「思い出」行きのバス★

 夏の終わりの夕暮れ時、古びたバス停でバスを待っていると、行き先表示が「思い出」とだけ書かれた奇妙なバスがやってきた。

 ドアが開き、運転手は私にだけ問いかけた。


「終点までですが、よろしいですね?」


 言われるがままに乗り込むと、不思議な旅が始まった。車窓の風景は、私が子供の頃に遊んだ公園、通っていた小学校、初めて告白した神社の裏手へと、次々に移り変わっていく。

 ただ、時折、風景が乱れたり、ノイズが走ったりするのが気になった。


 運転手は、私の人生の全てを知っているかのように、優しく語りかけてくる。


「この角のパン屋さん、お好きでしたよね」


「ここで初めて、自転車に乗れたんでしたね」


 その声は不思議なほど心地よく、どこか懐かしかった。

 ふと、自分が小さなメモ帳を握りしめていることに気づく。そこには、私の拙い字でこう書かれていた。


『私の名前は〇〇。夫の名前は△△。夕方になったら、あのバス停で待つこと』


 なぜ、こんなものを書いたのか、思い出せない。


 バスは、見覚えのある家の前で停まった。

 庭で、若い頃の私が、幸せそうに夫と笑っている。その光景を見ていると、訳もなく涙が溢れてきた。


「おや、いけませんね」


 運転手が、そっとハンカチを差し出してくれる。

 見れば、その隅には見慣れた夫のイニシャルが刺繍されていた。

 ハッとして運転手の顔をまじまじと見つめる。深く刻まれた皺。

 心配そうに私を覗き込む、優しい瞳。


 毎日、鏡のように向き合ってきたはずの、夫の顔だった。


「あなた……」


 私のか細い声で夫の名前を呼ぶと、運転手──夫は、初めてこらえきれないといった様子で涙を浮かべ、ただ静かに頷いた。


「ああ、よかった。今日はここまで思い出せたね」


 そうだ、私は、少しずつ記憶を失っていく病気なのだ。

 「終点」とは、私の記憶が、今日一日分、完全に失われてしまう場所。


 この不思議なバスの旅は、私が全てを忘れてしまうたびに、夫が私のために毎日毎日、繰り返してくれている「記憶を呼び覚ますための儀式」だった。

 彼はバスの運転手になりきり、私を思い出の旅に連れ出すことで、私という人間が消えてしまわないように、必死に繋ぎ止めてくれていた。


 バスの行き先表示が、「思い出」から「我が家」へと切り替わる。


「おかえり。今日も、思い出の旅、お疲れ様」


 夫の優しい声に、私は「ただいま」と答えた。


 明日にはまた、私はこの人のことさえ忘れてしまうだろう。


 それでも、この愛しい旅が、私たちの明日を繋いでいく。



(了)

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