仮初の婚約

「結果的に、我が家がアリスを引き取ることになった。決め手はエルヴィーヌだった。

 ベシエール公爵家には女児がいない。すぐには外に出せないアリスにとって、姉という存在は大事だろうと皇家が判断したのだよ」


 ベシエール公爵家の子は、今も嫡男のシルヴァンだけだ。

 アリスの手を握る父は、アリスから視線を外して、母を見た。

 その母は、子を3人産んでいる。アリスに対しても分け隔てなく接してくれる優しい母だ。


「シルヴァン君も、お前を引き取る予定があったことは知っている。すでに8歳だったからね。粗方の事情は聞かされていたろう。

 結局、引き取らなかったベシエール公爵家に、アリスの仮婚約の相手としての命が下った。

 皇家はね、秘密を知る家をあまり増やしたくなかったんだよ。今も知っているのは、アリスを引き取るにあたって話が合った公爵家3家だけなんだよ。

 最初に辞退した家は、アリスと同い年の女の子がいる。同時期に夫人が子を宿したからね」


 アリスの手を握っていた父の手が、そっと離れて、そのままアリスの頬を撫でる。優しい温もりに、アリスは目を細めた。

 大好きな父の手。抱きしめてくれる母。二人の慈しんでくれる気持ちは、アリスには十分伝わっている。

 それでも、これから小さな子供とはいえ、貴族同士の社会に挑まなくてはならないアリスは知っておかねばならないことなのだ。

 何も知らない子供のままではいられないのをアリスは寂しく思う。

 このまま、二人の愛に、そして共に輪に入れてくれる兄姉たちに、ずっと包まれていたかった。

 

「もしベシエールが引き取ることになっていれば、お前はシルヴァン君の妹という存在だった。だから彼はアリスを大切に扱っていただろう?」


 その言葉に、アリスはまた涙が溢れてしまう。

 気付いてしまった。

 あの優しさも、笑顔も。それはの優しさなのだ。

 妹になったかもしれない女の子だからなのだ。婚約者だからではないのだと。


「クラヴェル家が養子をとったことは、貴族社会にはすぐに周知されたんだよ。

 どのみち知られてしまうなら、遠縁から養子をとったということを公表したほうがいいと判断したんだ。アリスが産まれた辺境伯は我が家の遠縁にあたるからね。おおよそ嘘ではない。

 そうすると、我が家と縁づくことを目的として、婚約話が来ることは予想できたんだ。

 でも、アリスの将来は他国にある。それは決定事項だった。だから、皇家はベシエールを仮婚約相手に指名した」


 母の指が、アリスの涙を拭う。細くて長い指が、そのままアリスの頭を撫でた。頬に添えられた父の手は、零れ落ちたアリスの涙で濡れていた。


「アリス、シルヴァン君のことは、好きになってはいけない。彼には将来、必ず別の女性との婚姻がある。彼は嫡男だからね。ベシエールを継いでいかねばならない。それは大切な使命なのだよ。

 でも、その相手は、アリスではない。アリスにはアリスの相手が必ずいる。分かってくれるね?」


「アリス、シルヴァン君は兄だと思いなさいね。彼も貴女のことは妹だと思っているわ。

 彼は、貴方の兄や姉と同じよ。貴方のことは家族として愛しているわ」


 父と母の言葉は、アリスの中に静かに落ちる。

 そのまま、アリスは涙が止まるまで、父と母に抱きしめられた。



 しばらくたって、シルヴァンから誕生日を祝う訪いの手紙が来た。

 父親、いや、義父の話を聞いた後でアリスは彼とどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。

 ただ、両親が了承している訪いを断ることはできなかった。それもアリスの祝いだったから余計に。


「久しぶりだね、アリス。8歳の誕生日、おめでとう」


 すでに送られてきた祝いの品は受け取っている。にもかかわらず、シルヴァンは今日も贈り物を携えてきた。

 先日送られてきたものは、ベシエール公爵家としての品だったという。


「これは、私が直接選んだよ」


 16歳になっているシルヴァンは、いつからか自身の呼称を『僕』から『私』へと変えていた。

 大人になっていく婚約者。背の丈はぐっと伸び、アリスとの差は開くばかりだ。

 アリスとて、小さな5歳の幼女のままではないが、成長期のシルヴァンとの差は縮まるどころか大きくなる。


「ありがとうございます」


 硬い声で礼を言うアリスを、シルヴァンは少しだけ眉を上げてじっと見つめた。

 その紺の瞳には、いつも見透かされている気分になる。小さなアリスの心の機微など、あの瞳にはすべて映ってしまうのだろうと思った。


「アリス、何も変わらない。君と私は今まで通りだよ」


 そうシルヴァンは言うけれど、アリスの心はすでに昇華されない想いと現実とが入り混じって、どこにも行けなくなっている。

 どうしたらいいのかもわからない。

 口に出すことすら、許されなくなった想いを、アリスは抱えてシルヴァンに逢わねばならない。


 シルヴァンが来邸する報せがあってから、アリスは一つだけ決めたことがあった。

 自分の中の線引きのため、必要な事だった。


「シルヴァン様。

 これからシルヴァン様の事、兄さまと呼んでいいかしら」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る