。

 意図的ではない。むしろ、向こう側からの応答のようなものでした」


「……向こう側、か。」


レメゲトンは立ち上がり、杖の先で中央の水晶盤を軽く叩いた。

微かな音とともに、空中に薄い光の層が立ち上がる。

波形が空中に拡大され、淡く揺らめいた。


「見よ。この波形。

 通常の魔力詠唱なら、発生点と終息点の間に明確な収束が見られる。

 だが――これは“開きっぱなし”だ。

 理の回路が、一瞬、閉じなかった。

 つまり、何かが呼応したままだ」


観環室の神官たちは息をのんだ。

水晶盤の光が揺れ、青白い影が壁を流れる。

静かなざわめきが、空間の奥からじわりと広がっていく。


サリウスが問いかけた。


「神官長。この反応は――危険と見なすべきでしょうか?」


レメゲトンは杖を持つ手をわずかに下ろし、深く頷いた。


「危険であると同時に、“機会”でもある。

 理の外との接触は、百年以上記録がない。

 だが、御使の身に現れた以上――これは神の意志の一端と見ねばならぬ。

 ……問題は、それが誰の意志かだ」


その言葉に、室内の空気がさらに重く沈む。

サリウスは眉を寄せた。


「“誰の”……?」


レメゲトンはサリウスに近づき、低く囁くように言った。


「かつて、“理を渡る声”を持つ御使がいた。

 その者は祈りではなく、呼び声を通じて理に触れた。

 そして最期には、“外界”と呼応したまま――姿を消した。」


「……旧記にある、ゼル=アマディウスですか。」


「そうだ。」


短い沈黙。

レメゲトンの声は、やがて小さく続いた。


「ラグナ殿の構文がその再現であるならば……

 彼は“理の外”から応答を受けている。

 それが何であれ、制御を誤れば“理層の崩壊”を招く」


サリウスの胸に冷たいものが落ちた。

思考の奥で、先ほどの白い光と鈴音が蘇る。

それは確かに、美しく、そして脆かった。

まるで“理の隙間”から漏れた純粋な意思のように。


「……制御下に置く必要がありますね。」


「そうだ。」

レメゲトンは短く言い、杖を掲げる。


「観環室は、今後一週間、“御使の魔素変動”を常時観測とする。

 特に夜半――“理層の薄まる刻”には注意せよ。

 この現象が拡大するようであれば、

 “空白の祀壇”にて封印式の準備を始める。」


観測神官たちが一斉に頷き、記録盤に指を走らせた。

水晶の光が強まり、室内に緊張の気配が張りつめる。

誰もが――これがただの“魔術実験”ではないことを理解していた。


サリウスは深く頭を下げ、静かに言った。


「……承知しました。

 彼の詠唱は、確かに“扉を叩いた”。

 ですが――その向こうに誰がいるのか、

 まだ私には、見えません。」


レメゲトンは微かに微笑した。


「それが見えてしまう者は、もう“こちら側”には戻れぬ。

 見えぬままでよい。

 我らはただ、観測する者として在ればよいのです。」


 


鐘が一度、低く鳴った。

光が静まり、観環室の空間が再び穏やかになる。

けれどサリウスの胸には、あの白い光の残響が、なお消えずに灯っていた。


(……理の外。

 それが“声”なのか、“意思”なのか。

 どちらにせよ――彼の中で、何かが目を覚まそうとしている)


静かに閉ざされた観環室の扉の向こう、

西の空はすでに暮色を帯びていた。




ーーー




神殿下層、第五祈祷廊。

薄青の灯火がゆらぎ、香炉の煙が静かに漂っていた。

静寂――その奥に、低く澄んだ祈りの声が重なる。


「理の流れよ、我らの声を受け、

 清らなる環に還りたまえ……」


唱和の声が途切れるたび、空気が柔らかく波打つ。

セラフィナは祈祷壇の前に跪き、

掌を胸の前で組んだまま、深く息を整えていた。


昼の光はすでに傾き、祈祷廊の天井からは

理光管を伝ってわずかに淡い白が落ちている。

日常と変わらぬ祈り。

けれど、彼女の胸にはどこか落ち着かぬざわめきがあった。


(……主様。いま、何を見ておられますか?)


午後の講義――あの方は“理を扱う”学びの刻にいる。

セラフィナはそう思いながらも、

ふと、胸の奥に冷たいひやりとした感覚を覚えた。


空気が変わった。

香煙がふと逆流し、光の揺らぎがわずかに乱れる。

次の瞬間、天井の理光管が一度だけ――“脈動”した。


「……今のは?」


傍らの侍女神官が顔を上げる。

セラフィナは立ち上がり、目を細めて天を仰いだ。

淡い光が、まるで呼吸するように明滅している。

それはいつもと違う、**理層の“鼓動”**だった。


(まさか……観環室で何かが?)


その瞬間――

胸の奥に、“音”が響いた。


――チリ……ン……。


鈴の音。

耳で聞いたのではない。

心臓の内側、祈りの最も深い層で、微かに鳴った。

その音と共に、掌が熱を帯び、

封じたはずの“共鳴感応”がふたたび走る。


(主様……!?)


祈祷壇の前へ歩み出た瞬間、

視界の端で光が弾けた。

祀壇奥――空白の石床の上に、淡く白い粒が舞っている。

それは形を持たず、風に散るように揺らめく。

ただの光ではない。

“意思”を帯びて――こちらを見ていた。


「……貴方は……?」


セラフィナの唇から漏れたその言葉に応じるように、

白光は一瞬、柔らかく膨らんだ。

まるで“微笑む”ように。

そして、次の瞬間には音もなく消えた。


沈黙。

香炉の煙が静かに立ちのぼる。

理光管の明滅も収まり、空気が再び穏やかさを取り戻していた。


だが、セラフィナの胸の鼓動だけが速い。

掌にはまだ、微かな温もりが残っている。


(いまのは……幻ではない。

 あの音、あの白い光――主様の“理”が……呼ばれていた)


思考がそこまで届いた瞬間、

祈祷室の扉が控えめに叩かれた。

報告を携えた神官が、息を整えながら告げる。


「……観環室より通達。

 本刻、理層に小規模な揺らぎを観測。

 念のため、全層の祈祷活動を一時停止せよ、とのことです」


セラフィナは目を伏せ、ゆっくりと頷いた。

神官が下がると、彼女は独り残された祈祷室で、

再び天井を仰ぐ。


天の光は、ただ静かに降り注いでいる。

けれど――もう知ってしまった。

その光の奥に、誰かの応えが確かにあるということを。


(……主様。

 “理”は、貴方に――触れようとしているのですね)


胸に手を当てたまま、

彼女は目を閉じ、祈りの言葉を口の中で反芻した。

その唇から零れた声は、祈りというよりも、

ただ一人の御使を案ずる“願い”そのものだった。


「どうか、その光に呑まれませんように――」


祈祷廊の奥で、理光がほんのわずかに瞬いた。

まるで、その祈りに答えるかのように。




ーーー




王都アーヴァ=セントラ。

夕陽が西塔の外壁を金に染め、王宮エルディアン城の回廊には長い影が伸びていた。

その静けさを破るように、一人の侍従が封書を携えて駆け込む。


「――王妃陛下。神殿より、急ぎの報告が届いております。」


王妃マグダレーナは、窓辺で文を読む手を止め、静かに受け取った。

白封に刻まれた印章は、確かにアマディウス神殿の紋。

彼女は封を切り、文面に目を走らせる。

眉がごく僅かに動いた。


『本日午後、観環室にて理層の揺らぎを観測。

 御使殿の講義中に発生。

 危険なし――ただし“応答反応”の可能性あり。』


簡潔だが、重大な一文。

神殿が「応答(レスポンス)」という言葉を用いるのは極めて異例だった。


マグダレーナは唇を結び、側に控える王女イレーネへ視線を向ける。

娘はすでに胸に手を当て、静かに理光の方向を見つめていた。


「……主様の講義中、ですか?」


「ええ。サリウスからの報告よ。

 理の揺らぎ――いまは“観測”として扱われているけれど、

 放置すれば、やがて“徴”と呼ばれるようになるでしょう。」


イレーネはわずかに息を詰めた。

神殿での“徴”――それは理の意思が動いた印。

だがそれをどう解釈するかで、国全体が揺らぐ。


「理が応えたのなら……それは“奇跡”ではなくて?」

イレーネの声は静かだった。

マグダレーナはその目を見つめ返し、ゆっくりと首を横に振る。


「奇跡と災いは、紙一重よ。」


扉を叩く音が響いた。

入室を告げる侍従の声。

その後ろに現れたのは、黒衣の男――宰相補佐官 兼 王妃直属顧問、

そしてかつて黎武館で王子の剣を導いた師範代、

エルンスト・ガルディアだった。


背筋の通った立ち姿は、かつての近衛団長の面影を残している。

彼は一礼ののち、報告の概要を簡潔に述べた。


「神殿観環室にて、理核の波形に異常。

 上層観測台が“二重反応”を記録したとのことです。

 サリウス殿は“御使の詠唱に理が呼応した”と解釈しているようです。」


マグダレーナが目を伏せたまま問う。

「……王家としての見解を求めているのね?」


「ええ。神殿側は当面の観測継続を提案。

 ただし――もし反応が拡大すれば、封印式を準備すると。」


イレーネが息をのんだ。

エルンストの言葉は事務的だが、その奥に明確な緊張がある。

王家にとって“封印”とは、すなわち御使の隔離を意味した。


「封印など、許されません。」

イレーネは立ち上がり、思わず声を強めた。

「ラグナ様は理を乱す方ではありません。

 理が彼に――応えたのです。」


その言葉に、部屋の空気がわずかに震えた。

エルンストは静かに目を細める。


「……“応えた”と仰るか。

 殿下、理は選ばれた者に応えることもあります。

 ですが、理は試すこともあるのです。

 秩序を試し、心を量る――それが“理の冷たさ”というもの。」


その声は厳しいが、責めてはいなかった。

むしろ、弟子を諭す師の響きだった。


カイエルがそのとき、扉の外から入ってきた。

鋼の靴音が床に鳴る。

王子の瞳は、かつて師と剣を交えた日のままの静けさをたたえている。


「エルンスト。俺は、理が何を試していようと、

 あの男――ラグナを“護る”。

 それが秩序だ。」


短く、それでいて重い言葉だった。

マグダレーナが小さく息を吐き、

イレーネがその横顔を見つめる。


エルンストはわずかに口元を緩め、

敬礼のように片膝を折って言った。


「……ならば、私はその秩序を支える剣としてお仕えしましょう。

 王子の剣は、未だ鈍らず。嬉しい限りです。」


その場に、かすかな笑みが生まれた。

だが、同時に誰もが知っていた。

その笑みの裏で、神殿と王宮のあいだに流れる静かな緊張が、

もう後戻りできない地点に近づきつつあることを。


遠く、神殿の方角から微かな鐘の音が届く。

それは理層の安定を告げる鐘――

だが同時に、“理が目覚めた”ことを知らせる音でもあった。




ーーー




夜。

王都アーヴァ=セントラの空は、雲を含んだ青白い理光に包まれていた。

アマディウス神殿で“理層の揺らぎ”が観測されたその晩、

王宮の灯火はいつになく遅くまで消えなかった。


城郭の南棟――王政諮問会議室。

そこに、ひとりの貴族が静かに腰を下ろしていた。


ヴァルター・レーヴェンハルト侯。

灰銀の髪を肩に流し、薄手の外套の裾を整えながら、

手元の杯にわずかに注がれた葡萄酒を傾ける。


その前には、若い文官がひとり、緊張の面持ちで立っていた。


「……観環室の報告書、確かに神殿から王妃陛下へ届けられました。

 御使殿の講義中に発生した理層異常、とのことです。」


「報告は公文にされるか?」


「いえ、当面は非公開とのこと。

 ただ……王城内ではすでに噂が広まり始めております。」


ヴァルターは軽く目を閉じ、唇の端をわずかに上げた。


「噂というものは、理より早く広がる。

 人は“理由”よりも“音”を信じるからな。」


「侯……?」


「放っておけ。

 ただし、理層観測記録――あれを写本にしておけ。

 神殿の印章があろうと構わぬ。

 “王国文書局の写し”という名目で回収する。」


「し、しかし、それは……!」


文官の声が一瞬、震えた。

ヴァルターは目を細めたまま、穏やかに杯を置いた。


「怯えることはない。

 これは“理”のためではない、“秩序”のためだ。

 ……神殿の理が、人の理に従うのか。

 それを確かめるだけだ。」


その声音には怒気も焦りもなかった。

ただ、冷たい観測者の静けさだけがあった。


文官が退出し、部屋に再び静寂が落ちた。

外の理光が窓を通り、壁に淡い模様を描く。


ヴァルターは独り言のように呟いた。


「御使――ラグナ=クローディア。

 理が応えたというなら、それは“理が自らを疑った”証だ。

 ならば、我らがその問いに答えてやればいい。」


彼は机上の蝋燭を指先で押し消した。

残るのは、理光だけ。

その淡い青白の中で、彼の横顔は彫像のように静かだった。


やがて扉が静かに開く。

一歩、音もなく進み出る影。

黒衣の従者――ヴァルターの密使、アストレイ・ノルン。


「侯。例の神官補より、理核観測の抄録を受け取りました。

 “異常反応の中心は御使”との注記あり。」


「……やはり、そこに在るか。」


「どうなさいます?」


ヴァルターはわずかに笑い、立ち上がった。

理光が肩に流れ、外套の銀糸がほのかに光を返す。


「観察を続けろ。

 だが、神殿の者には“関心を持っていない”顔をしておけ。

 いずれ、彼ら自身がこの不安に形を与える。

 我らが手を下すよりも、よほど美しくな。」


「はっ。」


密使が闇に消え、

ヴァルターは一人、窓辺に歩み寄った。


遠く、王都の中心にそびえる神殿の円蓋が、

淡く光を放ちながら夜気に浮かんでいる。


「……理を信じる者も、祈る者も、

 結局は“理という檻”の中にいる。

 だが――鍵を持つ者は、いつだって笑っているのだよ。」


静かな笑みが、その唇に浮かんだ。

その声は風に溶け、どこまでも淡く消えていった。


その夜、神殿の観環室では再び微弱な揺らぎが観測された。

しかし誰も、それが“人の手による波”であるとは気づかなかった。

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