遠雷
おおまろ
遠雷
北西の、はるか彼方の方向に稲光のよく見える夏の宵。かなとこ状の雄大な雷雲の中に稲妻が走り、しばらくして低いかすかな雷鳴が聞こえた。稲光が輝くたび雷雲が夕空に何度も浮かび上がる。発光から雷鳴までの間隔の長さが、これが遠雷であることを示していた。こういう稲光は実に興味深い。とても見ごたえのある美しい色をしているからだ。雷雲の中から漏れ出る光が赤に紫、緑に黄金色と次々に変わり、建物の屋根の向こうにはいつまでも見飽きない夕空が広がっていた。
――今宵の女房も、どこかひとつでもいいからこんなふうに手応え抱き応えのある女房だといいけどね。
後宮のあちこちの局でくりひろげられる夜毎の逢瀬のひとつが、今宵も暗がりにまぎれてしのびやかに行われる。新人の小兵衛の君は若く美しく、小柄でなかなか魅力的だ。可憐な容貌で、女房としての仕事に慣れ始めた頃から、殿上人たちがスケベ心で狙い始めていた。小兵衛の君の、もの堅く清潔感のある立居振舞は、いまだ恋人がいないであろうと言うことを想像させ、男心をそそるのに十分だ。
斉信は、あくまでも宮廷人としてのたわむれ、つまみ食いとして考えていたため、小兵衛が生娘ではないことを願っていた。完全に遊びと割り切って誘ってくる男が初めての男だったら、やっぱり少しかわいそうだよ…ならばやめておけといいたいところだが、これが当時の宮廷女房の現状で、美人といわれる女房の多くは、色好みな殿上人のお相手だったと言っても言いすぎではなかった。
新参者があてがわれた部屋の私的範囲はわずかだ。局を几帳で仕切り、何人もの女房が身を寄せている。そんな雑居の入り口をほとほとと小さく叩いて斉信が忍び入った時、「昼間のお手紙どおり、本当に、冗談などではなく頭中将さまがいらした」と小兵衛は目を見開いて、半分おびえたような顔で斉信を部屋に招き入れたが、彼の柔らかな物腰と持ち前の話術で警戒心は次第に薄れ、四半時も経つ頃には扇越しにうっとりと頬を染める彼女の顔がのぞくようになった。一対一では初対面だったが、彼女がこちらに好意以上のものを抱きつつあることは間違いない。こうなればあとは簡単だ。相手にはっきり言わせることなく、こちらが上手にエスコートすればいいだけだ。
「少納言の君になんて言い訳すれば…きっと恨まれてしまいます」
「二人っきりの夜に他の女の名前を出すのかい?そんな唇にはお仕置きが必要だな」
斉信は小兵衛の君のあごを押さえて顔を寄せた。唇を舌で丁寧になぞり続けると、小兵衛の君は堪え切れずにくぐもった声をあげた。ほんの少し開けられた口の中に舌を差し込んでしまえば、あとはもう斉信のなすがままだった。
うつぶせになっている小兵衛の背中を手でなぞると彼女の背筋が柔らかくしなる。小兵衛は、馴れはじめた子猫がじゃれるような若々しい動きを見せ、斉信を堪能させた。彼女の多彩な表情も反応も夕空に眺めた色とりどりの遠雷のよう。下に敷かれた赤い単衣の乱れが小兵衛の顔を熱くさせる。几帳のすぐ向こうには朋輩たちがいるはず。気付かれないように歯を食いしばって耐えていた彼女だったが、強引に腰を密着させられた瞬間、ついに小さく悲鳴が上がった。しかしその声は外に漏れることなく、斉信の手のひらの中で消える。彼が後ろから小兵衛の口をふさいだからだ。
「だめだよ。ここまで我慢したのだから、最後まで我慢できるね?」
否やが言えるはずもない。がくがくと体を揺さぶられながら、涼やかな斉信の声が小兵衛の耳に聞こえる。とても耐えられない。突っ張っていた腕の力が抜けていき、崩れ落ちそうな体をひじで支えるのがやっとだった。吐息も嬌声も、全て斉信の手のひらに閉じ込められる。楽しそうな斉信のもう片方の手。小兵衛はようやくわかった。頭中将さまは、私を愛しているからこのようなことをされているのではない、遊びに没頭されているだけだ、と。
「小兵衛はどんなだったかね、頭中将」
翌朝、蔵人所の入り口あたりで、中から出てきたばかりの斉信を呼び止める公卿がいた。
「これは、権大納言さま。おはようございます」
斉信は一瞬背筋を正したが、キョロキョロと、あたりを憚るように見回している権大納言の様子を見て、ああ例のことを聞きたがっておられるのだな、とそのまま権大納言を招いて蔵人所に戻った。
「で、どうだったかね小兵衛は。さぞかし良い気分になったろう」
この権大納言は、お目当ての女人の房事の姿態を相手の男からしつこく聞いた後、自分とその女人の房事中にそれを思い出しながら耽るという、低俗な性癖を持っている。先日双六でこの権大納言に負けた斉信は、負け草として小兵衛の君の味を教えろと頼まれたのだった。行きずりの交わりを適当に誇張して、権大納言がうれしがるような言葉を混ぜたせいか、権大納言は熱心に耳を傾け根掘り葉掘り探ったあと、「むむ、むむ」と興奮したように唸りながら帰っていった。
「結局、女に下手だと馬鹿にされたくないんだろうなあ。あの御仁」
扇であおぎながら、斉信は白けた気分でそうつぶやいた。
五十を越えた温厚なお方だが、この道に関してはまだまだ俗っぽい欲がご健在とみえる。動きのすっかり鈍くなった体を奮い立たせる秘訣がこの性癖だと思えば、けなげなものじゃないか。今夜にでも権大納言は小兵衛の局を訪ねるに違いない――
途中で生娘ではないと確信してから、多少手荒なことをしたような記憶のある斉信だが、後宮女房も自邸の侍女も、抱く分には何の変わりもないと割り切っていた。
あの女房も、昨夜見た色とりどりの遠雷程度には堪能させてくれた、ただそれだけのこと。
「おっと私の用がまだ済んでいない」
このあと出向く予定があったのをようやく思い出し、思わぬ長居をしてしまった蔵人所をいそいそと出て行く斉信だった。
遠雷 おおまろ @heshiko88
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