第11話『すれ違いの距離、心の影』-ひよりside-

田中さんと向き合った翌日、私はあっさりと風邪を引いて寝込んでいた。昨日、長時間雨に打たれたせいだろう。体の芯が重く、熱で頭がぼんやりする。


会社に病欠の連絡を入れ、ベッドに倒れこむ。時計を見ると、ちょうどいつも相原さんと電車に揺られている頃だった。


(相原さん、心配してるかな……)


『朝は、ご一緒できますよね?』

そう聞かれて『はい』と答えたのに、今朝の私はそこにいない。


恋人でもないのに「今日は乗りません」と連絡するのは変だろうか。心配させたくないのに、どうすればいいか分からない。スマホに伸ばしかけた指先を何度も止め、そのまま布団に沈んでいった。


熱で朦朧とする中、不意に昨日の田中さんの言葉が耳の奥で蘇った。


『私がその場に居合わせても構いませんよね?』


ダメだ、それは嫌だ。恋人同士なんだから、一緒にいることはおかしくない。むしろ、私の方が邪魔者なのは分かってる。でも、朝の時間だけは——誰にも邪魔されたくない。あの時間だけは、私と相原さんだけで大切にしたい。


今さら遅いかもしれないけど、相原さんに連絡しよう。


のろのろとベッドから這い出し、スマホを手に取る。体の熱とは別の震えが、指先を揺らす。意を決して、メッセージを送った。


『すみません、風邪を引いてしまい今日はお休みすることにしました。お約束したのに、電車に乗れなくてごめんなさい』


一分も経たないうちに返信が届く。


『大丈夫ですか? 無理はなさらず、ゆっくり休んでください』


その落ち着いた文字を見て、力が抜けた。もっと何か言ってほしい気もしたけれど、今はただ安心が勝った。私はそのまま、深い眠りに落ちていった。



結局、風邪が治って出勤できるようになるまで3日かかった。土日を挟めば、実に5日間も家で過ごしたことになる。


休んでいた間、相原さんとは以前のように連絡を取り合っていた。とはいえ『今日も乗れません』『わかりました。お大事に』——ただそれだけのやり取り。でも、その短いやり取りがあるだけで、心細さは少し和らいでいた。


週明け、月曜日。久しぶりにいつもの電車に乗る。


(相原さんに会える……)


そう思った瞬間から、胸の奥で心臓が暴れ出し、呼吸すら落ち着かなくなった。


相原さんに田中さんという恋人がいることは分かっている。けれど田中さんと直接話して、痛感した。あの人には、相原さんを渡したくない。


正直、渡すも何も、もう二人は付き合っている。今さら私が何かしたところで、無意味なのは分かっている。それでも——理由なんて説明できないけど、田中さんが相原さんを本当に理解して大切にしてくれる人だとは、どうしても思えなかった。


一人でそんなことを考えていると、相原さんが乗り込んできた。いつもの場所にいる私の姿を見て、ほんの一瞬だけ視線を揺らし、ぎこちなく微笑んだ。


「おはようございます」

「おはようございます……。あの、すみませんでした。約束したのに、今まで乗ってこれなくて……」

「気にしないでください。お元気になられたようで良かったです」


なぜだろう。相原さんの声色が、ほんの少しだけ冷たく感じられた。


胸に小さな違和感が残ったが振り払うように深呼吸し、心臓の高鳴りを抑えながら、勇気を振り絞って素直な気持ちを伝える。


「またこうして相原さんに会えて、嬉しいです」


すると、相原さんは困ったような顔をして、「そうですか……」と一言だけ返してきた。


(え……)


これまでとは違う相原さんの態度に、戸惑いが広がる。胸の奥に、じわじわと不安が染み込んでいく。


『好きなら頑張って』——そう言って励ましてくれた美咲先輩の言葉を、頭の中で繰り返す。

そうだ、頑張らないと。頑張らないと、何も変わらない。


そう思って話しかけようとした瞬間、電車が次の駅に停車した。私たちの降りる駅はまだ先だ。気にせず口を開こうとしたその時——


「おはようございます」


女性の声が耳に飛び込んできた。顔を上げると、そこに立っていたのは田中さんだった。


どうして……なんでここに……。

心臓が一瞬止まったように、息が詰まる。隣にいた相原さんが、すぐに口を開いた。


「田中さん。僕は遠慮してください、とお伝えしたはずです」


その声音は穏やかでありながら、確かな拒絶を含んでいた。


「そうでしたか?」


田中さんは小首をかしげて、微笑すら浮かべている。


「でももう乗ってしまいましたし、今さら別のところに移動もできないので」


言われて周囲を見渡すと、満員というほどではないにしろ、朝の通勤時間帯でそれなりに混雑していた。確かに今さら移動するのは難しい。

そして田中さんは、当然のように相原さんの隣に立った。


「昨日は遅くまで、大変だったようですね」


田中さんは、まるで私の存在など最初からなかったかのように、相原さんに話しかける。


「特に大変ということではありません」

「ふふ、やっぱり頼もしいですね。……でも、相原さんが何でも背負ってしまったら、佐々木さんはいつまで経っても甘えてしまうのでは?」


軽い口調の中に、針のような皮肉が混じっていた。


「傍から見ればそう思えるのかもしれませんが、あれでも佐々木はできるヤツですよ」


二人のやり取りを聞きながら、私と相原さんの間に冷たいガラスの壁がすっと立ち上がるように感じた。声も、思いも、向こうには届かない。


ちらりと相原さんを盗み見ると、向こう側の田中さんと目が合った。と同時に、唇の端がわずかに吊り上がっていくのが見える。


田中さんが——くす、と笑った。


カーッと全身が熱を帯びる。馬鹿にされている。憐れまれている。相手にされなくて残念ね、と、言葉にはしない態度で突きつけられた。


その場に立ち尽くす自分が、ひどく惨めに思えた。

二人の世界に割り込んでいるのは私ひとり。相原さんはこちらをちらりとも見ない。


――逃げ出したい。


心の奥でそう願った瞬間、身体が勝手に動いていた。

電車が最寄り駅に滑り込む。扉が開いたと同時に飛び出し、そのまま走り去った。


「……っ! 桐島さん!」


背中に、相原さんの声が追いかけてきた。耳には届いていたのに、振り返る勇気はどこにもなかった。

ただ一目散に駆け抜けた。あれ以上、あの場所にいたら、壊れてしまいそうだったから。


田中さんと話したときの会話が蘇ってくる。

『私がその場に居合わせても構いませんよね?』

聞かれて私はこう答えた。

『私が決めることではありません。相原さんとご相談なさってください』


その結果が今日のあれなのだろう。相原さんと話し合って決めたのなら、田中さんが隣にいるのは当然だ。けれど、恋人でもない私がそこにいる理由はどこにもない。私はただ――居場所がないだけだ。


何かに追い立てられるように全力で走った。呼吸はすぐに乱れ、喉が焼けつくように熱い。風邪明けで体力が落ちているのに、それでも止まりたくなかった。


頭の中をぐるぐると駆け巡る。勝ち誇ったように笑った田中さん。冷たく見えた相原さん。そして、なにもできなかった自分の弱さ。

そのすべてが胸を締めつけて、足を止めることを許してくれなかった。



ようやく会社にたどり着いたところで、美咲先輩と顔を合わせた。


「ひより! もう大丈夫? 何、朝から走ってきてるのよ。始業までまだ時間あるんだから」


先輩は軽く笑っている。いつものことなら、その笑顔にこちらまで落ち着くはずなのに、喉の奥がつまり、言葉が出ない。。


「先輩……」


先輩に話しかけようとした瞬間、全身から力が抜けるように視界が揺れた。足元がおぼつかなくなり、先輩の顔がゆっくりと波打つように見える。


「ひよりっ!? 大丈夫?」


先輩の声が泡のように砕け、私は膝から崩れ落ちた。


「……ひよりっ!? ……!」


先輩が何か言ってる声が聞こえる。先輩、聞いてください。心の声は言葉にならない。美咲先輩が何か言ってる。でも段々とその声が遠ざかっていった。


美咲先輩、ダメでした。頑張ろうとしたけど、どうしたらいいのか分からないんです……。



***



目を開くと、そこは見覚えのない天井だった。周りを見ると、どうやらベッドに寝かされてるらしい。


ここはどこだろうかと思ったタイミングで、扉をノックする音が聞こえた。


「はい……」


返事をした途端、白衣を着た女性が顔を出した。


「あら、気がついた? 気分はどう?」


聞かれて体を起こそうとすると「無理はダメよ。まだ寝てなさい」と優しく諭された。


「あの、ここは……」

「ここは会社のヘルスケアルームよ。あなた、会社の前で貧血起こして倒れたの。ダメよー、病み上がりの体で走ってきたりなんかしちゃ」


そういえば社内に、体調不良の人が休めるためのヘルスケアルームがあると、新人研修のときに案内されたことを思い出す。使用したことがないから、そんな場所があることすらも忘れていた。


渡された体温計で熱を測り、取り出して先生に渡す。


「うん、熱はないわね。でも無理はしないこと。あなたの上司からは、起きたら今日は帰るようにって伝言を預かってるわ」


カバンはそこよと言って、ベッドの下を指さされる。

休日含めて5日間も風邪で休んでおいて、復帰日当日にまた倒れて帰ることになるなんて……。情けなくて、穴があったら入りたい気分だった。


産業医の先生が部屋から出ようとしたタイミングで、休憩時間を告げるチャイムが鳴った。先生が扉を開けると、そこには美咲先輩がいた。


「先生、入ってもいいですか?」

「いいわよ。でもなるべく短めにね。彼女には今、帰るように言ったから」

「ありがとうございます。お手数おかけしました」


そんな会話が耳に入ってくる。

ぼんやりとしながら二人を眺めてると、部屋に一人入ってきた先輩に……思いっきりデコピンされた。


「いっ……たあああい! 先輩、痛いです! なんなんですか、その指!」


先輩の指には鉄でも仕込んであるんだろうか。あまりの痛さに涙目になりながら訴えると、目の前の先輩は逆に涙を溜めていた。


「……美咲先輩?」


痛いのは私なのに、どうして先輩が泣きそうになってるんだろう。呼びかけた瞬間、思いっきり抱きしめられた。


「……ひよりの馬鹿っ! なんでそんな無茶すんのよ!」


先輩からすれば、5日ぶりに顔を合わせた後輩がいきなり目の前で倒れたのだ。不安になって当然だろう。


「……心配かけてすみませんでした」

「ほんとに悪いと思ってんの」


涙目でじろりと睨まれる。さすが、先輩。そんな顔をしても可愛らしいです。


「思ってます。ごめんなさい。反省してます」


可愛らしい顔に見惚れそうになったが、またデコピンされてはたまったもんじゃない。慌てて謝罪する。


「だったら、私の言うこと聞けるよね?」


一切の反論を許さないといった表情で、ほっぺを軽く膨らませ、潤んだ瞳で睨んでくる。その顔を見ただけで、どんな男性でも言うことを聞いてしまうだろう。


同性の目から見ても可愛らしいなと見惚れていると、「ひより! 聞いてんの!」と怒られてしまった。天使が悪魔になったよ、怖い……。


「はい、なんでも言うこと聞きます……」


元気になったら美味しいケーキでも、お酒でもなんでも奢ろうと固く誓ってると、先輩は全く違うことを言い出した。


「じゃあ、迎えを呼んでるから大人しくそいつと帰りなさい」

「……へ?」


予想外の言葉に、思わず間抜け面になってしまう。


「もう起き上がれるの? じゃあ、行くよ」


そう言うや否や、ベッド下から私のカバンを取り出し、さっさと部屋から出て行こうとする。

そのまま先輩はエレベーターへと歩き出す。その足取りは、私に合わせて普段よりゆっくりだった。


(美咲先輩のこういう分かりにくい優しさが、好きなんだよね……)


思わずニヤついてると「何、笑ってんのよ」と小突かれた。前言撤回。もう少し優しさを分けてください。



そのまま玄関前まで連れてこられると、そこに立っていたのは美咲先輩の弟さんだった。


「こいつとは前に会ったでしょ? 浩平っていうの。浩平、こっちは私の後輩のひより」

「ちわっす」

「こんにちは……」

「浩平に連絡したら、今日仕事が休みになったっていうからちょうどいいと思って。家まで浩平に送っていってもらいなさい」

「……。ええええ! いやいやいや、いいですそんなの悪いですよ」


慌てて断ったけど、美咲先輩はにっこり笑って却下してきた。


「私の言うこと、なんでも聞くって言ったわよね?」


……笑顔なのに圧がすごい。いや、あれは笑顔の皮をかぶった圧力だ。

横から浩平さんが耳元で囁く。


「言うこと聞いておいた方がいいっすよ。後が怖いから」


なるほど、確かにその通りだ。


「浩平、今なんか言った?」


ぎろりと睨まれると、浩平さんは「いや、なんも言ってないっす」と直立不動で答えた。……姉弟なのになぜ敬語?


「あの、浩平さんは迷惑じゃないですか?」


そう聞くとなぜか本人ではなく美咲先輩が答えた。


「迷惑なんかじゃないわよ。そんなこと気にしなくていいの」


……結局、私も浩平さんも逆らえないのだ。素直に甘えることにした。


「じゃあね、ひより。帰ったらどこにも出かけないで大人しく寝てるのよ。明日も無理しないで、ちょっとでも具合が悪かったら休むこと! 浩平、……手ぇ出したりしたら承知しないからね」

「しねぇよ!!!」


美咲先輩に脅しをかけられた浩平さんは、首がもげそうな勢いで横に振っている。その必死さに、思わず「なんか、すみません……」と謝ってしまった。



***



美咲先輩と玄関前で別れて、浩平さんと二人で歩く。


「あ、駐車場こっちっス」


言われて後を付いて行く。


「あの……」

「え?」

「後ろ歩かれると倒れてないか心配になるんで、隣歩いてもらっていいっスか?」

「あ、はい……」


慌てて隣に並ぶ。


「あ、あと俺に敬語とか使わなくていいっすよ。姉貴の後輩さんに敬語使われるのも、なんか落ち着かないんで」

「え、でも私の方が年下だと思いますし、そんなわけにも……」

「歳いくつっすか? あ、年齢答えるの嫌だったら、別に無理に答えてくれなくていいんスけど」


年齢くらいなら別に気にならない。


「24です」

「俺は23。一個違いか」


ニカッと笑うと、ちらりと八重歯が見えた。前は気づかなかったけど、笑うとちょっと可愛い。……なんて本人には絶対言えないけど。


「じゃああんまり変わらないし、お互いに敬語はなしにしない?」


提案すると「俺はその方が楽だから嬉しいけど……いいの?」聞かれて頷く。


「私もその方が楽だから」

「あー、良かった。実は敬語ってあんま使わねぇから、肩こるんだよなあ」


さっきより柔らかい笑顔。距離がほんの少し縮まった気がした。


「気を遣わせちゃってごめんね。この間も傘借りちゃったし、今日もわざわざ送ってもらうことになっちゃって……」


申し訳なくなって謝るが、彼は肩をすくめて笑った。


「別にそんなのいいって。姉貴に言われなくても傘は貸しただろうし、今日は仕事が急に休みになっただけだから。そんな気にすんな」


大したことでもないという風に、さらっと言ってくれる。見た目とは裏腹に本当に優しい人なんだろう。意外と優しいとこ、美咲先輩に似てるかも。


「だいたい、そんなことくらいで申し訳なく思う必要なんかないって。姉貴なんかもっとひどいんだぜ。俺のことなんて呼べばいつでも飛んでくる、魔法の壺くらいにしか思ってねぇんだから」


頭の中に、壺から飛び出す浩平くんの姿が浮かんでしまった。


「ぷっ……あはは! 魔法のツボって言いすぎだよ~!」

「いやいやマジで。姉貴にひよりちゃんの爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだよ」


おかしくて、笑いが止まらない。肩の力が抜けて、自然に笑い声がこぼれていた。そんな私を見ながら、浩平くんが小さく「……良かった」って言った。


「え?」

「いや、この前も暗い顔してたし、今日も会った時は元気なかったからさ。やっと笑った顔が見れたと思って」


頭の後ろで腕を組みながらにこにこ笑う彼を見て、思い返した。確かに前回も今回も、浩平くんの前で笑ったのは今が初めてだ。……というか、ここ最近で笑ったのは本当に久しぶりだった。


「ありがとう……」


お礼を言うと浩平くんがキョトンとした顔でこっちを見てる。


「なんでお礼?」

「最近、落ち込むことばっかりで全然笑えてなかったんだ。でも……浩平くんと話してたら、気づいたら笑ってた。だから、ありがとう」


笑顔でお礼を伝えると、浩平くんは顔を赤くしてそっぽを向きながらぽつりと呟く。


「……その笑顔は反則だろ」

「今、何か言った?」

「いや、なんでも。駐車場、ここ」


案内された先には、いかにも「俺を見ろ!」と言わんばかりの真っ赤なスポーツカーが停まっていた。


(え、これ乗るの……?)


多分私の顔に出ていたんだろう。浩平くんが慌てて手を振る。


「ち、違っ、違うからなっ! これ俺の車じゃねぇから! 先輩のだから!」


聞くと、普段はバイクを乗っているらしい。今日は美咲先輩に言われて、人を送るために車を急遽借りてきたのだそう。わざわざ申し訳ない。


「ん」


助手席のドアを開けて、乗車を促してくれる。


「あ、ありがと……」


見た目とは裏腹にジェントルマンな浩平くんに、ドキッとしてしまった。

運転席に乗り込むと、ゆっくりと車が動き出した。


「気分悪くなったりしたら、すぐ言ってくれよ。無理だけはすんな」

「はーい」


言葉は乱暴だけど、体調を気遣ってくれる優しさが身に染みた。


車内で浩平くんと色々話した。仕事のこと、美咲先輩のこと、趣味の話、そして相原さんの話も……。


相原さんの話になった途端、それまでとは違って黙って話を聞いてくれる浩平くんについ気が緩む。


「美咲先輩も友達も『諦めるな、頑張れ』って言ってくれて、その言葉を励みに頑張ろうと思ったんだけど、でも今朝の相原さんと彼女さんの姿を見たら、もう無理かなって気がしてきちゃった」

「……うん」

「二人で並んでるとすごくお似合いで……私なんか全然敵わないなって」

「……そんなことねぇよ。ひよりちゃんだって、十分可愛いし」


その言葉は優しすぎて、お世辞だと分かってても胸の奥にじんわり沁みる。


「ありがと。ごめんね、なんだかグチグチ言っちゃって」

「いや、構わねぇよ」


普段は男性とうまく話せないのに、浩平くんには気づけば何でも話してしまう。歳が近いから? それとも美咲先輩の弟だから? 理由は分からないけど、彼と一緒にいると不思議と落ち着いた。


「なんか、浩平くんと一緒にいると落ち着くな……」


心の声が、思わず口から漏れてしまった。


「あのさっ!」


信号で止まったタイミングで浩平くんがこちらを見て、言いかける。


「うん、何?」


「~~~っ! ……いや、なんでもねぇ」


飲み込んだ言葉の代わりに、視線をそらす浩平くん。


(どうしたんだろ……? あ、もしかして愚痴りすぎたかな。やば、完全にグチグチ女じゃん私)


それ以上は口を開けず、車内には道案内以外の会話がなくなった。浩平くんも何か考えているようだったが、結局それを言葉にすることはなかった。



***



マンション前に到着すると、また運転席から回ってドアを開けてくれる。やっぱり優しいな、この人……。見た目はやんちゃそうなのに、こういうところはすごく気が利く。


「送ってくれてありがとう。気を付けて帰ってね」

「おう、ひよりちゃんも早く部屋入って休みな。あ、あと姉貴が心配してるだろうから、一応連絡入れてやって」


言われて笑顔で頷く。


「うん、そうだね。そうする」


じゃあ、と別れてマンションに入ろうとすると、後ろから呼び止められた。


「あのさ!」

「?」

「もしそんなに辛いなら、無理に頑張らなくてもいいと思うぜ」

「え……」

「……前みたいに泣いてる顔よりさ。今日みたいに笑ってる顔の方が、ずっといいよ」

「浩平くん……」


優しい顔でそう言われて、何も言葉を返せなかった。


「……もし、さ。すっきりしたいなら連絡くれたら、俺のバイクに乗せてやるよ。スカッとするぜ!」


ニッと笑って言ってくれた浩平くんの優しさに、心が温まった。


「うん、その時はお願いしよっかな!」

「おう!」


その後、一応渡しとくと言って自分の連絡先を渡してくれた。



***



浩平くんと別れて部屋のドアを閉めた瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れたように、全身から力が抜けた。言われた通り、美咲先輩に連絡を入れると、そのまま這うようにしてベッドまで行った。


「はあ……」


ため息とともに、ふかふかの布団に倒れこむ。と同時にふと浮かんだのは、相原さんの冷たい横顔。胸の奥が、きゅっと掴まれたみたいに痛む。


(何か嫌われるようなこと、しちゃったかな……)


それともただ単に、恋人がいるのにもう私と一緒に出勤するのが嫌になったんだろうか。

考えれば考えるほどわからなくなる。私はやっぱり、相原さんのこと諦めた方がいいんだろうか……。


まぶたを閉じても答えは見つからないまま。胸の痛みだけが、静かな部屋に残っていた。

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