第15話 幽応
まだ空の端に薄い藍が残る頃、扉を「コツ、コツ」と叩く音。
「……主様、セラフィナでございます。お目覚めでしょうか」
「はい。どうぞ、セラフィナ」
扉が静かに開き、白衣を整えた彼女が一礼する。
「おはようございます、主様。――ご気分はいかがですか」
「よく眠れました。……少し、胸が騒いでいますけど」
「それは良い兆しでございます。心が“歩む”準備をしている証でございますから」
セラフィナは机に銀盆を置き、湯気の立つ湯と白い布を示す。「本日も、清めを」
ラグナは立ち上がり、窓辺に目をやる。
「……今日、正午に黎武館、ですね」
「はい。王宮よりの書状に相違ございません。ご出立は、第二刻半過ぎを予定しております」
彼女は薄布を肩に掛けつつ、柔らかく目を細める。
「怖れは、ございますか」
ラグナは少し考え、頷く。
「……少し。でも、それ以上に“確かめたい”気持ちが強い」
「では、その“確かめたい”を、まずは指先へ――清めの所作に込めてくださいませ」
セラフィナが白布を差し出す。
「主様の息――ひとつでよろしいのです。息を整え、流れを通すだけで」
ラグナは布を受け取り、湯に浸す。
「ふぅ……」
額、こめかみ、胸へと、静かに。湯気の香草がふわりと昇る。
「……祈りの文を、ひとつ」セラフィナが囁く。
「我が声、理の環へ返らん――」
ラグナが続ける。
「苦しみは石に、喜びは風に、心は調律となりて――今日を歩む我を、正しき環の中へ」
「よろしゅうございます」
セラフィナは頷き、銀盆を脇へ引く。
「今朝の主様は、昨日より音が澄んでおられます」
「音、ですか」
「ええ。言葉にも、動きにも、音は宿ります。主様の“迷い”は消え切ってはおりません。ですが――」
彼女は一歩近づき、低く穏やかに言う。
「“逃げるための迷い”ではなく、“見極めるための迷い”でございます」
ラグナは小さく笑った。
「……心強い解釈ですね」
「侍神女の務めでございます」
セラフィナは衣桁から淡い青と白の衣を取り、胸元の縫いを確かめる。
「本日は、動きやすさを優先した仕立て。肩と肘にわずかに余裕を――剣を握る“手”の呼吸を妨げません」
「お願いします」
「失礼いたします、主様」
彼女の指先は相変わらず無駄がない。帯を通し、結び目を整える。
「帯は少し低めに。腹で呼吸ができるようにしておきましょう」
ラグナは試しに深く息を吸い、吐く。
「……楽です」
「良うございます」
セラフィナは最後の裾を払って一歩下がる。
「整いました」
窓辺の光が少し強くなる。ラグナが空を一瞥する。
「昨日、“空白の祀壇”でレメゲトン殿と話しました。――名を刻まないということについて」
セラフィナはわずかに目を和らげる。
「神官長は、時に“答えではなく余白”をお与えになります。その余白に、主様ご自身の言葉が書かれていくのです」
「僕の言葉で、ですか」
「はい。主様の剣もまた、言葉です。“何を奪うか”ではなく、“何を語るか”。――本日、王子殿下は、その言葉を聴かれるでしょう」
ラグナは軽く拳を握り、開く。
「語れるでしょうか」
「語らねばならぬ時は、語れます」
セラフィナは微笑を保ちながらも、声にだけ芯を通す。
「ただし、ひとつ約束を。――“自分を傷つけてまで正しさを証明しようとしないでください”」
ラグナは目を瞬く。
「……僕、そんな風に見えますか」
「見えます」即答。
「主様は、他者の痛みに敏感であられます。その優しさが、時に“自己犠牲の衝動”を呼びます。剣の場で、それは危うい」
ラグナは苦笑し、頷く。
「……気をつけます」
「ありがとうございます」
セラフィナは手を合わせる仕草で小さく礼をし、卓へ歩く。
「では、お口を整えましょう。本日は出立が早うございますので、軽めに」
卓には温かな麦粥と、薄い香草のスープ、小さな白パン、そして花蜜の茶。
ラグナが席に着くと、セラフィナは少し離れて立つ。だが今朝は、半歩だけ近い。
「セラフィナ、そこに――座っては?」
「……主様の御前で、わたくしが?」
「話を、したいんです。食事をしながらでも」
ひと呼吸ののち、彼女は控えめに腰を掛けた。
「僭越ながら。では――いただきます」
「いただきます」
匙が器に触れる音が、静かに重なる。
「王子殿下は、“秩序”の象徴なんですよね」
「はい。殿下は“形を保つ勇気”を持たれます。――主様は“流れを信じる勇気”をお持ちです」
「形と流れ……ぶつかりますか」
「ぶつかった時は、“響かせる”のです」
彼女は花蜜の茶を少し傾ける。
「サリウス殿の言で申せば、『術は命ずるのではなく、理を聴き、響かせ、共に在るための技』」
ラグナは小さく笑う。
「サリウス殿、聞いたら喜びますね」
「照れ隠しに咳払いをなさるでしょうね」
ふっと、二人の肩が緩む。
「……もし暴れてしまったら、どうしましょう。僕じゃなく、力が」
セラフィナは即座に首を横に振る。
「“力が勝手に暴れる”ことはございません。――“願い”が行き場を失う時、力は迷子になります。迷子にさせないでください」
「迷子に、させない……」
「はい。願いを、はっきり抱いてください。“守りたい”で構いません。足りないなら、“確かめたい”でも良いのです」
ラグナは匙を置き、胸に手を当てる。
「……守りたい、確かめたい。――今は、その二つです」
「充分でございます」
セラフィナは立ち上がり、衣の裾を軽く整える。
「では、支度の仕上げを。剣帯の位置、手袋のサイズ、靴底の確認をいたします」
「お願いします」
剣帯を腰に回し、留め具を「カチリ」。
「重さは」
「ちょうどいい」
手袋をはめる。
「指先は?」
「詰まりません。……呼吸も、できます」
セラフィナは満足げに頷くと、半歩下がり、まっすぐ見つめる。
「主様」
「はい」
「本日の約束を、もう一度」
指を一つ、二つと折る。
「ひとつ。自分を傷つけてまで、正しさを証明しないこと」
「ふたつ。願いを迷子にさせないこと」
「みっつ。――戻ってきて、わたくしに“どうだったか”を話すこと」
ラグナは目を細め、笑う。
「三つ目は、契約ですか」
「はい。侍神女の勝手な契約でございます」
「……わかりました。必ず、戻って話します」
セラフィナは深く一礼し、低く澄んだ声で結ぶ。
「理の環が、主様の歩みに調律を与えますように」
藍の残滓は薄れ、金の光が部屋の縁をなぞる。
支度は整った。静かな朝の音が、ひとつ、終わり――ひとつ、始まる。
神殿の鐘が三度、ゆるやかに鳴り響いた。
ラグナは剣帯を調えながら、鏡に映る自分の姿をじっと見つめていた。
白と青の衣、その腰に帯びた一本の剣――まだ馴染みきらぬ重みが、胸の鼓動と同じ拍で微かに揺れる。
「……少し、手が震えていますね」
セラフィナは微笑み、軽く首をかしげる。
「緊張、というより……“呼吸が合っていない”のかもしれません」
ラグナは小さく息を整え、苦笑する。
「心が先に走って、身体が追いつかない感じです」
「ならば、合わせましょう。息を――吸って、吐いて。はい、その調子で」
セラフィナは肩に手を添え、呼吸の流れを導くように言葉を紡ぐ。
空気の流れが穏やかになり、室内の光が一段やわらぐ。
ラグナの表情も少し緩んだ。
「……ありがとうございます。少し落ち着きました」
「主様は、“誰かを守る”ときの呼吸は自然と整います。
けれど、“自分を整える”ときには、少し不器用になるようですね」
ラグナは肩をすくめる。
「かもしれませんね」
そのとき、戸口の方から軽い足音。
振り向くと、深青の法衣をまとったサリウスが立っていた。
「おはようございます、ラグナ殿。――入ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです、サリウス殿」
サリウスは軽く礼をして室内に入ると、ラグナの立つ姿を一瞥し、満足げに頷いた。
「ずいぶん“地に足の着いた”立ち姿になりましたね。剣は“心”よりも先に足に現れる。良い兆しです」
「……そうでしょうか。まだ、少し不安もありますが」
「不安があるうちは、大丈夫です」
サリウスは短く笑い、指先で軽く空を示した。
「恐れを知る者ほど、理に誠実ですから。今日は講義ではなく、助言を三つだけ申し上げます」
ラグナは姿勢を正す。「お願いします」
サリウスは淡々と指を折っていく。
「一つ目――“願いを一点に”。
戦いの最中にあれもこれも考えれば、魔素は迷います。
『守る』なら、『守る』ただそれだけを思いなさい」
「……はい」
「二つ目――“呼気で固定”。
吸うよりも、吐く。吐き切る間に意志を握って離さないこと。
息が乱れれば理も乱れます」
ラグナは深呼吸しながら頷いた。
「吐く……それが、支えになるんですね」
「ええ。そして三つ目――“過負荷の中断句”。
心の中で良い、“ノタ・ステータ”と唱える。意味は、『ここで止まれ』。
術や力が暴走しそうなとき、それが“理に戻る鍵”になります」
ラグナはその言葉を小さく繰り返した。
「……ノタ・ステータ。心で言うだけでも、届くんですか?」
「届きますとも。理は耳ではなく、意志を聴く。
ただし――“本気で言う”こと。半端な呼びかけには応えません」
セラフィナが静かに横から補う。
「“理を聴く者”であれ、ですね。主様」
ラグナは二人の顔を見比べ、息を整えた。
「……覚えました。忘れません」
「よろしい」
サリウスは微笑み、法衣の裾を整える。
「剣は命じるための棒ではなく、“響かせる器”。
殿下の秩序と、あなたの流れ――両方を鳴らしてご覧なさい」
「……響かせる、ですか」
「はい。力を合わせるのではなく、響かせる。
それが今日の“課題”です。答えは、戻ってきたときに聞かせてください」
ラグナは深く頷いた。
「必ず、戻って話します」
「では、私はこれで。午後の講義は十六刻――忘れずに」
サリウスは一礼し、静かに部屋を後にした。
扉が閉まると、空気が少しだけ柔らかくなる。
ラグナは剣帯を締め直し、セラフィナに目を向けた。
「……行きましょうか」
「はい。馬車はすでに門前に用意してあります。
少し肌寒いので、上掛けをお持ちください」
セラフィナが白い薄布を手渡す。
その手が触れる一瞬、ほんのかすかに温かい。
「ありがとうございます。……この布、香草の香りがしますね」
「ええ。鎮静の効果がございます。主様が落ち着いて呼吸できるように、昨夜から仕込んでおきました」
ラグナは小さく笑う。
「用意周到ですね」
「侍神女の心得でございます」
二人は廊下に出た。
白い石の回廊を歩くたび、足音が柔らかく響き、遠くで神官たちの祈りの声がかすかに重なる。
天井窓から差し込む光が、彼の肩と剣に静かに反射した。
「主様」
歩きながら、セラフィナがぽつりと呟く。
「本日のお心の音、先ほどよりもずっと澄んでおります」
「音?」
「はい。主様のお言葉にも、理の流れにも“音”があります。
……今は、それがよく通っています」
ラグナは少し照れくさそうに笑い、頷いた。
「なら、いい日になるかもしれませんね」
「ええ、きっと。――主様の“道”が、今日ひとつ、形を得ますように」
やがて二人は神殿の正門へと辿り着く。
───
馬車は王都の石畳を抜け、やがて
鋳鉄の門扉が左右に開き、槍を立てる衛士たちの列が、きびすをそろえて斉(そろ)いの音を刻む。
その律動が胸の鼓動と重なり、ラグナは小さく呼気を吐く――“吐くほうを長く”。サリウスの助言を思い出す。
「主様、到着でございます」
セラフィナが囁く。声はいつも通り穏やかだが、その瞳の奥には張り詰めた糸のような集中が宿っていた。
扉が外から開かれ、王城侍従が恭しく身を伏せる。
「主様をお迎えに上がりました。控えの間までご案内いたします」
ラグナは一礼し、地へ足を置く。
白砂利のわずかな沈みと、石段の冷ややかさが足裏に本物の重みを伝える。
――足から始める、か。
自分にだけ聞こえる声で、心の中に小さく言い返す。
回廊を抜ける。
壁面には薄藍の織り紋、王家の紋章。
縦に切られた高窓から差し込む光が床の石目を白く洗い、足音は毛足の短い敷物に吸い込まれていく。
「主様、段差がございます」
ごく小さな段を、セラフィナが袖で示す。
ラグナはうなずき、歩幅を変えずに乗り越えた。
やがて小さな扉が開き、控えの間へ。
無駄のない家具、低い卓、壁際に整列した水差しと清潔な白布。
広くはないが、息が静かに通る設えだ。
侍従が一枚の盆を差し出す。
「薄い花蜜水でございます。お喉を軽く潤されますよう」
ラグナは受け取り、一口含む。
ほんのりとした甘さが舌の奥から胸に落ち、波立つ水面が静まるように、鼓動が半拍だけ遅くなる。
セラフィナが、卓上の小さな鏡をこちらへ向けた。
「主様、襟元を――はい、少しだけ」
指先が一瞬で形を整え、帯の角(かど)も呼吸に合わせてわずかに下げられる。
控えの間の扉が、礼を守る最小限の音でノックされた。
「第一王子殿下付・近衛騎士長、ロドリク・イェースであります。ご挨拶よろしいでしょうか」
セラフィナが視線で問い、ラグナがうなずく。
扉が開き、銀縁の軍装に身を収めた騎士長が一歩だけ進む。
「主様、本日は黎武館のご利用、栄に存じます。――稽古は正午より。
その前に礼法の簡潔な擦り合わせがございます。お疲れの出ない範囲でよろしいでしょうか」
「お願いします」
ロドリクは言葉を削るように要点だけ置いていく。
「入館の礼は“二呼吸礼”。一礼、半拍置いてもう一礼。過剰な敬は不要です。
殿下へのご挨拶は、御使としてではなく“本日の客将”として。『学ばせていただく』の一句が適切」
そしてわずかに口角を緩めた。
「――剣先は低く、眼は高く。目は“威圧にも卑下にもならぬ高さ”に」
ラグナは復唱するように、小さく。
「剣先は低く、眼は高く」
セラフィナが横から柔らかく添える。
「主様、呼吸は吐いてから入室を。最初の一歩で“音”が決まります」
騎士長が頷く。
「控え間を出られましたら、私がご案内します。――お時間まで、数分の静養を」
扉が閉まる。
短い沈黙。
ラグナは掌を開いて、ゆっくり閉じる。
「……セラフィナ」
「はい、主様」
「“迷子にさせない”の約束、覚えています」
「ええ。では、もうひとつ。――“音を小さく整える”方法を」
セラフィナは卓の縁を指で軽く鳴らし、すぐ止める。
「音を出して止める。呼気で終わらせる。今、ここ、で完結。……よろしいですね」
ラグナは笑みだけで応え、指先で同じ動作をなぞった。
小さな音。静かな終わり。胸のざわめきが、輪郭を得てほどける。
「お時間です」
ロドリクの声。扉が開く。
控えの間を出ると、風が変わった。
城の内庭を貫く露台を渡り、低い屋根を連ねた武の区画へ。
遠くから鋼の触れ合う音が、乾いた夏草の匂いとともに運ばれてくる。
「こちらです」
案内に従い、楕円の前庭へ。
砂地は細かく均され、白い線が弧を描いて重なる。歩みを進めるたび、砂の上で音が柔らかくほどける。
ラグナは足を止め、黎武館の扉を見た。
重厚な木扉には余計な装飾がない。
――形が、在る。
胸の内で言葉が起こり、すぐに沈む。形は器、流れは音。今日の課題は“響かせる”こと。
「入られますか、主様」
セラフィナの声に、ラグナは短く頷く。
「……お願いいたします」
ロドリクが扉の前に立ち、振り返る。
「ここから“二呼吸礼”。私が合図します」
扉が少し開き、武の空気が一段濃くなる。
「――今」
ラグナは一礼。半拍。もう一礼。吐く息を長く、吸いは短く。
扉がさらに開かれ、黎武館の土間が現れる。
磨かれた床板に薄い油の光。梁を渡る風が高い天井をなぞり、壁面には練習槍・木剣・護面が整然と掛かる。
数名の近衛が稽古を止め、静かに道を開けた。
「控え所はあちらに」
ロドリクが指した先、小部屋へ通される。
低い腰掛け、手拭い、水。必要なものだけが整っている。
「主様、手袋の縫い目は」
「はい、当たりません。大丈夫です」
短いやりとりの間にも、ラグナの視線は自然と道場の中央――床板の節と節の間へ落ちる。
歩幅、足裏の置き場、剣を抜く角度。
細かな“形”の上に、自分の“流れ”を通すための下見だ。
セラフィナが小さく囁く。
「最初の言葉は、“学ばせていただく”。それだけで十分でございます」
「……うん」
控え所の戸が、二度、静かに叩かれた。
「殿下ご入館。――ご準備を」
ロドリクの声がわずかに低く引き締まる。
セラフィナが視線だけで問い、ラグナは呼気で頷く。
吐いて、握る。願いを一点に。
――守る。
胸の中で一語が灯り、余計な雑音が後ろへ下がる。
控え所を出る。
土間の端に立つと、道場の空気が輪郭を持って迫ってくるのが分かる。
床板の艶、梁の影、揃った視線。
そして――
扉の先、正面の出入口が開いた。
整列した近衛の列が二歩だけ後退し、中央に一本の“道”が空く。
足音が、一つ。
もう一つ。
きわめて静かな靴音が、床板の上に同じ間隔で置かれていく。
セラフィナが、ほとんど動かない唇で囁く。
「主様、“眼は高く”。最初の一歩の前に――吐いて」
ラグナはその通りにする。
吐く。
足裏をゆっくり沈める。
砂ではない、木の反発。
音が小さく、しかし芯を持って返ってくる。
視線の先、光がわずかに切り割られた。
第一王子――カイエル・エルディアンの影が、門口の光と重なって伸びる。
王族の礼装ではない。動きに適した、簡素で端正な稽古着。
肩線から腰までの無駄のない落ち方、帯の位置、踵の角度。
――形の完成度が、立っている。
ロドリクが一歩出て、低声で告げる。
「お進みを。ご挨拶は中央の印で」
道場中央には薄く焼き印のような円があり、その内側に“踏み紋”の小さな交点がある。
ラグナはそこへ歩み、交点の手前で止まる。
呼気。
ノタ・ステータ――ではない。まだ暴れない。ただ、鍵の所在を確かめておく。
セラフィナの気配が半歩後ろで支える。
彼女の存在が背に一枚、静かな布のように重なる。
心臓の音は速すぎず、遅すぎない。
――剣先は低く、眼は高く。
正面の足音が止まる。
道場の空気が、一度だけ深く吸われたように静まった。
この一歩の先に、声が交わる。
ラグナは、胸の内の一語をもう一度だけ確かめる。
――守る。
指先が、揺れずに在る。
彼は小さく息を吐き、最初の言葉を、まだ口の内で整える。
「学ばせて――」
言葉が空へ触れる直前、
二人の視線が、はじめて同じ高さで結ばれた。
静寂。
その一瞬だけ、世界は音を失っていた。
天窓から落ちる光が床の木目を斜めに横切り、埃の粒を金に染めている。
すべてが止まり、ただ二人の視線だけが動いていた。
カイエル・エルディアン――
王の血を引く第一王子。
その眼差しは、研ぎ澄まされた剣のように冷たく、それでいて曇りのない透明を宿していた。
彼は静かに息を吐き、短く頷く。
「ようこそ、黎武館へ。……御使ラグナ=クローディア殿」
声は張らず、だが通る。
その響きは木の梁を伝い、壁に反射し、道場全体に淡く広がる。
礼を欠くことも、媚びることもない――まるで“理”を口にするような声だった。
ラグナは一歩前に出て、深く礼をした。
「お招きに感謝いたします。――本日は、学ばせていただく立場として参りました」
その姿勢は、神殿で身につけた礼の形でありながら、
どこかに“人”の自然な温かさがあった。
その僅かな違いを、カイエルの眼は逃さない。
「学ぶ、か」
王子は目を細める。
「剣を交わす場において、それを言える者は少ない。多くは“示すため”に来る」
「僕には、示すものがまだありません」
ラグナは穏やかに答えた。
「けれど、確かめたいものがあります。――この剣が、何を“守る”のか」
その言葉に、カイエルの瞳がかすかに揺れた。
理屈ではなく、何か懐かしいものを掠めたようなわずかな変化。
彼は沈黙のまま、一拍の間を置き、腰の剣に手を掛けた。
「……いい。ならば、確かめ合おう。理を貫く剣と、心を宿す剣と、どちらが“守る”に値するのか」
セラフィナは後方で静かに目を伏せ、祈りにも似た小さな吐息を漏らした。
それは「戦いの祈り」ではなく、「生きる者の律動」を整えるための呼吸――
まるで神殿の儀式が、武の場へ溶けていくようだった。
ロドリクが一歩進み、場の規律を整えた。
「両者、正面。――礼!」
木板を打つ短い音。
カイエルは片手で剣を抜き、刃を下に向けて軽く掲げる。
ラグナも同じ動作を真似る。だがその刃先は、わずかに震えていた。
緊張ではない。
心臓の鼓動と呼吸の拍が、剣を通して外の世界に伝わっているだけだった。
「構え」
ロドリクの声が低く響く。
ラグナは息を吐く。
吐く。
“願いを一点に”――守る。
カイエルの剣が静かに上がり、陽光が銀の稜線を走る。
理と秩序を体現したその姿に、見惚れるような完成があった。
対してラグナの剣は、まだ粗く、若い。だがその動きには“流れ”がある。
一瞬ごとに空気が形を変え、周囲の光を吸い、散らす。
二つの呼吸が重なる。
同じ拍で、違う目的を持ちながら。
――形と流れ。
――秩序と理。
木刀同士がまだ触れていないのに、空気が鳴った。
乾いた微音が天井を震わせ、近衛たちの喉が同時に息を呑む。
カイエルが口を開く。
「御使。……いや、ラグナ殿。手加減は不要だ」
ラグナは目を細め、わずかに首を振る。
「僕も、そう言おうと思っていました。――殿下」
セラフィナが思わず息を止めた。
主が王子に敬称を添えたその声音には、礼を越えて“信頼”の響きがあった。
ロドリクが息を整え、木板を再び叩く。
「――始め!」
その瞬間、空気が弾ける。
足裏の板が鳴り、二人の距離が一気に詰まる。
鋭い光が交錯し、理と意志が、たった一度の音でぶつかった。
木刀が交わった瞬間、音は短く、鋭く、そして重かった。
金属ではない、しかしそれ以上に“理”の響きを帯びた音。
乾いた一閃が道場の空気を裂き、砂塵のような魔素が一瞬だけ舞い上がる。
ラグナの腕に伝わる衝撃は、想像していたよりも深い。
ただ弾かれたのではない――受けた瞬間、剣筋の重心が“中身ごと”押し込まれるような感覚。
カイエルの一太刀には、無駄も装飾もない。
ただ「理を守る」ための純粋な線。
それが一本の剣として具現していた。
「――!」
反射的に受け流し、後退。
足裏が床板を滑り、呼吸が一拍ずれる。
カイエルはその一瞬のずれを逃さない。
間合いを詰め、二太刀、三太刀。
すべてが最短距離、最小動作。
圧倒ではなく、精度による支配だった。
(早い……いや、“正確”だ)
ラグナは剣を構え直す。
理屈では分かっている。守るには、まず受け止め、流すこと。
けれど、身体が追いつかない。
筋肉が硬く、息が浅い。
呼吸のテンポがずれた瞬間、世界が半歩だけ早く動いて見えた。
「――くっ……!」
刃を滑らせて受け流したが、衝撃が腕から肩に響く。
その震えが胸へ伝わり、心臓の鼓動を乱す。
カイエルの眼は冷ややかに、それを見抜いていた。
「呼吸が乱れているぞ、ラグナ殿」
その声は、咎めでも叱責でもない。
むしろ静かで、真っ直ぐに届く。
剣先をわずかに下げたカイエルが、息の流れを乱さぬまま言葉を継ぐ。
「剣は、焦りを映す鏡だ。
その刃が震えるのは、相手を恐れているからではない――“自分を急かしている”からだ」
ラグナはわずかに目を見開く。
息が浅い。吸う音が喉で詰まり、吐く間も短くなっている。
(……焦っている? 僕が?)
思考の隙を突くように、カイエルの剣が再び走る。
今度は力ではなく、誘い。
刃が触れる寸前で止まり、風だけがラグナの頬を掠める。
「理は急ぐ者を見放す。
“守る”という言葉を掲げながら、今の貴殿は“追い詰められる自分”を守っているだけだ」
ラグナの胸が強く鳴った。
図星を突かれた痛みではない。
それは、まるで自分の“願い”が鏡に映って形を変えたような感覚。
焦燥と混乱、そして理解の境目に立たされる。
セラフィナの言葉が脳裏を掠める。
――「願いを迷子にさせないでください」
息を整えようとするが、胸の奥が熱く、呼吸が上滑りする。
床を踏みしめた足裏に、力が乗らない。
それでも、カイエルは攻め込まず、ただ距離を保つ。
沈黙の中、彼の声だけが穏やかに落ちた。
「落ち着け。
剣は、息の中で立つものだ。
吸って構え、吐いて下ろす。呼吸が理を繋ぐ。
――焦るな。焦りは、理の外に落ちる」
その言葉に、ラグナの目がわずかに潤む。
怒りではなく、救われるような感覚。
自分の乱れを指摘されながらも、不思議と胸が軽くなっていく。
ラグナは一歩下がり、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます。殿下」
カイエルは頷くだけで言葉を足さず、再び構える。
静寂の中、道場の空気がわずかに入れ替わる。
光が梁を横切り、床板の白線を照らす。
今度はラグナの方から、足を踏み出した。
焦りではない。確かめるための一歩。
剣先の震えが、少しだけ止まっていた。
ラグナはゆっくりと剣を構え直した。
呼吸が落ち着くと、音のないはずの空間が、微かに“脈打つ”ように感じられた。
遠くの水面に投げられた小石が波紋を広げるように――
心の内側から、静かに世界が応えてくる。
(……焦るな。吐いて、吸って、また吐いて)
サリウスの言葉が、記憶の底から浮かぶ。
“呼気で固定”――息を吐き切る間に、意志を握って離さない。
吸う。
空気が喉を通り、胸へと降りてゆく。
吐く。
身体の隅々に溜まっていた力が、音もなく溶けてゆく。
その瞬間――剣が“軽くなった”。
刃が重力を忘れたように、腕に吸い付く。
手ではなく、意志で持っているような感覚。
力を入れていないのに、剣先が自然に定まる。
足裏から伝わる床の冷たささえ、まるで呼吸の一部のようだった。
(……これが、“理と響く”ということ?)
周囲の音が薄れていく。
近衛たちの息遣い、風の音、衣擦れ――すべてが遠のき、
ただ“剣”と“息”だけが、世界の中心にあった。
カイエルが軽く目を細める。
(……空気が変わった)
王子は、気配の微妙な変化に即座に気づいていた。
先ほどまで不安定だったラグナの剣が、今はまるで“水面に立つ枝”のように、
揺れず、沈まず、ただ理の流れに沿って“在る”。
「……今の構え、それで良い」
カイエルの声には、微かな驚きが混じる。
「ようやく、理の上に立ったな」
ラグナは返答しなかった。
声を出すことさえ、世界の輪郭を乱す気がした。
ただ、息のままに剣を動かす。
木刀が描く軌跡は、まるで光の筋のように淡く、
その一閃が走るたびに、空気の粒子がほんのわずかに震えた。
そして――
その“震え”に、異質なものが混ざる。
風でも、熱でもない。
冷たく、透明で、どこか“悲しい”気配。
剣の軌跡の先、空間が一瞬だけ歪み、光がわずかに遅れて揺らいだ。
(……何だ、これ……?)
ラグナの意識が、わずかに外へ引かれる。
感覚の奥底で、別の心音が鳴っていた。
己の鼓動とは違う、柔らかく、それでいて冷たい響き。
遠い誰かの“息”が、自分の胸の奥で重なっている。
カイエルの眉がわずかに動く。
(温度が、下がった……?)
一瞬、視界の端に淡い光の粒が見えた。
舞う塵ではない。
それは、まるで夜空から零れた月光が形を失い、漂っているようだった。
次の瞬間、床板の影が静かに波打つ。
セラフィナが息を呑む。
(……これは、“幽応”)
神殿で聞かされた伝承が、彼女の脳裏をかすめる。
――御使が理と交わるとき、過去の声が世界に重なる。
その声は、理を震わせ、魂を呼び起こす。
ラグナの瞳が、ふと翳りを帯びた。
その青が、ほんの一瞬だけ銀に近い光を孕む。
彼の意識は現実と理の狭間に滑り込み、
剣を通して流れ込む“誰かの記憶”を感じ取っていた。
――冷たい光。
――涙のような声。
――「……誰か、共に生きて……」
耳ではない。
心に直接届く声だった。
それは祈りではなく、願いでもなく――孤独そのものが形を持った響き。
「……っ!」
一瞬、ラグナの膝が揺らぐ。
剣がわずかに震え、木床に小さな音を落とす。
同時に、空間を満たしていた淡光がふっと消える。
世界が、再び“重さ”を取り戻した。
「ラグナ殿!」
カイエルが即座に間合いを詰め、肩に手をかける。
その手の温もりが、現実へと引き戻す楔のように伝わる。
「……だ、大丈夫です。殿下……」
ラグナは息を荒げながら答えた。
けれど、その瞳にはまだ“何か”が残っている。
焦点がわずかに定まらず、どこか遠くを見ているようだった。
カイエルは目を細め、低く問う。
「今……何を見た?」
「……わかりません。
でも、“悲しみ”を感じました。
誰かが、ずっと――誰かを、待っているような」
カイエルは短く息を吐き、剣を納めた。
その動きには、警戒と同時に、理解の色も滲んでいた。
彼はまだ完全には知らない。
だが今、ラグナという存在が“ただの御使”ではないことを確信するには十分だった。
セラフィナが静かに歩み寄り、膝をついた。
「主様……理が、貴方を“呼び返した”のです。
――どうか、今は無理をなさらぬよう」
ラグナは小さく頷き、胸の前で両手を合わせる。
息を整えるたび、光は完全に収まり、音が戻る。
(今のは……誰の声だったんだろう)
胸の奥に残る冷たい余韻が、まだ消えない。
けれどその奥には、確かに温かな何か――“願い”のようなものが、静かに灯っていた。
道場の空気が静かに沈んでいた。
幽(かす)かな光の名残はもうなく、代わりに、呼吸と鼓動の音だけが残っている。
ラグナの手の震えがようやく止まり、床を踏む足裏の感触が“現実”の重みを戻していく。
深く息を吸い、吐く。
それだけで胸の内がじわりと温まるようだった。
カイエルは剣を納めたまま、一歩近づく。
表情は変わらない。だが、その瞳には、先ほどまでの冷厳な光はもうない。
代わりにあるのは――探るような、そしてどこか“理解したい”という色。
「……さっきのは、理の反応か? それとも……貴殿自身のものか」
問いは短いが、重い。
ラグナは答えを探し、わずかに首を振る。
「僕にも、まだわかりません。
でも……誰かの“心”を感じました。
僕の力じゃなく、“何かの記憶”が僕の中に触れたような――そんな感覚です」
カイエルは一瞬だけ目を伏せ、そして低く呟く。
「……記憶、か。御使に宿る“過去の理”というやつかもしれんな。だが……」
彼はそこで言葉を止め、ラグナを見た。
「――それを恐れずに立っている、その姿勢。俺は、それを“人の強さ”だと思う」
ラグナの胸の奥で、何かが小さく響いた。
それは剣戟の音ではなく、もっと柔らかな“共鳴”。
カイエルの言葉の奥にある誠実さが、心の奥底で静かに広がっていく。
セラフィナがそっと前に出る。
彼女は跪き、膝の高さからラグナを見上げた。
「主様……理は貴方を拒んではおりません。
むしろ、貴方の“願い”を通して、別の声を伝えようとしているのかもしれません」
ラグナは目を閉じ、静かに頷いた。
「……“誰かを守りたい”という願いが、もし誰かの記憶と重なったのなら。
その“誰か”がどんな存在であっても、僕は――逃げません」
セラフィナは微笑み、静かに手を重ねる。
「ええ、それでよろしいのです。理は、恐れる者ではなく、“共に歩む者”を選びます」
カイエルは二人のやり取りを見ながら、息を吐く。
その横顔には、初めての“柔らかさ”があった。
「……御使といえど、血の通った人間だな。
いや――人だからこそ、理に選ばれたのかもしれん」
その言葉を、セラフィナは深く心に刻んだ。
王子の声には、もはや「試す者」の響きはなく、
ただ“対等に語ろうとする人間”の真摯さがあった。
ラグナは剣を胸の前に掲げ、深く礼をした。
「ありがとうございました、殿下。
……今の一太刀で、僕は少しだけ、“守る”ということの形を知れた気がします」
カイエルも静かに剣を傾けて応える。
「ならば、稽古はここまでだ。
これ以上は“試し合う”ではなく、“踏み込む”戦いになる」
二人の呼吸が揃った瞬間、道場の空気が一度だけゆるやかに震えた。
理の流れが“収束”していく。
まるで大河が静かに潮へ還るように、光も、音も、穏やかに消えていった。
セラフィナが歩み寄り、ラグナの肩にそっと手を置く。
「……お疲れさまでございました、主様」
ラグナは微笑んで返す。「ありがとう、セラフィナ」
カイエルが視線を少し落とし、静かに言った。
「次に剣を交える時、俺は“答え”を聞かせてもらおう。
貴殿が守ろうとするものが“理”そのものか、“誰か”なのかを」
ラグナは小さく頷く。
「はい。……その時までに、自分の答えを見つけます」
カイエルはしばらく沈黙したまま、ラグナの横顔を見つめていた。
その視線にはもはや“試す”色はなく、どこか“導こう”とする光が宿っている。
やがて彼は軽く息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。
「……ラグナ殿」
「はい、殿下」
「貴殿の剣――荒削りだが、真っすぐだ。
理に頼らず、感情に流されず、ただ“誰かを守る”ために振るっていた。
それは容易に学べるものではない」
ラグナは少し驚いたように目を瞬かせた。
「僕はまだ、形も定まらず……ただ、動かされるままに剣を振っていただけです」
「だからこそ、伸びしろがある」
カイエルは短く息を吐き、視線を横に向けた。
「――もし剣術を、もっと深く学びたいと思うなら。紹介したい人物がいる」
ラグナは顔を上げる。
「……人物、ですか?」
「ああ」
カイエルの声が少し低くなる。
「名はエルンスト・ガルディア。元・近衛騎士団長だ。
今は王城の
俺がまだ幼かった頃、初めて剣を教えてくれたのもあの人だ」
ラグナはその名を心に刻むように、ゆっくりと繰り返した。
「……エルンスト・ガルディア」
「そうだ。六十を越えてもなお背筋は真っすぐ、眼光は誰よりも鋭い。
“剣は命を奪うためではなく、立たせるためのもの”――そう教えてくれた」
カイエルの声音には、どこか懐かしさが滲んでいた。
「彼は誰に対しても分け隔てなく接する。
王子であろうと、平民であろうと、同じ目線で“弟子”を見る。
そして御使であっても、遠慮はしないだろう」
ラグナは微かに笑い、頷いた。
「――その方に、教えを請いたいと思います。
今日の稽古で感じた“答えの輪郭”を、もっと確かな形にしたい」
カイエルは口元を引き締める。
「明朝、黎明の鐘が三度鳴る頃。
黎武館の北庭へ行け。彼は必ずその時刻にいる。
何も言わずとも、剣を構えれば、それが“挨拶”だ」
セラフィナが控えめに一歩前へ出る。
「……理の環が、また新たな導きをお与えになるのですね。
主様の歩みが、より確かな道となりますように」
ラグナは彼女に穏やかに頷き、カイエルに視線を戻した。
「殿下。今日の稽古、本当にありがとうございました。
――僕は、必ず“守る”ということの意味を見つけてみせます」
カイエルは短く笑みを返し、剣の柄に手を添えた。
「見つけた時、また剣を交えよう。
その時は、俺も一人の剣士として――理の外で、貴殿に向き合う」
カイエルはそれ以上何も言わず、振り返って道場の奥へ去っていった。
背筋は真っすぐで、歩調は乱れない。
だが、その影が扉の光に溶ける直前、ほんのわずかに肩が揺れた。
――それは、王子が見せた初めての“安堵”の証だった。
道場に残るのは、ラグナとセラフィナ、そしてまだ温かい空気だけ。
ラグナは静かに剣を納め、深く息を吐いた。
(……確かに何かが、僕の中で響いた)
それが恐れではなく、共鳴の音であったことを、彼は確かに感じていた。
───W.S.S.部室───
「――反応上昇、またか」
坂間の声が低く響く。
モニタに表示された波形が、再び通常域を超えて振れていた。
南方域ではなく、中央。――アストラント王都直上。
「濃度異常、値は前回の比で一・二倍……いや、局所的だ。範囲狭い」
結城亜美がすぐに解析窓を開き、魔素流束のログを読み取る。
彼女の眉がわずかに動いた。
「……でも、これは“暴走”じゃない。安定波形に戻ってる。
どちらかといえば、“呼応”――あの子が、何かを掴んだみたい」
坂間は腕を組む。
「掴んだ、ね。……理との同期が深まった可能性はあるが、
同時に“あっち側”との接続も強くなってる。ルナの残響域、まだ死んじゃいない」
沈黙。
その重さを破ったのは、康太の落ち着いた声だった。
「でも、前と違う。見てみると、振幅の終息が滑らかだ。
“誰かに触れて壊れた”んじゃなく、“誰かと繋がって落ち着いた”波形だよ」
坂間は数秒の沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……ルナの願いが、ちゃんと“誰か”に届いたってわけか」
亜美が端末を閉じ、微笑を浮かべる。
「ええ。でも次は、もっと大きくなるわ。
“理”は答えを返す――必ずね」
部室の蛍光灯がわずかに明滅する。
窓の外では、雲間から午後の光が差し込み、
スクリーンに映る波形が、まるで鼓動のようにゆっくりと脈打っていた。
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