第14話 静かな祈り


まだ空は藍を残し、部屋の天幕にも朝の光が届ききらぬ頃――

ラグナは静かに瞼を開けた。


眠りが浅かったわけではない。ただ、何かに呼ばれるような感覚に背を押され、自然と意識が浮かび上がっていた。


いつもなら、この時刻にはセラフィナがそっと戸を叩いてくるはずだったが、今朝はまだ気配がない。

ラグナはひと息、胸の奥に残る微かな余韻を吐き出すと、寝間着のまま立ち上がり、衣を整えるでもなく部屋を後にした。


向かったのは、貴賓室からほど近い一角――

神殿の奥に静かに佇む、名を持たぬ石の祀壇。


そこは、誰の像も掲げられず、名も刻まれぬ空白の地。

しかし、その静けさには不思議な重みがあり、ラグナが初めて神殿に、この世界に降りた日も、この場所はひっそりと存在していた。



石の前に立つ人影があった。

長い白髪を後ろで束ね、法衣の裾を揺らすその姿は一見すればただの老人に見える――

だが、彼の背筋は真っすぐに伸びており、足取りは一分の揺らぎもなく、まるで澄んだ水面に影を落とすかのように静かで洗練されていた。


ラグナはその姿に、言いようのない「違和」を感じる。

老いを纏いながらも、そこに漂うのは衰えではなく、長年にわたって積み上げられた理の結晶のような静謐さだった。



「……レメゲトン殿」


呼びかけると、老人はゆっくりと振り返り、柔らかな微笑を浮かべて頷いた。

足元には、小さな白い花が一輪、供えられている。


「お早い目覚めですな、ラグナ殿。朝露よりも先に、あなたがこの祀壇を訪れるとは……巡りというものは、やはり面白い」


「……この場所に、惹かれるものがありました。名の無いはずの祀壇が、こうして大切にされているのを、ずっと不思議に思っていました」


レメゲトンはしばし沈黙し、再び花に視線を落とす。


「空白の祀壇――と、皆は呼びますな。だが、真の意味で“空”だったことは、一度もないのです」


「では……何か、ここに眠っているのですか?」


「眠るというより、“理に還された”というべきでしょうな。祀られる者の名も姿もない。されど、この地には人の手で触れてはならぬ“記憶”が在る」


「記憶……?」


「御使ゼル=アマディウスが姿を消した日――

 この場所には誰の命令もなく、ただひとつの空間が残されました。

 像も碑文も拒まれ、意図的に“何も置かれぬ”場として」


「……彼の意志、でしょうか」


レメゲトンは静かに頷く。


「ええ。その御方は、御自身を讃えることも、語り継がれることさえ、望まなかった。

 だからこそ、この祀壇には誰も名を刻まず、ただ、想いだけが残っているのです」


ラグナは、その言葉に何か強く胸を掴まれるような感覚を覚えた。

名を残さぬということ。語られずとも、誰かの記憶に在り続けるということ。


それは――自分がこの世界でどう在るべきかを、ふと問い返すきっかけのようにも思えた。


「……レメゲトン殿は、今もここに花を?」


「ええ。季節の巡りに一度、こうして白き花を。

 誰に捧げるというものではありません。

 けれど、願わくば……この祀壇を通して、理の環が正しく巡りますようにと」


老人の声には、静かな祈りと、過去を知る者だけが持つ深い温もりが滲んでいた。

ラグナは黙ってその隣に立ち、白い花の輪郭を見つめた。


まだ陽は昇りきらず、空は深い群青を残している。

しかし、その空の端が、かすかに光を含み始めていた。


ラグナはそっと目を閉じ、小さく息を吸い込み――

そして、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。


「……祈りとは、かくも静かなものなのですね」


レメゲトンは、その言葉に何も返さず、ただそっと目を細めた。



ラグナが黙したまま祀壇を見つめていると、隣にいたレメゲトンが静かに動いた。


その所作にはいささかの老いも感じられず、まるで朝靄を裂く風のように、音もなく身を翻す。

背筋は真っすぐに伸び、法衣の裾がわずかに揺れるのみ。その歩みは洗練され、神殿の回廊に自然と溶け込んでいく。


一歩、また一歩と祀壇から離れ――

やがて、ラグナの背後で彼の声が低く、しかし澄んだ調べのように響いた。


「……名を刻まぬということは、忘れることではないのです。

 ――むしろ、名より深く残る“理”が、そこに在るのです」


言い終えると、それ以上は振り返らず、老人はそのまま朝の光の中へと歩み去っていった。



石の祀壇の前、ラグナは花の白にそっと視線を落としたまま、しばし動かずにいた。


「……ゼル=アマディウス」


その名を、胸の内で静かに反芻する。

アマディウス神殿――この地に記された数多の記録と語られる伝承が、すべて“彼”に通じていたことは、書の中でも知った。

人々に理を説き、争いを断ち、そして何の痕跡も残さず去ったという存在。


――なぜ、御使いはこの地を去ったのだろう。


ただ力を行使するだけでなく、秩序を築き、言葉で導き、民に祈りの形を残した者。

そのような人物が、なぜ、静かに消えていったのか。

その心に、どんな想いがあったのか。


想像しようとするたびに、どこかで言葉が途切れてしまう。


いまの自分には、まだ届かない。

“御使い”としての自覚も、“何かを遺す”という意味も、まるで手探りのままだ。


「……」


ラグナはそっと目を閉じる。

冷たい石の気配が足元から伝わってくる。けれど、それはどこか、落ち着きを与える静けさでもあった。


そうしているうちに、空の色がわずかに変わり始めていた。

東の空に、やわらかな光が差し込み、神殿の回廊に伸びる影が、静かに角度を変えてゆく。


その光の気配を感じたかのように、ラグナの背後に足音が響いた。


「……主様。お探し申し上げておりました」


静かな声とともに、セラフィナが姿を現した。


いつものように白衣を揺らしながら、しかしどこか安心したような微笑を浮かべて、彼の傍に歩み寄る。


「申し訳ありません。少し……歩きたくなって」


「ええ、構いません。ですが、お体が冷えてしまわれます」


セラフィナはそう言いながら、ラグナの肩にそっと薄布をかける。

その所作は、祈るように丁寧で、彼女の手からはわずかに温もりが伝わった。


「さあ、お部屋に戻りましょう。今日もまた、大切な一日が始まります」


ラグナは頷き、祀壇に最後の視線を送ってから、その場を後にする。


神殿の石廊を歩くうちに、東の光は次第に白みを帯び、朝の訪れを告げていた。


部屋に戻ると、窓から射し込む光はすでに金を帯び始めていた。

薄い香草の香りと共に、銀の盆が静かに置かれており、その上には温められた湯と、折りたたまれた白い布が並んでいる。


ラグナはその光景を前に、わずかに立ち止まった。


「……あ、えっと……」


昨日と同じはずの儀式――なのに、自分の中にふと入り込んだ“祀られぬ御使い”の記憶が影のように残っていたのか、

あるいは、あまりに日常へ戻ることへの戸惑いか。


理由は自分でもはっきりとしないが、銀盆の前で不意に固まってしまった。


それに気づいたセラフィナは、優しく微笑みながら一歩前へ出る。


「……主様、よろしければ、今日もわたくしが」


「……いえ、大丈夫です。慣れてきたはず、ですから」


そう答えつつも、ラグナの手は少しぎこちない。

だが、それでも彼は白布を手に取り、少し息を整えてから、ゆっくりと清めの所作を始めた。


その様子を見守るセラフィナの表情は、どこか母のようでもあり、妹のようでもあり――

何より、「主様」としてではなく、一人の人として歩もうとする彼の姿を、深く受けとめようとする侍神女の顔だった。



銀盆の湯は、すでにややぬるみはじめていたが、白布を流れる香草の清香はなお穏やかに空気を包んでいた。


ラグナは清めの所作を終えると、そっと布を畳み、銀盆の縁に置いた。

掌に残る微かな湿りと、指先に染み込んだ香りが、どこか心を落ち着かせてくれる。


「……ありがとうございます。毎朝こうして整えられているのですね」


「はい、主様のお目覚めの時に合わせて、決して乱れぬよう心がけております」


セラフィナはそう言いながら、奥の棚から着替えを手に取った。

神殿で過ごす日常用の、淡い青と白を基調とした衣――

儀礼用ほどではないが、清潔さと品位を兼ね備えた仕立てである。


「お手伝いしても、よろしいでしょうか?」


「では……お願いします。」


ラグナは少し照れくさそうに視線を逸らしながら、背を向けて立つ。

セラフィナは柔らかい手付きで、慎重に、しかし無駄のない動きで清め衣を脱がせ、新しい衣を肩に通していく。


「動きやすく、少しゆとりを持たせております。今日のように少し汗ばむ季節には、これくらいがよろしいかと」


「……とても着やすいです」


ボタンを留めるセラフィナの指が一瞬だけ、ラグナの胸元に触れる。

だがその所作には一切の迷いも、私情の色もなく、ただ仕える者としての確かな誠実さだけがあった。


衣の裾を整え、帯を締めると、セラフィナは小さく一礼して後ろへ下がった。


「整いました、主様」


「……ありがとう。助かりました、セラフィナ」


そのやりとりはごく自然で、すでに幾度か繰り返されたかのような、ささやかな習慣になりつつあった。




その後、ラグナはセラフィナに先導され、神殿内の食卓へと向かった。

神官長らが用いる私的な客間とは別に、主様としての滞在中に設けられた簡素な朝食の席――

だがそこには、粗末さの代わりに、整えられた礼と配慮が確かにあった。


朝露の宿る果実を添えた温かな麦粥、香草を煮出した薄いスープ、

そして小さな白パンと、淡く甘い花蜜の茶。


「今朝も、身体に負担のかからぬものをお出ししております。主様の体調を見て、調整してございます」


「……こうして支度していただけることに、まだ慣れなくて……でも、ありがたいです」


ラグナは席につき、手を合わせるように一礼してから、ゆっくりと匙を手に取る。

温かな粥が口に広がると、胃が静かに目を覚まし、身体の内から一日が始まるのを感じさせた。


その向かいには控えるように立つセラフィナ。

彼女は口を開かずとも、必要とあらばすぐに応じられる距離を保っている。


やがてラグナは、茶をひと口含み、ふぅ……と細く息を吐いた。


「……今日も、良い一日になりますように」


ぽつりとこぼれたその言葉に、セラフィナがそっと微笑みを返す。


「理の環が、主様に穏やかな時をもたらしますように」


朝の神殿には、静かで清らかな時間が流れていた。



朝食を終えたのち、ラグナはセラフィナに導かれて神殿内の学びの間へと向かった。



白く磨かれた床に陽光が差し込み、石壁の間を流れる空気はどこまでも澄んでいる。

神官たちの唱える祈りの声が遠くでかすかに聞こえる中、静寂と規律に満ちた空間が、これから始まる学びの場にふさわしい緊張感を漂わせていた。



蒼銀の髪を後ろで結い、飾り気のない深青の法衣を身にまとった男。

サリウスはすでに教卓の前に立ち、自身の前に置かれた、滑らかな黒色の石板へ手を伸ばす。

この神殿では、術式の可視化や文様の描写に特化した魔術用石板が用いられており、羊皮紙のように記録を残すためではなく、魔素の流れを一時的に示す道具として用いられている。


「おはようございます、ラグナ殿。今朝は少し早いご到着ですね」


「ええ、少し……考えごとがありまして」


「ほう。それは良いことです。理を学ぶとは、自らの思索の足場を築くことでもありますから」


ラグナが席に着くと、サリウスはその手元の文様に軽く手を添え、

それを淡く発光させながら、今日の講義を始めた。


「本日は、前回扱った『理の三句構造』を基に――

 術における“意志”と“接続”の関係を学びます」


淡く光る線が、空中に展開する。

それはまるで、目に見えぬ法則を図示したような、幾何学的な輪と線の連なり。


「魔術とは、単に力を引き出すものではありません。

 “意志”と“理”を媒介し、言葉によって結ぶ――

 つまり、術者の内と外を調和させ、魔素の流れに語りかける行為です」


ラグナはその言葉を聞きながら、ふと、朝に見た“空白の祀壇”を思い出していた。


――語られぬもの。名を刻まぬ意志。

それは、声に出されずとも残る何か。


サリウスの語る「意志と接続」は、単なる術理にとどまらず、

“存在”そのものの在り方にも通じているのではないか――

そんな思いが、ラグナの中で静かに広がっていく。


「詠唱とは、術式の構成要素を順に呼び起こし、定められた道筋へと魔素を導くもの。

 しかし、言葉だけでは不完全です。

 それに“意味”が宿り、“祈り”が重ねられてこそ、術は完成へと至る」


その説明の途中、ラグナの手が不意に石板の上を滑った。

薄く指先が光を帯び、前触れもなく小さな閃光が瞬いた。


サリウスが一瞬、動きを止める。


「……ラグナ殿、今のは?」


「……わかりません。意図的ではなく、ただ、“理”に触れたような感覚がありました」


「ふむ……稀にあります。理と魔素の流れが、無意識に一致した時に起こる現象です。

 “素質”という言葉では括りきれぬ、より根本的な接続反応――

 この神殿で、過去にそれが起きた者は、数えるほどしかおりませんが」


ラグナは目を伏せながら、その時に感じた“感覚”を思い出そうとする。

言葉にならない、けれど確かにそこにあった、何か――

静かで、深く、底の見えない“流れ”。


(……自分は、何を求めているのだろう)


魔術を学ぶ意味。知識を得る意義。

この世界に立つ“御使い”としての役割――


だが、誰もその定義を示してはくれない。

王も、神殿も、誰もがただ「主様」と敬い、その意味を問いはしない。


「ラグナ殿?」


「……いえ、少し考えていただけです。続けてください」


サリウスは頷き、再び講義へと戻る。

だがラグナの心は、今や術理の先――

自らが“世界に何を還すのか”という問いへと、静かに足を踏み入れ始めていた。


一呼吸置いてから、手元の文書を軽くめくると、再びラグナに視線を向けた。


「では……次は、“詠唱”そのものについて考えてみましょう」


そう言って、彼は空中に新たな術式を描き出す。

それは三つの文節で構成された、簡易ながらも正式な術の詠唱文だった。




《ルーメン・オルヴィス》――導きの光よ、我が声に応えよ。




「これは、初歩の灯火術に用いられる詠唱です。


術式そのものは簡単ですが、この三句の中には、すでに魔術の基本構造が内包されています」


ラグナは静かに耳を傾けたまま、その言葉を反芻する。


“導きの光よ”――

それは呼びかけであり、存在への祈り。


“我が声に応えよ”――

それは術者の意志、そして魔素との接続。


《ルーメン・オルヴィス》――

それは鍵となる音、理と魔素を結ぶ“言葉”。


サリウスは、ゆっくりと歩きながら言葉を紡ぐ。


「大切なのは、“声を発すること”そのものではありません。

 声に“意味”と“願い”が宿っていなければ、術は発動しません。

 詠唱とは、単なる記号の羅列ではなく、あなたの内にあるものを世界へ向けて“伝える”行為なのです」


ラグナは、ふと指先を見た。

さきほど、無意識に光が灯った瞬間。

あれは果たして、己の願いによるものだったのか――

それとも、誰かの記憶に触れた反射だったのか。


「……詠唱に込める“願い”とは、どのようなものであれば?」


「それは、術者自身が決めることです」

サリウスは迷いなくそう答えた。


「誰かを守りたい、何かを照らしたい、自分の在り方を確かめたい――

 そのどれもが、詠唱を満たす“意味”になり得る。

 だが、偽りや虚飾の言葉では、魔素は動きません。

 本当に願うもの、本当に信じるものが、理を通じて術に繋がるのです」


その言葉を聞いた瞬間、ラグナの胸の奥で、何かが微かに揺れた。

それが何なのか、まだ言葉にはならない。


ただ確かなのは――

自分の中にも、まだ目を背けていた“問い”が在る、ということだった。


「では、実際にやってみましょう」


サリウスは片手を軽く掲げると、光を集めるような仕草で空間に向き直った。


「この三句を用いて、“術を形にする”ことを試みてください。

 ただ言葉をなぞるのではなく――そこに、“何を託すか”を考えながら」


ラグナは一つ深呼吸をし、立ち上がった。


心を静め、掌を前に差し出す。


言葉を、ただ音として発するのではなく、

意味として、願いとして、声に託す。


「ルーメン・オルヴィス――」


声は小さく、しかし確かに響いた。

空気の流れがわずかに変わる。


「導きの光よ……」


その声には、迷いが含まれていた。

けれど、同時に“知りたい”という意志も込められていた。


「我が声に……応えよ」


指先に、淡く白い光が集まり、微かな輝きが生まれる。

それは頼りなく、今にも消えそうな光だったが――

確かに“ラグナの意志”に応えて現れたものだった。


「……成功です」


サリウスが小さく頷いた。


「言葉に籠もった願いは、魔素を呼び、形を与えました。

 あなたの術はまだ不安定ではありますが、“理に触れよう”とする姿勢は、確かにそこにあります」


ラグナは光の残滓を見つめながら、そっと手を下ろした。

胸の奥に、まだうまく言語化できない感覚が残っている。

それは、「何か大切なものに近づいた」という手応えだった。


自分は、なぜここにいるのか。

御使いとして、何を“語る”べき存在なのか。

その問いの輪郭が、ほんの少しだけ――霞の向こうに見えた気がした。



神殿の学びの間には、まだ微かに術式の余光が漂っていた。


ラグナが術の手を下ろしたのを見届けると、サリウスは石板の魔法光をそっと消し、整然とした動きで用具を収め始めた。

彼の動きは、講義を終えた者に特有の満足感を微かに帯びてはいたが、それを誇示することはない。

あくまで静かに、整え、片付け、そして最後に一礼。


「本日の学びはここまでです。ラグナ殿、貴方の内に灯るものが、次回もまた言葉となりますように」


その言葉を残し、サリウスは講義室を後にした。

足音は軽く、そして深い余韻だけが室内に残された。




やがて扉の向こうから、見慣れた白衣の姿が現れる。

セラフィナ・リュミエール。

侍神女の柔らかな微笑が、講義の緊張をほどくように差し込んでくる。


「主様、講義、お疲れさまでした。……少しお顔に疲れが出ておりますね。

 昼食の支度が整っております。ご案内いたします」


「……はい。ちょうど、お腹も空いていたところです」


ラグナが立ち上がると、セラフィナは少し笑みを深め、その横に並んだ。

ふたりは並んで回廊を歩き、陽の差し込む中庭を抜けて、小さな食堂へと向かった。




昼食の場は、朝と同じく質素ながらも品のある設えだった。


蒸した野菜と柔らかな鶏肉のハーブ煮、果実を添えた小麦のパン、

そして香草のスープに、微かに甘みのある白茶が添えられている。


席についたラグナが一口運ぶと、口内に広がる優しい味が、神経を静かにほどいていった。

そして、向かいに控えるセラフィナが、そっと言葉を差し出す。


「本日の講義……“意志と言葉の接続”でしたね。

 術は理の模倣ではなく、自らの想いを流れに載せること。難しい内容だったと思います」


「……はい。でも、少しだけ、わかった気がします」


ラグナはパンをちぎりながら、ゆっくりと続けた。


「“どう言うか”より、“なぜそう言いたいのか”……

 そんな感覚で、術の光が指先に集まった気がしたんです」


「それは、主様の中に“願い”が芽生えているということですね」


「願い……」


その言葉に、ラグナはふと考え込む。

明確な形にはなっていない。だが、術を通して触れた“温かい何か”が確かに存在していた。


「……まだ、よくわかりません。でも……、それでも構わないんでしょうか」


セラフィナは微笑んだまま、静かに首を横に振った。


「はい。理の流れもまた、最初は目に見えないものです。

 けれど、その流れを信じ、耳を澄ませていれば、きっと、主様の中に答えは芽吹いていきます」


昼食は、そんな穏やかな言葉のやり取りの中で、静かに進んでいった。




食後、セラフィナに導かれて貴賓室に戻ったラグナは、着座と同時に深く息を吐いた。


窓からは、午後の陽が柔らかく差し込んでいる。

その光を受けながら、セラフィナが机に小さな陶器の急須と二つの湯呑みを置き、静かに湯を注いだ。


香ばしい穀茶の香りが、室内にふわりと広がる。


ラグナは湯呑みに口をつけ、ひと口含んだあと、やや言いづらそうに視線を伏せて呟いた。


「……セラフィナ。少し、相談してもいいですか?」


「もちろんです、主様。どのようなことでしょう」


ラグナは茶を見つめたまま、ゆっくりと話し始めた。


「……王子殿下――カイエル殿と話したときのことを、思い出していました。

 晩餐会の席で……僕の所作を見て、『剣でも同じ精度を持てるのではないか』と」


セラフィナの表情がわずかに引き締まる。だがそれは拒絶ではなく、真摯に受け止めるための姿勢だった。


「王子殿下から、稽古場での対面を提案されたのですね?」


「……はい。ですが、僕はまだ、自分の力の意味もよく分かっていない。

 剣を取ることが、本当に正しいのか、自信が持てなくて……」


ラグナの指が湯呑みに軽く触れる。

その所作には迷いがありながらも、同時に“向き合おうとする意志”も確かに感じられた。


セラフィナはしばらく黙したあと、柔らかな声で返す。


「主様……剣とは、“奪うため”にあるものではありません。

 ですが、“守る”ために使われる剣は、決して理に背くものではないと、わたくしは信じております」


「……守る、ために」


「はい。そして、それを選ぶかどうかを決めるのは、他でもない主様ご自身。

 王子殿下との対話は、“剣を交えるため”というよりも、“道を見極める一歩”かもしれませんね」


その言葉に、ラグナはしばし目を閉じ、そしてゆっくりと頷いた。


湯呑みを置いたラグナは、しばし黙したのち、静かに顔を上げた。


「……セラフィナ」


「はい、主様」


「もし……王子殿下との稽古の場を設けていただけるなら、

 一度、正式にお願いしてみたいと思います」


ラグナの声音はまだ慎重で、自らの迷いが完全に消えたわけではなかった。

だが、その言葉の奥には、「踏み出す覚悟」が静かに宿っていた。


セラフィナは、ほのかに瞳を和らげて、深く頷いた。


「かしこまりました。では、王宮に連絡を。……すぐに人を手配いたします」


彼女はすぐさま立ち上がり、部屋の隅に控えていた神殿の侍童へ指示を与える。

侍童は短く礼をとると、静かな足取りで部屋を出ていった。


「手配には少しお時間をいただきますが、正式な返答は本日中に届くかと存じます。

 その間、主様はどうぞご自由にお過ごしください」


「……ありがとう、セラフィナ」


ラグナは再び湯を一口啜ったあと、そっと立ち上がった。


午後の光はなおも優しく、部屋の中に静かな輪郭を与えている。

その柔らかな光に背を押されるように、ラグナは部屋を出て、ふと呟く。


「……書架にでも行ってみようかな」


そう口にして、ゆるやかな石畳の廊下を歩き出した。

神殿の空気は相変わらず静謐で、どこか世界の時間そのものがゆっくりと流れているかのようだ。


回廊を渡り、階を下りる途中――

ふと、視界の端にひとつの光景が入り込んだ。


それは、神殿の西側に広がる、名もない小さな庭だった。


石壁に囲まれながらも、陽の差し込む角度が絶妙で、草花たちがまるで約束されたように咲き揃っている。

中央には低く苔むした噴水があり、その周囲を囲むように白い小花と香草が植えられている。


扉はわずかに開いていた。

その隙間から流れる風に、淡い香りが混じっている。


ラグナは思わず足を止め、そして、扉の前に立った。


「……ほんの少しだけ」


自分に言い聞かせるように呟き、扉に手をかける。

軋みもなく、静かに開かれた扉の先には、昼下がりの穏やかな陽光と、

わずかに揺れる草花の影――そして、誰のものとも知れぬ、静かな祈りの気配があった。


ラグナはその場に足を踏み入れ、噴水の縁へとゆっくり近づく。


書架へ向かう足は止まった。だが、それを後悔する理由は、どこにもなかった。


ここにあるのは、言葉にできぬ静けさと、揺るがぬ理の循環。


そして、何より――

今の自分が、ほんのひととき、剣でも魔術でもない“在り方”を問い直すための場所だった。


昼の光が降り注ぐ小さな庭。

風が草の香を運び、噴水の水音が静かに響いていた。

誰もいないその場所で、ラグナはひとり、噴水の縁に腰を下ろす。


目を閉じると、講義の中で感じたあの微かな光――

術を通して触れた、自分の中の“願い”のようなものが、再び胸の奥でふわりと揺れた。


(……僕は、何のためにここにいる?)


王に仕えるためでも、崇められるためでもない。

自分がここにいる意味を、ただ受け取るだけではなく、

“自分の意思で”掴みたい――その想いが、確かに芽生えているのを感じる。


「魔術は、僕の“内”から生まれる……」


指先を開き、光を思い描く。

風の流れ、空気の重さ、陽の温もり――

そのすべてと自分を繋ぐ“理”の糸に、心を寄せるように。


声は不要だった。

ただ、想いを内に通し、魔素の流れと心を合わせる。

すると、手のひらの上に、小さな光の粒が生まれた。


淡く、揺れながら、確かにそこに在る光。


「……これが、僕の願い?」


言葉にした瞬間、その光が微かに脈打つ。

まるで、何かが応えているかのように――


否、“何か”ではない。

あの講義の時にも感じた――“誰か”の心が、触れてきたような感覚。

それは声ではなく、姿でもない。けれど、確かにそこにある“ぬくもり”。


名も知らぬ存在。

あるいは、遠くから自分を見つめる瞳。

あるいは、長い時間を超えて繋がっている“何か”。


「……全部が、一つに繋がってる気がする」


魔術。

自分の内にある意志。

そして――剣。


噴水の水面に揺れる光を見つめながら、ラグナは小さく呟く。


「剣を握るなら、誰かを傷つけるためじゃない。

 僕は、何かを守るために……そう在りたい」


目を閉じる。

そして静かに呼吸を整え、再び魔素を巡らせる。


指先に集まる光は、さきほどよりもわずかに強く、揺らぎが少ない。

それは、揺れる決意が、ほんの少しだけ“形”になった証。


ラグナはそっと手を下ろし、掌に残る温もりを感じながら、立ち上がった。


「……行こう。自分の“在り方”を、ちゃんと見つけに」


そう呟いたその背に、柔らかな風が吹き抜けていく。

それはまるで、“誰か”がそっと背を押したようでもあり――

あるいは、この世界のどこかで彼の“願い”を聞き届けた、微かな反応だったのかもしれない。


そして、名もなき庭には再び静けさが戻り、

噴水の水音だけが、ゆるやかに響き続けていた。


名もなき庭を後にしたラグナは、再び神殿の回廊を歩いていた。


陽はすでに傾きはじめていたが、厚い石造りの建物の中はまだ昼の名残を抱えている。

壁に掛けられた祈りの文、静かに歩く侍童たち――すべてが静謐で、整えられていた。


やがて辿り着いたのは、神殿中央の奥に設けられた書架。

幾層にも並ぶ羊皮紙の巻物と綴じられた書物が、半ば灯された光の下で淡く黄ばんで見えた。


ラグナは静かに一礼し、管理役の神官に軽く声をかけてから、ゆっくりと棚を見渡す。


(理の環、術の起源、歴代の御使に関する記録……)


何を探していたのか、はっきりとは分からなかった。

だが、心がひとつの流れに導かれるようにして、彼は一冊の書を手に取る。


羊皮紙に記されたその書には、「魂と理の交点――歴史における術と祈りの記録」と題されていた。


席に着き、ページを開く。

そこには、遠い昔、言葉がまだ術と完全には分かたれていなかった時代、

人々が“声”をもって理と交信しようとしていた記述が並んでいた。


『我らが声、理の環へ返らん。苦しみは石に、喜びは風に、心は調律となりて――』


その一節に、ラグナは指を止める。


まるで自分の心が、何かの拍動に触れたかのように、静かに胸の奥を打った。


(……魂もまた、“声”を持って理に還る……か)


まるで魔術の詠唱のようであり、祈りのようでもある。

術と祈りの違い。声に宿る意志。その先に在るもの。


彼は、また少し、自分の“在り方”を確かめるための糸口を手にしたような気がした。



ページを繰る指先に集中していたそのとき――

控えめな足音とともに、やわらかな気配が書架の中に差し込んできた。


「主様」


声の主は、セラフィナだった。

白衣をたなびかせながら、書架の隅に立ち、静かに頭を下げる。


「王宮より、お返事が届きました」


その言葉に、ラグナは目を上げた。

開いたままの書をそっと閉じ、立ち上がる。


「……そうですか。早いですね」


「はい。使者がすぐに通してくださったようです」


セラフィナは懐から封を解いた文を取り出し、ラグナへと手渡した。

王宮の簡易印が押された、きちんと整えられた便箋。

それを開くと、中には簡潔ながらも礼儀を尽くした文面が並ぶ。


『主様の御意向、確かに承りました。

王子殿下・カイエル・エルディアンは、明日、正午に王城黎武館にて、主様をお迎えする手筈を整えておられます。

どうぞご無理のないよう、お心とお身体を整えられますように。』



「……明日、正午」



ラグナはその一文を繰り返し読み、静かに息を吐いた。

心の奥に、何かがひとつ“定まった”音を立てる。


彼は顔を上げ、そばに立つセラフィナを見た。


「ありがとう。……手配をしてくれて」


「いいえ。主様が、ご自身の“道”を定めようとなさっていること――それを間近で見守れること、わたくしにとっても、誇りです」


そう語る彼女の声は、いつものように穏やかで、しかしその奥には、かすかな緊張と期待が重なっていた。


ラグナはその言葉を静かに受け止め、深く頷いた。


「明日までに……もう一度、自分の中を整理しておきたいです。

 少しだけ、このままここで……考えてもいいですか?」


「もちろんです。主様がそう在りたいと願う限り、ここはいつでも主様の場所です」


セラフィナは微笑みを残し、静かにその場を下がった。


そして再び、書架にはラグナひとりが残る。

閉じられた書の上に手を置いたまま、彼はしばし動かず、

明日の対面に向けて、自らの“在り方”と――“守るという選択”を、心の底で見つめていた。

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