第12話『届かない言葉、崩れる想い』-ひよりside-

夜。自宅でテレビをつけっぱなしにしていたが、内容はまるで頭に入ってこなかった。そんな時、携帯が鳴る。画面を見るとユキからの着信だった。


「もしもし、ひより?」

「ユキ、どうしたの?」

「あれから、どうなったのかなと思って」


あれから——雨の夜に泣いていた時のことだろう。ユキに慰められてから、もう随分と時間が経っていた。


私はこれまでのことをユキに話した。

相原さんを避けていたこと。

偶然再会したこと。

再び一緒に通勤するようになったこと。

相原さんの彼女に呼び出されたこと。

そして最近の相原さんの様子が、どこかおかしいこと。


ユキは一言も挟まず、黙って最後まで聞いてくれた。


「そっか……大変だったね」


すべて話し終えると、ユキは静かに尋ねた。


「ひよりは、これからどうしたい? この状況で、まだ頑張れる?」


問いに言葉が詰まる。相原さんへの気持ちは揺るがない。けれど、昨日まであんなに優しかった相原さんの態度が急に素っ気なくなってしまったことを思うと、もしかしたらもう私と関わりたくないのかもしれない——そんな思いが胸の奥で広がっていく。頑張る気力が、すっと消えそうだった。


私の沈黙を待ったまま、ユキはゆっくりと言葉を続けた。


「私は、好きなら頑張ってほしい。でも、もし辛いなら……諦めてもいいと思う」


電話越しに届くユキの優しい声が、少しずつ私の硬くなった心を溶かしていく。どうしようもない不安と、自分の不甲斐なさが込み上げ、気づけば涙が頬を伝っていた。


「ユキ……」

「ひよりが幸せになれるなら、どっちでもいいよ。どっちを選んでも私はひよりの味方。ひよりが決めな」


そう言うと、ユキは軽く息をして、電話は静かに切れた。



スマホを置いたまましばらくぼんやりしていた時、不意に通知音が鳴った。ユキと話している間に届いていたらしい。画面を見ると、相原さんからのメッセージだった。


『明日の朝は、電車の時間を変更できませんか?』


そこには、相原さんが乗る電車の時間と車両が書かれている。


時計を見ると、もう23時半を回っていた。こんな遅い時間に返していいのだろうか。でも返さなければ、断ったと思われてしまうかもしれない。

迷いながらも、震える指で文字を打つ。


『わかりました』


送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で小さな音がした気がした。



***



翌朝、指定された車両で相原さんを待つ。いつもより早い時間帯で、電車もそれほど混雑していない。

やがて相原さんが乗り込んでくると、私を見つけて軽く会釈をした。その表情は、まだどこかぎこちない。


「おはようございます」

「おはよう、ございます……」


挨拶を交わしたあと、言葉が途切れる。相原さんも何か言いかけて、結局口を閉じた。

その沈黙のせいで、胸の奥に不安が広がる。もしかして、笑えない理由は私のせいなのだろうか。そう思った瞬間、心臓が痛むように締めつけられた。私は視線を落とし、カバンの端を指先で握りしめる。


重苦しい空気を振り払うように、勇気を振り絞って声を出した。


「昨日は遅い時間に連絡して、すみませんでした……」

「あ、ええ……こちらこそ、急に時間を変更してもらってすみません」


返事は返ってきたけれど、その声はどこか上の空で、私の言葉が本当に届いているのか分からなかった。


もう話しかけない方がいいのかもしれない。話せば話すほど、彼の気持ちが遠のいてしまいそうで──。


そう思って横目で相原さんを見ると、唇をかむ仕草をしたり、視線がこちらに向きかけては逸れていったりと、何か言いたげにしている。しかし、結局彼は何も口を開かなかった。


(やっぱり、私の存在が迷惑なんだ……)


その思いが胸に押し寄せ、息が詰まりそうになる。視界の端が熱くなって、涙がこぼれそうだった。



***



二人の間に会話がないまま、いつもの駅に到着する。改札で「失礼します」と挨拶を交わし、それぞれの会社へ向かった。



会社に着くと、美咲先輩が声をかけてきた。


「おはよう、ひより。もう大丈夫なの?」

「はい……もう元気です」

「私が聞いてるのは体のことだけじゃないよ。心の方はどう?」


まっすぐな視線に、言葉がつまる。元気ですとは言えなくて、唇が震えた。


「……まだ少し」


正直に答えると、先輩は「そっか」と小さく頷いた。



昼休み。美咲先輩に声をかけられ、一緒に社員食堂で昼食を摂ることになった。


「で、相原さんとの件はどうなったの?」


トレーを置きながら、周りに聞こえないように声を落とす。

改めて聞かれて、田中さんに牽制されていること、朝の電車にも田中さんが乗ってくるようになったこと、そして相原さんの様子がおかしいことを伝えた。


「……私の存在は、やっぱり迷惑なんでしょうか?」


思わず口にすると、美咲先輩は「それは違うと思う」とキッパリ言った。あまりにもはっきりした調子に、思わず目を見開いてしまう。


「迷惑なら、わざわざ今日ひよりに、電車の時間を変更してまで誘ってこないでしょ」


その言葉が胸に落ちた瞬間、張りつめていたものが少しほどける。


「じゃあ、なんで……」


どうして、あんなに素っ気ない態度をとるのだろうか。問いかけると、美咲先輩は肩をすくめた。


「わかんないよ、そんなの」


けれど、その直後、先輩の表情がわずかに曇った。


「でも、もしかして……」


考え込むように眉間に皺を寄せている。


「何か心当たりがあるんですか?」

「うーん、まだわからない。もう少し様子を見てから話すわ」


そう言ってごまかされたけれど、先輩の視線の奥には何かを知っているような色が残っていた。

そこから話題は浩平くんのことに移った。


「そういえば、あの日浩平がひよりのこと可愛いって言ってたわよ」

「え?」

「ひよりに好きな人がいなかったら、アイツをおすすめするんだけどね」


唐突な一言に、箸を持つ手が止まる。頬が熱くなって、慌てて声を上げた。


「せ、先輩!」

「だって本当のことじゃない。浩平みたいなタイプ、意外とひよりと合うと思うんだけどな」


確かに浩平くんは優しいし、一緒にいて居心地がいい。けれど、それ以上の気持ちが生まれるわけではない。胸の奥が静かなままだと、私は知っている。


「そんなに思い詰めるなら、浩平と一回遊んでみたら? 気分転換にもなるし」


美咲先輩の提案に返事をしかねていると、突然スマホが震えた。相原さんからの連絡だった。


『今日、会社帰りにお時間いただけませんか?』


そこには待ち合わせの時間と場所が記されている。迷いが押し寄せる私の背中を、美咲先輩が押した。


「行きなさい。話さないと何も始まらないでしょ」


その言葉に勇気を借りて、私はゆっくりとOKの返事を送った。



***



終業後。指定された場所へ向かう。少し早く着いたので、コンビニで飲み物を買い、時間を潰していた。約束の時間が近づき、待ち合わせ場所へ歩き出す。角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは——


相原さんが、田中さんと抱き合っている姿だった。


心臓が凍りついたようになり、手からカバンが滑り落ちる。鈍い音に気づいた二人が振り向く。目が合ってしまう。


(……うそ)


頭の中に、美咲先輩の言葉が蘇る。

『迷惑ならわざわざ今朝みたいに誘ってこない』


でも、目の前の光景がすべてを否定していた。相原さんは田中さんと付き合っている。そうとしか思えなかった。


「……っ!」


息が詰まって、その場から駆け出した。


「待ってください!!  違うんです!!」


背後から必死な声が追いかけてくる。けれど、もう振り向けなかった。


違う? 何が? 何を?

この目で見たのに? この胸が張り裂けそうなのに?


涙で視界が滲む。もう何も信じられなかった。



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