蒼狼王と鈴雪の花嫁―明治帝都異種婚譚―

みつきみみづく

1.雪の章【邂逅】雪夜、白き獣は幼子の涙を舐める

その涙は、ユキの心を甘く溶かした。


結晶のように澄んだ琥珀色の瞳から零れ落ちる雫。己に宿る【雪雫ゆきしずく】はこんな様をしているのではないかと思う。

舌先に触れた瞬間、胸の奥で鈴が転がる音がした。


明治帝都に数十年ぶりの大雪が降った夜。

灰色人狼のボスであるユキは、仲間の爪牙にかかった若い娘の傍らで、泣きじゃくる小さな子どもを抱き上げ、凍てついた頬をそっと舐めた。


ほの甘く、わずかに塩辛い。

まるで雪月花の蜜のように、脆く、儚く、壊れやすい。


それでも、触れずにはいられなかった。


次から次へと零れる悲しみの欠けら。人狼は悲しくても涙を流さない。


俺と来るか―――


なぜ、そんな衝動が込み上げたのか。通常、人狼は捕食対象である人間に何の感情も抱かない。だが、ユキは腕の中の温かな存在を放しがたく、自身の体温を分け与えるように幼子を抱きしめた。


「ふふ……、ふわふわ……」


子どもはユキの純白の毛に頬を埋め、かすかに笑った。

鈴音のような声が耳に心地よく降り積もる。ユキの孤独な心に鈴が躍る。


「めめ、きれい」


子どもは間近にユキの瞳をじっと見てふわりと微笑みを浮かべた。


人狼は黒毛に金目だが、群れの王は白毛に蒼眼を持つ。ユキの毛並みと瞳は唯一絶対的な統率王ボスの証であり、孤独の象徴でもある。


なんて――


胸が軋む。


その時、ユキが感じた衝撃は言葉に出来ない。鼓動が新しい動きを覚えたように跳ねた。感じたことのない切なさに胸をつかまれる。


心を奪われるとは、こういうことか。


ユキは子どもの青白い顔と紫色の唇を優しく舐めた。


子どもは良い身なりをしている。雪を血に染めた娘は恐らく母親で、破れた着物の肩口には家紋が見える。彼女の傍らにはひしゃげた小箱が転がっており、神社の名が入った祝詞と赤紐の鈴が見える。幼子の髪にも同じ鈴飾りのついたかんざしが留められていた。


人狼たちが跋扈ばっこする満月夜に高貴そうな娘が子連れで外出したのには、なにかしら訳があるのだろう。


ふと、火薬の気配に身を反らした。弾丸が空を裂く。通りの影に銃を構える人間たち。人狼を討伐する帝都の警備兵だ。彼らは火を使う。


灰色人狼は帝都に隣接する森の奥地に棲んでおり、人間を襲う。特に満月の夜は凶暴性を増すため、人間たちは夜通し警戒し駆除に勤しむ。


だが、捕獲することはほぼ不可能。

なぜなら、人狼は跳躍ひとつで家並みを越え、爪牙ひと振りで人の骨を断つ──人間に勝機はないのだ。


ユキは幼子を胸に抱いたまま、一蹴りで屋根へと跳び上がり、狙撃をかわした。


「わあ……っ」


幼子は目と口を真ん丸に開いている。物陰に身を隠し、ユキの体温で頬に血の気が戻ってきた子どもを見据える。


「あお?」


紅葉のような小さな手がユキの瞳に伸びる。

人狼は音を司る。自然界に満ちるあらゆる音を分析し、発声できる。したがって動物たちの言語は大抵解釈でき、同じ言語を返すことが出来る。


「お前、名を何という」

「……リン」


鈴をかたどった簪が揺れる。

確かに、鈴のような声だ。


ユキはリンの耳元に口を寄せるとその耳たぶに甘く牙をたてた。


「ふふ……っ」


くすぐったいのか、リンはわずかに身じろぎしてユキの目をじっと見る。苦痛はないはずだ。


「これはつがいの証だ。俺はユキ。お前が適齢になり俺を呼べば、契約が成立する」


人狼王が噛み痕をつけるのは生涯ただ一人のみ。相互に呼び合う音で契約が成立し、唯一の伴侶に守護を与える。ただし、人狼のはるかなる歴史の中でも、異種族――それも捕食対象である人間に噛み痕を与えた王など前代未聞である。


「ゆ、……き?」


瞳を揺らし、白い息を吐くリンの唇をそっと舐めた。

ユキの体内には白狼だけが持つ【雪雫】が宿っている。体液を通して他の動物に与えることで、相手のあらゆる苦痛を和らげる。


「いつか……」


ユキはリンの耳元にそっと囁きかけた。


――迎えに行く。


しかし、その日は永遠に来ないと知っている。

人間にとって人狼は脅威であり排除すべき外敵だ。リンにとっては親の仇で、最も忌むべき相手だろう。


それでも――


リンの愛しい体温をもう一度胸に抱きしめて、ユキは往来に降り立つと、警備兵の目が届くところに彼女をそっと置いた。


「ハイイロだ!」「いや、白いぞ」

「奴らの王か」「あいつを仕留めれば……っ」


興奮して銃を構える彼らに背を向け、ユキは跳ぶ。背中を向けていても、人間が放つ火薬を避けることなどたやすい。


――リン。


振り返ることはしない。雪しぶきの中、どこまでも気高く美しい純白の身体が溶けるように見えなくなる。


いつか、きっと。


それは、孤高の白狼王が自分でも知らないまま芽生えた、実るあてのない初恋だった。

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