雫5粒 13階の黄昏

 たどり着いた家は、まるでおとぎ話から抜け出してきたかのようだった。

 屋根は高く明るい赤い色で塗られている。全体のシルエットは、子どもの頃に見た某リスの家族が住む赤い屋根のお家をどこか連想させる。現実感が少しだけ薄れるような、そんな幻想的な佇まいだった。

 

 玄関の手前、レンガ垣に埋め込まれたインターホンに指を伸ばす。ためらいはなかった。 

 

『……はい。』

 

 少し掠れた、けれど落ち着いた響きの女性の声。

 

「あの、あずささんのクラスメイトの宮坂といいま……。」

 

『あずさの?!ちょ、ちょっと待って。』

 

 名乗りきる前に、相手の声が慌てて割り込んだ。


 ——ガチャッ

 

 勢いよく開いた玄関から、やつれた顔の女性が飛び出してくる。

 頬はこけ、目の下の影が深い。

 あずさの母親だと、すぐにわかった。

 

「あの、あずささんは……。」

 

「一緒じゃないの?」

 

「え?」

 

「あずさは、一緒じゃないの?!」

 

 女性の視線が、玄関先から路地の奥までせわしなく往復する。

 張り詰めた声は震えを帯び、胸の奥をざらつかせる。

 普通じゃない——そう直感させる何かが、確かにあった。

  

「何かあったんですか?」

 

 僕がそう聞き返すと、女性は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。

 

「帰ってないの。昨日、学校に出て行ったっきり、ずっと。」

 

 家に行けばきっと会えると楽観視していた僕は、予想だにしない状況に絶句した。

 

 ◇◇◇

「向かうならどこだ?!」

 

 僕は再び自転車を漕いでいた。

 向かう当てはない。しかし動かずにはいられなかった。

 

『そう慌てるな。今考えておる。』

 

「考える必要ないだろ!お前ならどうやって人を殺す!」


 半ば殴りつける様にエリムに声を荒げた。

 そんな事をしたって意味が無いのはわかっている。しかし、このやりようの無い不安が僕を焦らせる。

  

『えーっと……私はよく……廃ビルに向かせておったのだ。』

 

「廃ビル?!」

 

『そうなのだ!誰にも邪魔されずに飛ばせれば、こっちのもんだからの!』

 

 自分でも気持ちの悪いやり取りをしていると心底思う。しかし、今はそれが唯一の糸口でもあった。 

 

「首吊りとかでもいいんじゃないのか?」

 

『ダメなのだ。死ぬ間際の恐怖を喰べる。これが重要なのだ。落下している時間と首を吊った瞬間では、感じている恐怖の時間が大きく違う。落下している方が格段に喰べやすいのだ!』

 

「じゃ首を吊る直前に喰べれば。」

 

『それだと宿主は死なん。死にたい欲求が消えるからの!死なねば喰べた感情は消えてしまうからの。』

 

 なるほど。だから廃ビルか。

 頭の中で街を地図のように広げてみるが、すぐにぼやける。

 廃ビルなんて意識して歩いたことがない——手がかりが指の間からこぼれていく感覚だけが残った。


『んー……何か、こう、ヒントになるような、あの女子の印象に残る事は無かったのか?』

 

「印象に……。」

 

 僕はハッとした。確か昨日、去り際にどこかを見ていた。あれはどこだったか……。

 

『なら、その方向に自殺の名所は無いのか?』

 

 自殺の名所?

 

「ある。一箇所だけ。何度も人が飛び降りて、解体が止まっている廃ビルが。」

 

『ならそこだの!』

 

 目的地が定まり僕は水を得た様に、自転車を滑らせた。

 そこにいてほしい。けれど、いてほしくない。

 相反する願いが、足に力を与え、ただペダルを踏ませた。

 

 ◇◇◇

 辺りは夕暮れになっていた。

 廃ビルに到着した僕は迷わず屋上の一つ下のフロアを目指した。

 中に入るのは容易だった。何せ何人も人が侵入しているのだから。

 

 息を潜め、足音を殺す。

 エリムの言葉が脳裏に残る——「近づいていると悟られれば、飛び降りる危険がある」。

 屋上の一つ下のフロアなのは、屋上よりも誰にも見つかる事なく目的を果たせる。エリム曰く、妖異の常套手段のようだ。

 

 しかし廃ビルに来ることになると思わず、まだ外は明るいとはいえ、フロアの奥の暗闇は濃く、スマホのライトだけが頼りだった。

 

「僕を見たらいきなり飛び降りるとかないかな?」

 

『それはわからん。』

 

 何度か階段を折り返していくうちに、“R/13”の文字が壁に出てきた。

 

「ここか。」

 

 僕は恐る恐る内部階段と仕切られた間仕切りの扉を開くと、そこはホールのように広い空間となっていた。

 落書きまみれの壁と割れた窓。そこから吹き込む風が、破れたビニールをゆっくり揺らす。

 その奥——夕陽の光をまとい、月島あずさが佇んでいた。

 廃墟の中で、そこだけが異様なほど鮮やかに見えた。 

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