第五話『ヘクティアル公爵家』
ヘクティアル家は、ローティス連合王国の北方に広大な領土を有する公爵家である。
領地は北海に接し、そこから続く広大な河川からなる運輸の活発化と商業の発達は、ヘクティアル家に途絶えることない繁栄をもたらした。
その莫大な富ゆえに、他を寄せ付けない兵力を誇り、連合王国内では王家に匹敵するだけの発言力を持っている。時代によっては、王位継承権にさえヘクティアル家は口を出す。
それだけの影響力を持つがゆえに、ヘクティアル家内の勢力争いもまた熾烈を極めた。
血縁を残すために数多の分家を作ったが、それは言い換えれば家内に数多の勢力を作り上げたのと同じだ。力の配分が少し変動するだけで、本家と分家が入れ替わりかねない。ヘクティアル家は常に、危険な均衡に晒されていた。
――ヴァレット=ヘクティアルが陥った窮状は、まさしく本家と分家の勢力争いによるものだった。
正式な当主不在の中、夫を失ったデジレ=ヘクティアルは娘であるヴァレットよりも、自分自身が権力を握り続ける事を望んだ。
それだけならまだ良い。だがその為に選んだ手段が、分家筆頭のリ=ヘクティアル家を後ろ盾にするという点は最悪だった。
これはデジレ自身がリ=ヘクティアル家の遠縁であった事に起因するが、結果は分家が本家に介入する余地を与えただけだ。
しかし少なくとも現時点までは、デジレとリ=ヘクティアル家の思惑は一致していた。確実に、次期当主たるヴァレットを亡き者にする事だ。
「遅い、とても遅い。ちゃんと仕事は終わっているのか。分家のどん臭い兵が、てこずってるんじゃないのか?」
ヘクティアルの本邸。デジレのために用意された私室は、彼女が望む調度品で満ち溢れていた。衣装棚は週に一度は彼女の好みに応じて入れ替えられ、家具さえも気まぐれによって一新される。
それこそが彼女の言う、貴族らしい生活である。
デジレは三十の中盤にさしかかる年齢であったが、前当主を魅了した美しさは全く失われていなかった。夕暮れのような輝きを持つ頭髪は見事なウェーブを描き、彼女の背を彩っている。身体のライン一つをとっても、彼女から女性らしさが失われた部分はなかった。
だがデジレは自分の為の楽園のに身を置きながら、如何にも落ち着きない表情で指先を動かし続けている。
娘を殺す為の兵は、もう数時間は前に家を出ている。別邸の全ての使用人には暇を出しているので、邪魔者は誰もいないはず。明らかに時間がかかりすぎていた。
「奥様。どうか、ご安心を」
私室への入室を許されたリ=ヘクティアルの使者が、やけに落ち着き払った態度で言う。
使者らしく全身を灰色の礼服で統一した姿に無礼な所は欠片もない。
が、それこそがこの男が他人を苛立たせる所だった。
「どうして安心できる! お前が確認しにいくべきではないのか!」
テーブルの上にあった高級酒を、デジレはヒステリックに床に投げ捨てた。薄いグラスに覆われた蜂蜜色の酒が、大胆にカーペットを汚していく。
使者の男は、表情を一切変えずに語る。
「それは良策ではございません。後ろ暗い仕事は、使い潰しの利く兵のみで当たらせるべきです。多少遊びはするでしょうが、少女一人を逃すほど無能ではありません」
「……不満はまだある。明日の朝になれば、正式にあたしが当主になる。異郷者も、天霊教もすでに使者を寄こした」
デジレは傲慢な性根であったが、自分に力があるわけではない事を理解していた。今、ヘクティアル家内で権勢を振るえているのは、前当主の妻という立場あってのものだとも。
だからこそ、手段を選ばないという真似が出来た。得体は知れないが力を持つ異郷者、彼らからなるクラン『異郷旅団』や、大陸全土に影響力を持つ『天霊教』の支援も彼女は取り付けている。
自分に力がなく、正統ではないと理解しているからこそのやり口。
――無論、支援を受ける事自体が、ヘクティアル領内に混沌とした勢力争いを招く事にデジレは気づかない。彼女の持つ想像力の限界は、自分が権力を握るまで。握った後の事は彼女の能力を超えている。
デジレは端正な顔つきにはっきりと憤激を滲ませて口を開く。
「だが、リ=ヘクティアル家当主のアーリシアがここにいないのはどういうわけだ? あたしを甘く見ているのか?」
アーリシア=リ=ヘクティアル。ヘクティアル家が分家の筆頭、リ=ヘクティアル家の当主にして、今や本家以上の影響力を持つとさえ語られる。
異郷者や天霊教が使者で済ませるのは構わない。しかしヘクティアル家の話であるからには、アーリシアは自ら新当主に祝いの言葉を捧げにくるべきだ。
ここに顔を見せない。それは詰まり――本家に叛意ありと捉えられても仕方ない状況だった。
「申し訳ありません、奥様」
その分家の使者たる男は、恭しく頭を垂れて見せた。
しかしデジレには、その完璧な謝罪さえ気に食わない。
「アーリシア様は領内の野盗鎮圧に手を焼いておりまして。此度は兵を差し向けるだけでも力を尽くしたと――」
「――ではその兵は何時帰って来る! 何時だ! 第一、リ=ヘクティアル領で野盗の話など聞いた事がない!」
再び、デジレは激昂を見せる。演技ではなく、心からのものだった。
リ=ヘクティアル、ひいてはアーリシアがデジレを甘く見ているのは間違いない。いいやむしろ、デジレが引き起こす本家の混乱を利用して、勢力を拡大している節さえある。
元より分家は、本家以上に生存競争を余儀なくされる環境だ。
与えられる地位も、領土も、名誉も、分家にとっては全て仮初。本家の機嫌次第で何時取り上げられるか分かったものではない。いわば分家は、本家にとってのスペア。本家を存続させるための部品であり、意志ある生命ではない。必要であるならば、即座に命さえも投げ捨てて本家に捧げる。
それこそが、
だが今、その本家が内部争いで勢力を失おうとしている。
ならばそれに乗じて自らの生の拡大を図る。これこそ、壮絶なる生存競争の中でリ=ヘクティアル家が獲得した狡猾さである。
デジレも、目の前の男やアーリシアの思惑を想像出来ないわけではない。しかし、今の本家にアーリシア相手に打てる手はなかった。だからこそ余計に苛立ちが沸き立つ。
「死体を埋める時間もございます。もう暫し時間がかかるやもしれません。奥様、宜しければご就寝を――」
男が、嫌になるほど丁重な言葉遣いを放った瞬間だった。
扉が震える音でノックされた。
「その、あの」
「何! はっきりと言いなさい――!」
メイドの声が、小さく絞り出されたように扉の先から響く。
「お、嬢様が。本邸に、参られております」
この時ばかり、動揺を見せたのはデジレだけでなく男もだった。
扉を開くと、メイドは死人を見たかのように真っ青になっていた。
今夜、別邸にヴァレット以外の人間はいない。別邸は兵が包囲しており、逃げられる状態にもなかった。百を超える兵を前に、少女一人が抵抗出来るはずもない。
兵に良いように辱められ、顔を潰され、死体となっているはず。
こればかりは、各勢力の思惑を超えた事実のはずだった。アーリシアも、兵に力を抜けなどと命じていないし、ヴァレットの死は誰にとっても望ましいものだった。
しかし。
「アーリシアは、裏切ったという事か!」
デジレの吠えるような一言を振り切り、男は先んじて扉の外へと出た。
デジレの部屋から階段を一つ降り、廊下を真っすぐ行けば、そのまま吹き抜けとなっている一階のロビーが見える。
――そこに間違いなく、ヴァレット=ヘクティアルはいた。
この日は『その事件』が起きるために、多くの使用人や使者が深夜まで起きていた。
ゆえに、まるで賓客を出迎えるかのように、その場に大勢が集合している。
だが誰も彼もが、どのような態度を取れば良いのか分からなくなっている。この場の空気は、言うならばまだどちらにも傾きかけていた。
その空気を一掃したのは――ヴァレットの傍に控える、真っ黒な影だった。
いいや影らしく見えたが、人の形をしている。ヴァレットが日頃抱きかかえていた本を代わりに手に持ち、彼女に侍るように隣を占領していた。
影がよく通る声で言った。男の声だ。
「鐘はどうした。ヘクティアル公爵家では、当主が本邸に帰還すれば鐘を鳴らすのが仕来りだろう」
あれは誰か。それを問う前に、影がその場を制して言う。
事実、そのような慣習はある。だが前当主が失われて以降、暫くは鐘が鳴らされた日々はない。
使用人たちが動揺する隙に入り込むように、影は言葉を重ねる。
「ヴァレット=ヘクティアル公女は、本日十七歳を迎えられた。前当主の遺言に従い、ヴァレット公女こそが正式な当主である」
まるで、この世の理を語るように言いながら、影が咆哮する。
「――聞こえなかったか? さっさと鐘を鳴らせ! ヘクティアル家当主に逆らう意志がないのなら!」
影の声は、ある種の魔力に満ちていた。まるで魔性の存在そのものが語っているかのような違和感。その場全員の『意図』が影に掌握されてしまった。
――止める間もなく、当主帰還の鐘が響く。
もはや、ヴァレットをヘクティアル家当主として疑う者はいない。否、ある意味でこの鐘を持って彼女は当主に成ったのだ。
男に遅れるように、デジレが二階の廊下に辿り着く。しかし全ては終わった後だった。
デジレは茫然とする以外にする事がなかった。自分が堅牢に積み上げて来たはずの全てが、この日崩れ去ってしまったのだ。
あり得なかったはずの、ヴァレットの生還をもって。
ヴァレットは影を隣に控えさせながら、堂々たる振る舞いで本邸の内部を懐かしそうに歩く。別邸に隔離されて以降、ここに帰って来るのは数年ぶりだ。
その視線は、二階のデジレを見つめていた。そうして張り付けた微笑を見せながら、聞こえるか聞こえないかという声色でこう言った。
「――ただいま帰りました、お母さま」
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