仮婚約者の事情
解消を告げるシルヴァンの顔は、若干苦渋の色が滲んでいた。
アリスの気持ちは分かっていて、なお告げなければならないことを悔いているようだった。しかし、自分の言葉で伝えてくれるその真摯な姿勢をアリスはやはり好ましいと思えた。
シルヴァンはいつも、真っ直ぐにアリスを受け止めてくれた。8歳の年の差は埋められず、年上の対応ではあったけれど、決してアリスを子ども扱いはしなかった。対等とは言えないまでもできる限りアリスを一人前として扱おうとしてくれていたと思う。
そんなシルヴァンがアリスは好きだった。兄や姉とは違う一人の女の子として丁寧に接してくれる紳士的なシルヴァンと居ると、自分が特別な存在になったような気になった。
そうして二人でいるとアリスには彼以外にはいないと思い込むようになったし、実際、他に異性と出会うこともなかった。家庭教師ですらすべて女性を宛がわれていたから、他に比べようもなかったし刷り込まれるのは当然と言えた。
5年間、心に住まわせてきた恋情は、すでにアリスの中ではなくてはならないものになっていたし、シルヴァンに寄せる信頼と親愛は、他には代えられないものだった。
「最初から、アリスとの婚約は仮だと言われていた。そう分かったうえで、君とは婚約者として接してきた。
私はベシエール公爵家を継ぐもの。その役割としての仮婚約者という使命は、全うすべきものだった。国から言い渡されるまで、解消をする気はなかった。
だが、私にはどうしても添いたい人ができてしまった」
シルヴァンの視線が、アリスから逸らされた。早期の解消の理由は、シルヴァンに想う人が出来たからなのだ。
「アリス、君にはできれば悲しい想いはさせたくないと思ってきた。君が望んで、国が認めるなら、このまま婚約を履行することに異はなかった。君のことは本当に大切に思ってきたんだ。それは真で、嘘はない。
だが、私はその想いを覆すことになってしまった。焦がれて、君を泣かせても欲しい人が出来てしまった。
君への感情が、家族としての親愛であるなら、その人への思慕は、情愛と言える。その違いを知ってしまった」
シルヴァンの言葉は、家族として愛することはできても、その実、家族愛であり、恋愛感情ではないことを明言していた。そしてその感情を抱く相手が出来てしまったと。
きっとこのまま、双方の国さえ納得すれば、アリスとシルヴァンの婚姻は叶うだろう。おそらくシルヴァンはこの婚約に対してそれも覚悟の上で受けている。
最初の決め事など、国の情勢で変わる。仮初めがそのまま履行される場合も有り得ることだ。おそらくシルヴァンは、将来アリスのこともすべて引き受けるつもりで今まで接してきたのだろう。アリスが自分に向ける感情も全て。
アリスは、眼鏡の奥の紺色の瞳が曇るのを見て悲しくなった。ここでアリスが『離れたくない』と言えばシルヴァンは自分の感情を押し殺して、この瞳の奥にいつも静かな悲しみを宿したまま、アリスの側にいることを選ぶ。
貴族とはそういうものだ。政略結婚も多い。必ずしも皆、恋情を伴っているとは限らない。そう受け入れて、家族としての愛情を育てていく。家を守るため、国を守るため。
シルヴァンもそう教育されてきているし、アリスもそう習っている。そこに恋情が加わるならいうことはないが、そうならない場合も受け入れなければならない。
アリスは、シルヴァンにその選択はさせたくなかった。仮にそうなったとして、アリスが満たされるわけではない。同じ感情を向けられないことの不満は必ず残るだろう。
アリスがシルヴァンに抱く感情は、恋なのだ。でも彼が抱く感情は、家族愛。妹に向けるものと同じものだ。
アリスは、感情の波にどうしても涙が込み上げる。
けれど、決めた通り、アリスは笑顔を作った。
「そんな顔しないで、シル兄様。
この婚約は仮のもの。そう決まっていたんだもの、兄様は悪くないわ」
アリスの言葉にシルヴァンの顔は一層悲しげに歪んだ。
「大丈夫よ、兄様。
それにね、兄様はちゃんとわたくしに隠すことなく教えてくださったわ。全てを言わずに離れることも出来たのに。
兄様の気持ちを伝えてくださった。感謝しているわ」
アリスは立ち上がって、シルヴァンの側へ寄った。自分から触れるのはご法度だが、シルヴァンの手にそっと自分の手を乗せた。
「わたくし、シルヴァン様のことが好きよ。大好き。
たぶん、それはこれからも変わらないと思うわ。一生、死ぬまで好きなの。
でも、それは、シルヴァン様が言うように、兄を慕う気持ちに近いのだと思うの。だって、兄と妹はずっとお互いを大切に思うものでしょう?
今ね、兄様の気持ちを聞いて、兄様に好きな人が出来たと聞いて、それでもわたくしは兄様のことを変わらずに好きだわって思ったの。
誰かに取られて悲しいとか、そういうことじゃないの。シルヴァン様がシル兄様である限り、ずっと好きなんだなって思ったのよ」
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