第9話 滅びの胎動


 帝国の討伐軍が、整然と森へと侵入していく。

 重厚な鎧に身を包んだ精鋭たち。

 規律正しく編成された隊列には一切の隙がなく、行軍の足音さえ律動を刻むように揃っていた。


 だが、森が迎えたのは、「戦い」ではなかった。


 静かに――

 まるで地の底から滲み出すように、瘴気が立ち上った。

 それは靄となって森の地面を這い、幹を伝い、空へ昇り、兵たちの喉や鼻、皮膚の隙間からじわじわと侵入していく。


「っ……ぐぅ……!」

「身体が……重い、魔力が……!」

「結界が……張れない……っ!」


 叫ぶ声が、呻きへと変わる。

 兵士たちの顔色が見る間に蒼白になり、手足が震え、武器を支えきれずに落とす音が次々に響く。


 魔法使いたちは必死に詠唱を始めるが、魔力の循環が断たれ、詠唱の構築すら途中で崩壊する。

 精鋭と謳われた騎士たちでさえ、体を支えきれず、崩れるように膝をついた。


「指揮系統、破綻! 各隊、後退を――」

「……っ、誰か、聞こえ――」


 通信も遮断され、連絡魔導器はすでに沈黙していた。

 瘴気はただ、無言で命を削っていく。

 兵士たちは、血の通わぬ人形のように、音もなく地に崩れ落ちていく。


 地に刺さった槍が、倒れた者の体の重みで静かに傾き、鈍い音を立てて倒れた。


 数百人の討伐軍――

 その誰もが、敵の姿を見ることすらないまま、声も、希望も、死さえも音もなく、森に吸い取られていった。



 森の奥、祠の眠る洞窟の前。

 アレンたちは岩陰に身を潜めながら、異様な気配を肌で感じていた。


「なんだ……この震動は……?」


 洞窟の壁に手を当てたアレンは、確かな振動を感じ取る。

 鼓動のように、断続的に伝わる震え。

 まるで何かが――この森そのものが――胎動しているようだった。


 壁画の中、銀髪の少女――ノエルアの像が、まるで実体を持ったかのように浮かび上がって見える。


(祠には触れていない……それなのに、どうして……?)


 カイが低く唸った。


「瘴気の濃度が……あり得ない。防護魔法が焼けるように消える……!」


 ケイトも顔をしかめ、結界の補強に追われながら呻く。


「……この森は、ただの異常区域なんかじゃない……!」


 アレンは、ぎゅっと拳を握った。

 脳裏に浮かぶのは、あの白髪の少女――リィナの笑顔。


(やはり……彼女が鍵なのか?)


 だが、まだ確証はなかった。

 今、確実にわかっているのは――


「……ここを離れるぞ」


 低く、アレンは言い切った。


「祠がどうこう言っている場合じゃない。今すぐ、森を脱出する」


 カイとケイトが頷き、三人は岩陰から飛び出した。


――その背後で。


 祠の石扉が、音もなくひび割れた。

 僅かな光とともに、内側から漏れ出すように瘴気が滲み出す。


 森の空気が、低く、重く、脈打ち始める。

 夜の闇よりも深い瘴気が、世界そのものを侵し始めていた。


 滅びの胎動は、もはや誰にも――

 止めることはできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る