第16話 理の光


王子カイエルが稽古場を後にしたのち、黎武館の空気には、まだ剣の軌跡の熱が残っていた。

真昼の光が格子窓から差し込み、板張りの床に長い影を落としている。

武具棚の金具が陽を受けて鈍く光り、熱を帯びた空気がわずかに揺らめいた。


ラグナは深く息を吐いた。

膝に残る重さと共に、胸の奥で“別の鼓動”が鳴っているのを感じる。


――理の波が、また響いたのだ。


冷たく、透明で、どこか悲しい気配。

それは風でも音でもない、魂の深層で震える“誰かの祈り”のようだった。

あの日、舞踏会の夜に感じた「目覚めの気配」と同じ。

けれど今は、さらに近く、まるで心臓の内側で鳴っているようだった。


「……まただ……この感覚……」


その呟きが空気に溶ける。

誰のものとも知れぬ“呼び声”が、理の層の奥でさざめき、

木床を伝って足元まで染み渡っていく。



同じ頃、王城の東翼。

陽の高い中庭では、祈りを終えた王女イレーネが侍女の差し出す水盤に指先を浸していた。

冷たい水が肌に触れた瞬間、胸の奥に微かなざわめきが生まれる。


「……今の……この感覚……」


それは祈りの残響ではなかった。

遠くで、誰かが――理の揺らぎに触れている。

その響きは、確かにラグナの魔力の光と似ていた。

冷たく、悲しく、それでいてどこか温かい。


イレーネは小さく息を呑み、何とは無く目をやる。

陽の傾きから察すれば、ちょうど稽古が終わる頃――黎武館の方向だった。


「……やはり、彼の理に……何かが重なっているのね。」


傍らに控える侍女が問いかける。


「王女殿下、いかがなさいましたか?」


「少しだけ……黎武館へ行ってみたいの。兄上が稽古を終えられる頃でしょう。」


その声音に迷いはなかった。

侍女と護衛が頷き、三人は王城の回廊を静かに歩み出す。



黎武館――王族と近衛騎士の鍛錬のために建てられた石造りの殿舎。

昼下がりの陽が高窓から射し込み、外回廊の白壁を金色に染めていた。

イレーネはその光を見上げ、胸の奥にまだ続く“響き”を確かめる。

理がさざめき、何かを呼んでいる――。


「……きっと、今も彼はその波の中にいる。」


護衛が先に歩みを進め、扉の前で恭しく頭を垂れる。

イレーネは深く頷き、自らの手で扉を軽く叩いた。



扉の向こう、稽古場の静寂を破る小さな音。

ラグナはその音に振り向き、少し驚いたように目を見開く。


「王女殿下……。」


「ごめんなさい。突然……。

ですが、どうしても確かめたいことがあって。」


イレーネはわずかに息を整え、言葉を選ぶように続けた。


「先ほど、胸の奥で“冷たくて悲しいのに、なぜか温かい光”を感じました。

あの夜――あなたと舞を共にした時と同じ。

でも今は、もっと近く、確かに“あなた”の理と響いていたのです。」


ラグナは目を伏せ、深く頷いた。

その言葉が、自分の体験を正確に言い当てていたからだ。


「……私も感じていました。

理の奥で、何かが目を覚まそうとしている。

それは、悲しみと祈りが交じり合ったような……誰かの願い。」


「それでも、あなたは立っているのですね。」

「冷たい理の中で――それでも光を選んで。」


イレーネの声は震えていなかった。

静かで、確信を帯びていた。

その瞳の奥には、恐れよりも深い共鳴があった。


「王女殿下……その光を、信じてくださるのですね。」


「信じたいのです。

たとえ理が乱れても、そこに“誰かを想う心”があるなら、それは悪ではありません。」


ラグナはしばらく言葉を失い、やがて静かに微笑んだ。

剣を支えに立ち上がる姿は、戦士というより祈りを受け取る者のようだった。


「ありがとうございます。

その言葉を――私の理に刻みます。」


「どうか……迷わないで。

あなたが進む道がどんな形でも、“理”はあなたを見捨てません。」


イレーネは軽く礼をし、ラグナの目をまっすぐに見つめた。

格子窓から射す午後の光が、二人の間に柔らかな金の線を描く。

それは理と理の境を結ぶ細い糸のように見えた。



黎武館を出ると、光の向こうに白銀の衣が揺れていた。

セラフィナ――。

彼女は黙って二人のやり取りを見届けていたらしく、

扉の外で小さく一礼する。


その瞳の奥には安堵と、わずかな警戒の色が同居していた。

理の波は確かに鎮まったが、まだどこかで微かに揺らいでいる。

――“目覚め”は終わっていない。


黎武館を出たラグナは、汗の感触を残したまま深く息を吐く。

稽古中の剣戟の響きがまだ耳に残っており、胸の奥では微かに理の波がさざめいていた。


「……静かな場所に戻りたいですね。」


隣を歩くセラフィナが、控えめに頷く。

白銀の裾が光を弾き、回廊の影に細く流れた。


「神殿の風は穏やかです。主様の御心も、きっと鎮まるでしょう。」


「ああ。……剣を交えるたび、何かが胸の奥で鳴る。

それが何なのか、まだ掴めませんが――悪い響きではないと思います。」


「理に触れるとは、そういうものでございます。

主様の“内”にある理が、ようやくこの世界の調べと響き合い始めているのかもしれません。」


短い対話のあと、二人はしばらく無言で歩いた。

回廊の高窓から差し込む午後の陽が、白い石の床に柔らかい金の帯を落とす。

神殿へ向かう道は静かだった。


――その静寂を破るように、控えめな靴音が近づく。


「……主様。」


セラフィナが微かに立ち止まる。

陽光の先、ゆるやかな歩調で現れたのは、黒衣の男――ヴァルター・レーヴェンハルト侯であった。

彼はまるで偶然を装うように歩み寄り、恭しく頭を垂れる。


「これは、なんという幸い。

御使様――またお会いできるとは思いませんでした。」


ラグナは穏やかに一礼を返す。


「侯爵殿。……舞踏会以来でしょうか。」


「ええ。あの夜の光景は、今も心に焼きついております。

王女殿下とのお舞、見事でした。

そして、先日お話しした小宴の件――ご多忙の折、いかがなさっておられますかな?」


ラグナは一拍置いて、少し考えるように視線を落とした。

彼の声音は丁寧だが、わずかに空気を探るような調子がある。

それをセラフィナは敏感に感じ取っていた。


「覚えております。ですが今は……まだ、己を整える時期と考えています。

いただいたご厚意、感謝いたします。」


「ああ、なんと誠実なお言葉でしょう。

ですが――整える、とは実に深い表現ですな。

人が己を整えるということは、理を知り、理を超えること。

御使様の歩みは、まさしく理の中心を照らすものです。」


ヴァルターは微笑みながらわずかに距離を詰めた。

光の加減で、その瞳の奥が冷たく光る。


「侯爵殿。」


静かな声。セラフィナが半歩、前に出た。

白銀の裾が揺れ、陽光の中に薄く輝く線を描く。


「主様は今、黎武館から神殿へお戻りの途中にございます。

長き稽古を終え、少しお疲れです。

もしご用がおありでしたら、改めて日を改めてはいかがでしょう。」


彼女の口調は礼を失わず、それでいて一歩も退かない。

侯爵は一瞬だけ表情を止め、やがて柔らかな笑みに戻した。


「……ふむ。なるほど、侍神女殿のお言葉には理がありますな。

私はただ、ご健勝を願い上げたく思っただけ。

では、この再会も理の巡り合わせと捉えましょう。

御使様の行く末に、祝福があらんことを。」


「ご厚意、感謝します。」


ラグナは淡く礼を返す。

その声音には、敬意とわずかな距離が同居していた。


ヴァルターは一礼し、黒衣の裾を翻して去っていく。

石畳を踏む音が遠ざかるにつれ、回廊には再び光と静けさが戻った。



しばらく二人は黙って歩いた。

神殿へ続く白い廊の曲がり角で、セラフィナが口を開く。


「……前にも申し上げましたが、あの方は決して無害なお方ではありません。」


ラグナは頷きながらも、わずかに目を伏せた。


「わかっています。けれど、あの方の言葉には――確かに理を語る響きがあった。

利のための言葉であっても、そこに真実の一片が混じるのかもしれません。」


「主様。」

「理は真を映しますが、人はそれを歪めて語ります。

丁寧さの裏に意図を忍ばせるのは、あの方の常。

どうか、警戒を怠らぬように。」


「……ええ。

けれど――“信じること”を手放したくはありません。

たとえ欺かれても、その中で真を見つけられるようにありたいのです。」


セラフィナはわずかに目を細めた。

その顔には、深い理解と静かな憂いが交錯していた。


「主様の御心は変わらず清らかです。

ですが、清らかさゆえに狙われもいたします。

……私が傍におります。どうか、ご自身を見失わないで。」


「ありがとう、セラフィナ。」


柔らかな風が、回廊の奥から吹き抜ける。

遠くで鳴る鐘の音が、午後の空に透明に響いた。

二人の影が並び、やがて神殿の門前へと伸びていく。


ラグナは心の奥で、ヴァルターの言葉とセラフィナの忠告を重ねた。

理の中に潜む光と影――。

その両方を、見失わぬようにと。


王城を後にし、神殿へ戻る道を歩くころには、陽はゆるやかに傾き始めていた。

外の光はまだ強いが、空気にはどこか柔らかさが混じっている。

門をくぐると、外界の喧噪が一瞬で遠のき、冷たい石と香草の香りが迎えた。


「……主様。ただいま十五刻。 講義まで一刻ほどございます。」


セラフィナが回廊の漏刻(ろうこく)に目を向ける。

水滴が一定のリズムで落ち、受け皿の金刻が穏やかに光っていた。


「思っていたより、時間があるのですね。」

「ええ。剣の後は、理を鎮める刻が必要です。」


二人は静かに歩を進め、神殿の奥、ラグナの居室へと向かう。

廊を抜けるたび、壁の文様が夕の光を受けて柔らかく輝き、

大円蓋の天井画秩序の天環が金色の残光を散らしていた。



室内では、既に侍従が支度を整えて待っていた。

香草を浮かべた清水の盆が卓上に置かれ、白布が清らかに畳まれている。

ラグナは袖をまくり、静かに手を浸した。

冷たい水が肌に触れると、稽古で残った熱がゆっくりと抜けていく。


「……この静けさが、剣の余韻を消してくれるようですね。」

「理の場とはそういうものです。

外の喧騒を離れ、己の内に戻る――それが神殿の“調律”。」


セラフィナの声は穏やかで、祈りにも似ていた。

ラグナは微笑を浮かべ、差し出された布で額の汗を拭う。

香草の清涼な香りが鼻をくすぐり、心まで澄んでいく。


やがて、侍従が儀礼衣を運び入れた。

薄灰の衣に袖を通すと、冷たい布が肌に馴染み、胸元の金糸が微かに光を返す。

稽古着の重みが消えると同時に、身体が軽く、心が静まっていった。


「……不思議だ。衣を替えるだけで、呼吸が違う。」

「衣は形の理を整えるもの。

内が鎮まれば外も静まります。――十五刻半を過ぎました、主様。」


漏刻の水面がふるりと揺れ、一筋の水滴が新しい刻を打つ。

神殿の中では、遠くから微かな祈りの声が響いていた。


「そろそろ行きましょうか。」

「はい。十六刻の鐘が鳴れば、講義が始まります。」



回廊を渡る。

外の陽は傾き、白い石壁が金色から橙に染まりつつある。

天井の光が緩やかに揺れ、神殿全体が一つの呼吸をしているかのようだった。


「……静かですね。」

「理が、夜の相に移り始めているのです。

光と影の境が最も穏やかになるのが、この十五刻半から十六刻にかけて。

魔術の講義には最も良い刻です。」


ラグナは頷いた。

歩調が自然に整い、足音が廊下の石に規則正しく響く。

祈環台の前を通ると、青い光が一瞬きらりと揺らいだ。


やがて、講義堂の前にたどり着く。

扉の向こうからは、淡い魔素の振動が伝わっていた。


ゴーン……

ゴーン……

ゴーン……


三度、鐘が鳴る。

十六刻――魔術講義の始まりを告げる音。

ラグナは深く息を吸い、扉へと手をかけた。


「十六刻、定刻です。」

「はい。」


扉が静かに開かれる。


講義堂の空気が一変する。

理の調べが静かに響き始め、夕刻の光が青白い輝きに溶けていった。


二人が入り講義堂の扉が閉じられると、外の喧騒は一瞬で遠のいた。

青白い魔素灯の光が壁面の文様を照らし、空気そのものが静かに震えている。

石板が並ぶ中央の壇上には、サリウスが立っている。

長い外套の裾が淡い光を受け、わずかに揺れる。


「お待ちしておりました、ラグナ殿。」


「本日も、ご指導をお願いします、サリウス殿。」


ラグナは深く一礼し、定められた位置に立つ。

セラフィナは少し後方に控え、白銀の裾を整えて膝を折った。

彼女の指先が静かに重ねられる。

祈りの形――それは主を守る盾であり、同時に見守る理の誓いでもある。


サリウスが軽く頷き、手にした石筆で魔素石の盤面に一線を引く。

淡い光が軌跡を描き、空中に浮かび上がる。


「今日の課題は“調律”。

まず、理の流れを知ること。感じること。

それが出来れば、言葉はあとから付いてきます。」


「……理の流れ、ですか。」


ラグナは小さく復唱し、ふと掌を見つめた。

その瞬間――脳裏に、あの日の庭がよみがえる。

書架へ向かう途中、陽光が木々の間を抜けて降り注いだあの場所。

何気なく手をかざした時、掌に“何か”が触れた。

冷たく、それでいて温かい、あの淡い光。


「……サリウス殿。ひとつ、お伺いしてもよろしいですか。」


「構いません。理に関わる疑問ならば、どんなものでも。」


「以前、午後に書架へ向かう途中で、庭に立ち寄ったのですが……

その時、手をかざすと、空気が――まるで生きているように揺れました。

そして掌に、淡い光が浮かんだのです。」


サリウスの筆先が止まった。

瞳の奥に一瞬の動揺が走る。


「……光が、ですか。」


「ええ。ですが、それが魔術だったのか……確かめる術がなくて。」


サリウスは静かに息を整えると、壇上から一歩近づいた。

理論よりも、今は感覚を見たい――そう告げるように。


「説明よりも、見せていただけますか。

理は、言葉よりも正直ですから。」


「……わかりました。」


ラグナはゆっくりと両手を開いた。

掌を上に向け、呼吸を整える。

音も、風も、静かに遠のく。


胸の奥で何かが微かに震え、世界の輪郭が淡く滲んだ。

理の流れを“掴む”のではなく、“聴く”――。

あの日の庭と同じように、ただ感じ取る。


やがて、空気が変わった。

冷たいはずの空間が、どこか温もりを帯びていく。

掌の中央に、淡い光の粒が生まれた。


それは炎ではなく、魔素の輝きでもない。

まるで春先の露が陽に透けたように、透明で、儚く、柔らかな光。

光の粒は呼吸と共に膨らみ、ひとひらの花弁のように揺れながら――

音もなく、世界の鼓動と同調した。


セラフィナはその瞬間、祈るように目を閉じる。

サリウスは、息を飲んだまま動けなかった。


「……これは――」


光はふっと脈を打ち、

ラグナの掌から微風のようにほどけ、空気の中へ消えていった。


沈黙。

石板の光がわずかに揺らぎ、講義堂の空気が再び重力を取り戻す。


「……理の式は、一つも唱えていませんね。」

「ええ。ただ、感じただけです。

理がそこにあるような気がして……触れてみたくなったんです。」


サリウスはゆっくりと息を吐き、目を見開いたまま言葉を探した。


「――それは魔術ではありません。

理が……あなたに“応じた”のです。」


ラグナは静かに掌を見つめた。

まだ、光の温もりが残っているような気がした。

それは確かに、あの日の庭の光と同じ――

けれど今は、もう少しだけ深く、自分の中に溶けていた。


「理が、応じた……?」

「はい。

通常の術者は、理を“呼ぶ”ものです。

ですがあなたは――理の方から“応え”を受けている。」


セラフィナが静かに言葉を重ねた。


「主様の理は、世界の響きと共にあります。

だから、言葉はいらないのです。理が主様を識(し)っているのです。」


ラグナはその言葉を聞きながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。

胸の奥で、かすかな脈動がまた一度響く。


――冷たく、悲しく、それでも優しい理の光。

あの日の風が、またここに吹いた気がした。


光が消えたあと、講義堂にはしばらく音がなかった。

ただ、淡い魔素灯の揺らめきだけが、静かに三人の間を満たしている。


サリウスは掌を見つめたまま立ち尽くし、言葉を探していた。

ラグナはゆっくりと息を吐き、光の消えた手を握る。


「……いまのは、やはり……私が?」


「そうです。」

サリウスは短く答え、だがその声音には震えがあった。

「ただ……“使った”のではない。

理が、あなたを媒介として現象を示したのです。

私の知るどの術式にも、今のような反応はありません。」


ラグナは少し首を傾げる。

彼にとって理は、まだ“教わるもの”であって、“使うもの”ではない。


「私が呼んだのではなく、理のほうが――応えた、ということでしょうか。」


「はい。理は通常、呼びかけにしか応じません。

しかし今の現象は、あなたの意思より先に“理の側”が動いていた。

言葉を使わず、詠唱もなく、形だけで……まるで、あなたを知っているかのように。」


「知っている……?」


サリウスは軽く顎に手を当て、難しい表情で沈黙した。

一方、セラフィナがその静寂をやわらげるように、静かに口を開く。


「主様の理は、この世界の理と同じ“調べ”を持っております。

ですから、理が主様を識(し)るのは自然のこと。

かつての御使様――ゼル=アマディウス様も、言葉より先に理を歩まれました。」


サリウスの眉がわずかに動いた。

神殿の伝承に語られる名が、現実の現象として重なった瞬間だった。


「……まさか、同じ現象が再び……?」


「違います。」

セラフィナの声は、やわらかくも確信を帯びていた。

「主様は“似て”おられるだけ。

ですが、理が応えるという点だけは……おそらく、同じ流れの上にある。」


ラグナは、二人の言葉を静かに聞いていた。

その瞳には恐れではなく、静かな興味の色がある。


「……感じるのです。

理は遠くにあるものではなく、息をすれば触れられるような――そんな近さで。」


「理を近くに感じるのは才能ですが、時に危うさでもあります。」

サリウスが低く言った。

「理は慈しみもすれば、飲み込むこともある。

あなたのように“応えられる”存在は、理の均衡に影響を及ぼすかもしれない。」

「それでも、放っておくことはできません。」

ラグナは静かに首を振った。

「この光が、何かを求めていた気がしたんです。

まるで――“覚えてほしい”と。」


セラフィナのまなざしがやわらかく揺れる。

その表情には、祈るような温かさと、言葉にできない不安が混じっていた。


「主様……そのお言葉は、まるで理そのものの声のようでございます。」


「声?」


「ええ。理は沈黙のうちに語る。

そして主様は、その沈黙を“聴いてしまえる”お方なのです。」


サリウスは息を吸い込み、少しの間、沈黙した。

彼の理論が、信仰の言葉と交わることは滅多にない。

しかし今だけは、その差異が不思議な調和を見せていた。


「……どうやら、我々の常識では測れない領域に足を踏み入れたようですね。」


「それは、危険という意味ですか?」


「危険でもあり、恩恵でもある。」

「あなたは理に“選ばれている”。

だからこそ、扱い方を誤れば、理があなたを包み込んでしまう。」


ラグナは小さく息を吐き、掌をもう一度見つめた。

光はもうない。

けれど、目を閉じればまだその温もりが感じられる。


「……理に選ばれる、か。

私はまだ、それが何を意味するのか分かりません。」


「今はそれで良いのです、主様。」

セラフィナが穏やかに微笑む。

「理を知るのは、生きることと同じ。急げば、見失ってしまいます。」


「……焦るつもりはありません。

ただ、この光が“何だったのか”を確かめたい。」


サリウスは軽く頷いた。

その瞳には研究者としての好奇心と、導師としての敬意が混じっていた。


「では次の講義から、調律式の構文ではなく“共鳴式”を扱いましょう。

あなたが今感じた現象の、理論的な根拠を探るために。」


「ありがとうございます、サリウス殿。」


「礼はいりません。

……私も知りたいのです。理が“何を見ているのか”を。」


三人の間を、柔らかな沈黙が通り抜けた。

外の鐘が遠くで鳴り、十六刻半を告げる。

その音は穏やかで、まるで理が小さく微笑んでいるようだった。


講義堂の空気は、まだ光の余韻を残していた。

水面のような静けさの中で、サリウスは再び石板に向かう。

淡い筆致で描かれる線が、青く脈を打ちながら宙に浮かんだ。


「……ラグナ殿。

いまご覧になったこれは、“共鳴式”と呼ばれる術式構造です。」


「共鳴式……?」


「ええ。通常の調律式は、理の流れを外から“整える”構文ですが、

共鳴式は“理の層”に触れる。

外の流れではなく――理そのものの心拍に、耳を傾けるのです。」


サリウスの指先が、宙に描かれた線をなぞる。

光が波紋のように広がり、講義堂の空気が一瞬だけ震えた。


「あなたが先ほど見せた光は、この層から来ています。

理の外殻ではなく、内層……“理核(りかく)”と呼ばれる領域です。」


ラグナは静かに頷き、目を細めた。

「理核」――その響きが胸の奥の何かを震わせる。


「理核は、世界を形づくる最も純粋な響きです。

それに触れる者は多くありません。

しかし、御使であるあなたは――おそらく、生まれた時からそれを“聴いていた”。」


「聴いていた……?」


「ええ。

あなたの中の理は、世界の調べをそのまま受け取る器のようなもの。

だからこそ、詠唱も、意図もなく理が反応する。」


サリウスは一度言葉を切り、表情を引き締めた。


「ただし、それは同時に危ういことです。

理核は安定もすれば、崩壊もする。

触れ方を誤れば、あなたの意識そのものが理に溶けてしまう。」


セラフィナが静かに進み出る。

その白銀の衣が、光を受けて柔らかく揺れた。


「――主様。

だからこそ、理を“使おう”となさらないでください。

理は命と同じ。求めれば、逆に離れてしまいます。」


ラグナは視線を落とした。

掌を見つめ、かすかに微笑む。


「……感じるだけで、十分なのかもしれませんね。」


「はい。いまの主様のように。」


サリウスは少し微笑んだ。

だがその瞳の奥には、強い知的探究の光が宿っている。


「次の講義では、理核に至る“境”を観測します。

それはあなたの力を測るためではなく、

理そのものが何を求めているのか――を知るために。」


「……理が、何を求めているか。」


「はい。理は常に循環しています。

それは命の流れ、魂の流れと同義。

もしあなたに応じたのなら、それは“呼ばれた”ということです。」


セラフィナがわずかに顔を上げる。

その瞳には、深い祈りの光があった。


「――呼ばれた、ですか。」

「ええ。

それは恩寵かもしれませんし、警鐘かもしれません。

理は時に、均衡を正すために人を介します。

ゼル=アマディウス様の時も、そうであったと聞きます。」


ラグナは小さく息を飲んだ。

“ゼル”という名が、胸の奥で静かに響く。

そこに懐かしさとも痛みともつかぬ波が広がった。


「……それでも、私が応えなければならない気がするんです。

理が呼ぶなら――私も、答えたい。」


サリウスはその言葉に、ゆっくりと頷いた。


「その意志を持つ限り、理はあなたを拒まないでしょう。」


セラフィナは一歩進み、ラグナの傍らに膝をついた。

白い衣が床に流れ、光が彼女の髪を縁取る。


「主様。

どうか、その声を聴く時は、孤独の中で聴かれませんように。

私はいつでも傍におります。

理の沈黙に囚われそうな時は、どうか呼んでください。」


ラグナは小さく笑みを返す。


「ありがとう、セラフィナ。……きっと、呼びます。」


サリウスが石筆を置いた。

講義堂の灯がゆっくりと落ち、

青白い光の名残が壁面の文様に残る。


「――本日の講義は、ここまでです。

十七刻の鐘が鳴る前に、理の記録を整えておきます。」


「ありがとうございました、サリウス殿。」


「いえ。

今宵、私は眠れそうにありませんね。

理の応答を“観測”したのですから。」


セラフィナが微笑み、ラグナを促す。

二人が講義堂を出ると、外の光はもう夕刻の色に変わっていた。

橙の空に、鐘の音が遠く響く。


十七刻――理が夜の相へと移る時刻。


ラグナは歩きながら、ふと掌を見つめた。

そこにはもう光はなかった。

けれど確かに、あの“静かな声”がまだ残っていた。


「――理が、呼んでいる。」


その呟きは、誰にも届かず、

神殿の高い天蓋に吸い込まれていった。


十七刻の鐘が鳴り終えたころ、神殿の食堂には温かな灯がともっていた。

昼の光がすっかり褪せ、壁面の燭台に映る火が静かに揺らめいている。

卓上には、香草を添えた白身魚の蒸し物と、薄く焼いたパン、澄んだスープ。

神殿らしい質素な献立だが、どれも丁寧に整えられていた。


ラグナは席に着くと、軽く手を合わせる。


「……今日も、与えられし糧に感謝を。」


向かいにはセラフィナが座り、同じように祈りの姿勢を取る。

白い指先が静かに組まれ、祈環の印を描いた。


一瞬の沈黙ののち、二人は同時に息を整え、食事を始めた。

外では、神殿の渡り廊を渡る風が微かに笛のような音を立てている。


「……今日の稽古、いかがでしたか?」


セラフィナが穏やかに問いかけた。

ラグナは少し笑みを浮かべ、スープの匙を静かに置く。


「身体よりも……心のほうが疲れました。

剣を振るたびに、自分が何を“守りたい”のかを問われているようで。」


「主様のお言葉は、まるで理の響きのようです。

“守る”という意志は、剣にも、理にも通じますから。」


ラグナは少し首を傾げ、ふと笑った。


「理にも、ですか。」


「ええ。理は、ただの法ではありません。

世界を調和させる“意志”です。

主様が剣を振るう時、誰かを傷つけるためではなく、秩序を護るためであるように。」


その言葉に、ラグナはゆっくり頷いた。

セラフィナの語る“理”は、サリウスのそれよりもずっと柔らかく、人の温もりを帯びている。


「……サリウス殿も、同じようなことを言っていました。

けれど彼の言葉は、どこか冷たく響くんです。

まるで理そのものが、遠い存在のように。」


「それが理を“学ぶ者”の道です。

サリウス様は理を解析される方。

私は理を“祈る”者。

同じものを見つめても、手を伸ばす方向が違うのです。」


ラグナは少し考え込み、やがて目を細めて言った。


「セラフィナは……理を怖いと思うことは、ないのですか?」


一瞬、彼女の動きが止まった。

匙を静かに置き、柔らかく微笑む。


「ありますよ。

理は優しくもあり、冷たくもあります。

私たちの祈りを聞き届ける一方で、何も語らない時もある。

だからこそ――私は、祈るのです。」


「……語らないから、祈る。」


「はい。

沈黙を恐れるのではなく、その中に意味を見つける。

それが、神殿に仕える者の信仰です。」


ラグナは彼女の言葉を噛みしめるように、しばらく黙った。

炎の光が二人の間を照らし、食堂の静けさがやさしく包む。


「……理は今日も、何も語りませんでした。」


「ですが、主様には“応え”ました。」


「ええ……確かに。

まるで、どこかで私を知っているような――そんな気配でした。」


セラフィナは小さく頷く。

その眼差しは、まるで光を讃える泉のように穏やかだった。


「それはきっと、理が主様の歩みを見つめている証。

そして――その歩みが孤独でないことを、理は知っているのです。」


ラグナはその言葉に、ゆっくりと息をついた。


「……孤独でない、か。」


「はい。

主様の傍には理があり、私たちがいます。

それでも、もし理が沈黙を保つ夜が来たなら……

どうか、その沈黙の向こうに、私たちを思い出してください。」


ラグナは少しだけ目を伏せ、そして柔らかく微笑んだ。


「……ありがとう、セラフィナ。

きっと、忘れません。」


二人は再び静かに食事を取り始めた。

窓の外では、夜の帳がゆっくりと降りてくる。

遠くで鐘の音が一つ――十八刻を告げた。


その音を聴きながら、ラグナは小さく呟いた。


「――今日は、良い日でしたね。」


「ええ。主様が歩まれた一刻一刻が、理の調べに似ておりました。」


そして、二人は燭火の下で微笑みを交わす。

その穏やかな光が、次に訪れる夜の“揺らぎ”を、まだ知らぬままに――

神殿の静けさへと溶けていった。


夕食を終え、二人は食堂を出た。

神殿の回廊には、夜の気配がゆっくりと降りていた。

燭火に代わって灯された魔素灯の光が白く揺れ、

壁面の文様が淡く浮かび上がる。


「……今夜は穏やかですね。」


「ええ。理が静まる夜は、世界がよく息をしています。」


セラフィナの声は柔らかく、風よりも静かに響いた。

彼女の白銀の衣が夜気に揺れ、祈りの香草の匂いがほのかに漂う。


「今日は……長い一日でした。」


「主様にとって、理と剣が同じ日に響いたのは初めてですもの。

どうか今夜は、心を休めてください。」


「……はい。」


短い会話のあと、二人は星空を仰いだ。

天を覆うように広がる夜の幕は、まるで理そのものの静寂のようだった。

遠く、祈環台の金属の輪が微かに音を立て、

世界の息吹がひとつ、またひとつと調律されていく。



やがて、ラグナは自室に戻った。

灯を落とすと、部屋の中には月の光だけが残った。

衣を整え、寝台に腰を下ろす。

掌を開けば、そこに――まだ微かな温もりがあった。


「……応えたんだ、あの光が。」


囁くように呟き、静かに目を閉じる。

呼吸が深くなるたびに、心の輪郭が溶けていく。

世界の音が消え、沈黙だけが残った。



気づけば、空気の色が変わっていた。

夢――なのだろうか。

境界のない場所に、彼は立っていた。


音はなく、風もない。

けれど確かに“流れ”がある。

それは昼間、掌で感じた理の波に似ていた。


そして――その流れの奥から、声がした。


(……あなたは……)


耳ではなく、胸の奥で響いた。

声とも光ともつかぬその響きが、

世界の静けさの中を通り抜けてくる。


ラグナの掌の上に、ひとすじの光が生まれた。

それは炎ではなく、露のように儚く、

しかし確かに生きている光だった。


光は膨らみ、花弁のように揺らぎ、

やがて人の影にも似た輪郭を描いた。


「……誰、ですか……?」


返答はなかった。

ただ、光が震え、

そこから“想い”のようなものが流れ込んできた。


悲しみ。

優しさ。

そして――祈り。


そのすべてが、

言葉よりも深く、静かにラグナの心へと染み込んでいく。


(――また、ここに……)


そう聴こえた気がした。

けれど次の瞬間、光はふっと淡くなり、

霧のように空気へ溶けて消えた。



目を開けると、部屋は再び闇に包まれていた。

窓辺の月光が床を照らし、白く淡い影をつくる。

ラグナは息を整え、掌を見つめた。


何も残っていない。

それでも、あの光の温もりだけは確かにあった。


「……誰だったんだ……?」


呟きは闇に吸い込まれる。

けれど耳の奥には、まだ残響があった。


それは、

理の沈黙のさらに奥――

世界の深い場所から響いてくる、

言葉にならない“誰か”の祈り。


名も、形もない。

ただ、呼びかける者としてそこに在る。

ラグナは胸に手を当て、その微かな鼓動を確かめた。


遠くで、神殿の夜警の鐘が鳴る。

十九刻――神殿が眠りにつく時。


鐘の余韻が消えたあとも、

ラグナの耳にはその“声なき声”がかすかに残っていた。


それは、夜明けとともに再び訪れるであろう“理の揺らぎ”の始まりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る