第10話『本当の気持ち、本当の嘘』-ひよりside-

田中さんに手招きされるまま流されるように駅近くの喫茶店へ入った。窓際の席に腰を下ろすと、注文を済ませた田中さんはグラスの水を一口飲み、落ち着いた所作でこちらを見つめてきた。


「突然お声がけしてしまってすみません。何かご予定などはありませんでしたか?」


上品な笑顔――けれど、その瞳はひどく冷静で、観察されているように感じる。「特に何も予定はなかったので大丈夫です」と答えると、「そう、それなら良かった」とまた柔らかく微笑んだ。


「改めまして。ミライテック株式会社の田中幸枝たなかゆきえと言います。お名前を伺っても?」


そういえば名乗っていなかった、と気づいて慌てて返す。


「桜井システムズの桐島ひよりと言います」


「ひよりさん……可愛らしいお名前ね」


「ありがとうございます」


お礼を言いながらも、声音の端に小馬鹿にした響きを感じてしまい、胸の奥にざらつきが残った。


そのまま目の前に座る女性を見つめる。肩まで艶やかに流れる髪が、胸元にはらりとかかる。派手すぎず上品なネイル、透き通るような白い肌。ぷるんとした唇は淡いピンクに彩られ、まるで雑誌のモデルのようだった。


同性の私でさえ、思わず見惚れてしまうほどの美しさ。


(……相原さんは、こういう人が好みなんだ)


胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

自分とは釣り合わない。隣に立つ姿すら想像できない――そんな敗北感が押し寄せた。


けれど、そのとき美咲先輩の言葉が頭に響く。『遠慮してたら何も始まらないよ』。

ここで引いてどうするの。私、負けてる場合じゃない。


お腹に力を込め、沈みそうな心を必死に持ち直して、言葉を絞り出した。


「あの……相原さんについてのお話って、何ですか?」


田中さんはお上品な微笑みを絶やさないまま、ゆったりと口を開いた。


「ひよりさん、とお呼びしてもよろしいかしら?」


「……どうぞ」


心の奥では、できれば呼ばれたくないと思った。けれど「嫌です」とは言えない。引き下がるのも癪で、仕方なく受け入れた。


「ひよりさんは、相原さんとどういったご関係ですか?」


「え……?」


不意打ちの問いに声が詰まる。


「毎朝、一緒に通勤されてますよね?」


「……っ! な、なんでそれを……」


胸がぎくりと跳ねて、思わず顔がこわばった。


「ああ、誤解しないでくださいね」


すぐに田中さんは、にこりと微笑んで言葉を重ねる。


「別に付け回したりしたわけではないんです。私も同じ電車で通勤しているものですから」


その言い方が、妙に余裕たっぷりに聞こえた。


「普段、あまり笑顔を見せない相原さんが……とても楽しそうにお話しているのを見かけて。相手の方がどういう方なのか、気になりまして」


軽く目を伏せる仕草まで上品で――まるで「あなたのことは全部見ている」とでも言いたげだった。


彼女からすれば、付き合っている相手が見知らぬ女性と楽しげに通勤している姿など、気分のいいものではないだろう。気持ちは理解できる。けれど――。


どういう関係も何もない。相原さんは片思いの相手で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、それを素直に告げるわけにはいかなかった。


「相原さんとは特別な関係ではありません。電車で一緒になった時に、お話ししているだけです」


手のひらに汗が滲む。気づかれないよう、そっと膝の上に下ろした。


「そうですか。では、私がその場に居合わせることになっても、問題はありませんよね?」


「……それは」


有無を言わせぬ圧に、言葉が喉で詰まった。


正直に言えば、嫌だ。美咲先輩に励まされてやっとここに座っているけれど、本来の自分は争いごとなど縁遠い人間だ。

ましてや、相手は――片思いしている人の“恋人”。

お上品で、美しくて、自分にはない余裕を持つ女性。勝ち目などあるはずもなく、逃げられるものなら今すぐ逃げ出したい。


「……それは、私が決めることではありません。私としては……できれば遠慮していただきたいですが。相原さんとご相談なさってください」


背中を伝う汗が、やけに冷たく感じる。

にこやかな笑みを浮かべる彼女の前で、心境は蛇に睨まれた蛙そのものだった。動けない。目を逸らせない。

――もうヤダ、泣きそう! 誰か助けて!


心の中で悲鳴を上げていると、田中さんは一息つくように紅茶を口に含み、一拍置いてから再び口を開いた。


「……そのカバン」


「えっ?」


「ひよりさんのカバンにつけているストラップ、とても目を引くものね。愛らしいわ」


ふふっと微笑まれて、一瞬で全身が熱くなる。……褒められた? いや、違う。これは馬鹿にされてる。


「誤解しないでね? 決して悪く言っているわけじゃないのよ。むしろ、ひよりさんにはよく似合っていると思っているわ」


(……嘘だ)


信じられない。言葉は甘くても、そこに込められた棘をはっきり感じるのに。反論したいのに、喉から声が出てこない。


「ただ――相原さんにはどうかしら?」


「……」


「可愛らしいストラップをつけた方と親しげに話しているなんて、周囲の人はあまり良い印象を抱かないんじゃないかしら。……あなたはどう思う?」


相原さんは、そんな人じゃない。私の趣味だってきっと受け入れてくれる。……でも。

もし、私と一緒にいることで相原さんが周囲から軽んじられてしまったら――。


「あなたは会社が違うからご存じないと思うけれど……実は今、相原さんの社内での評価が少し下がっているの」


「えっ?」


思いもよらない言葉に、胸がぎゅっと掴まれる。


「特に女性社員から、ね。あまり良い噂を耳にしないの。もしこのまま白い目で見られ続けたら、業務に差し障りが出るかもしれないわ」


「どうして……」


声が震える。


「毎朝、決して恋人ではない他社の女性と楽しそうに通勤している。彼女がいるのに、どういうつもりなのか――そんなふうに言われているの」


少し眉を寄せ、悲しげに目を伏せながらそう告げられる。


そんな……私と一緒にいるせいで、相原さんの立場が悪くなっている……?


頭の中で警鐘が鳴り響く。


「一応ね、私も皆には伝えたのよ。『きっと幼いお嬢さんに話しかけられて、無下にできず応じているだけでしょう』って。でも……やっぱり周りは納得してくれないみたい。みんな私のことを思って忠告してくれているだけで、決して悪気はないのだけれど……」


軽くため息をつくその姿は、哀れみすら帯びているように見えた。


……つまり私は、彼に言い寄っている図々しい女だと思われている。

そしてそれが、相原さんを追い詰めている。


「今すぐとは言わないけれど……ひよりさんが、いずれ賢明な判断をしてくださることを願っているわ」


穏やかな声音で告げられて、何も返せなかった。

ただ唇が乾いて、言葉がひとつも出てこない。


「それじゃあ、失礼するわ」


すべてを言い終えたというように、彼女は静かに席を立った。

その背中は、まるで最初から勝敗が決まっていたかのように揺るぎない。


……どれだけの間、席に座り込んでいただろう。

気づけば窓の外はすっかり暗く、静かに雨が降り始めていた。



***



幸枝は喫茶店を出ると、そっと息を吐いた。胸の奥にあった緊張がほどけ、安堵のため息が漏れる。


(やっぱり――彼女は、私と相原さんが“付き合っている”と勘違いしているのね)


先日の告白のとき、相原さんの後ろで物陰に身を隠す女性の姿を確かに見た。

どこかで見覚えがあるような気がしたけれど、あの時は自分の告白で頭がいっぱいで、確かめる余裕なんてなかった。振られたショックもあり、考える余地などなかったのだ。


思い出したのはその後。

事の顛末を聞いた同僚たちが、自分のことのように腹を立ててくれて――その雑談の中で「そういえば、相原さんって朝の電車で女性と楽しそうにしてるよね」と一人が言い出した。


私も何度か見かけたことがあった。彼の傍らで、無邪気に笑う小柄な女性。

その姿と、あの時隠れていた影がぴたりと重なった。


――そう。彼女だ。

相原さんと一緒に通勤しているあの女性こそが彼と一緒に通勤してる女性だ、と。


今日の昼休みに彼と話したのも、彼女の存在が頭から離れなかったからだ。

相原さんの気持ちを探るには十分だった。


(やっぱり――彼はまだ自分の本心に気づいていない)


彼は「好きな人はいない」と言った。

その言葉を額面通りに受け取るつもりはない。

朝のホームでふと向ける視線の柔らかさ、名前を呼ぶ時の声音。

彼女に向けられるものだけが、あまりに特別すぎる。


だからこそ、今が私の賭けどころだ。

彼が自分の気持ちに気づいていないうちに。

そして、彼女がまだ誤解に囚われているうちに。


「告白する勇気もない人に、彼を渡す気はないわ」


夜風に紛れるように呟くと、唇の端に小さな笑みが浮かんだ。

その声を聞く者は誰もいなかった。



***



(そういえば、朝の天気予報で「夜から雨」と言っていたっけ……)


雨粒に打たれながら、ぼんやりとそんなことを思い返す。


今朝は久しぶりに相原さんと並んで通勤することになって、気持ちが浮き立っていた。天気予報の言葉なんて右から左へ抜けていって、傘を持たずに家を出てしまった。


会社に戻ればロッカーに折り畳み傘がある。でもこれから会社に戻る気力なんて、今の私には残っていなかった。


とぼとぼと夜道を歩く。最初は小雨だと思っていたのに、気づけばしとしとと冷たい雨脚が強まり、髪から雫が滴り落ちるほどに濡れていた。シャツもスカートもじわりと重くなり、身体の芯まで冷えていく。


「……ひより?」


突然名前を呼ばれて、重たくなった顔を上げる。

雨越しに見えたのは、美咲先輩だった。


「ちょっ……!あんた、何よ傘もささずに歩いて!もう、ビショビショじゃない!」


眉を吊り上げながら、隣にいた男の人が差していた傘を半ば強引に奪い取り、私の頭上に差し出してくれる。


「おいっ!」


「あん?何か文句でもあるの?」


美咲先輩の迫力に押されたのか、相手の男性は肩をすくめてあっさりと引き下がった。


「い、いえ……なんでもないです……」


呆気に取られて二人のやりとりを眺めていると、美咲先輩がミニタオルを取り出し、当然のように私の頭や濡れた服を拭きはじめる。

タオルから伝わる温かさに、張りつめていた気持ちが少しだけ緩んでいくのを感じた。



「あの……」


「ん?どうした?」


「美咲先輩の……彼氏さんですか?」


問いかけた瞬間、二人の声が重なった。


「「違うっ!」」


見事なハモリっぷりに、思わず目を瞬かせる。


「こいつは弟よ。帰ろうとしたら雨が降ってきたから、傘持って迎えに来いって呼び出したの」


言われて改めて彼を見た。

金髪に染められた髪は根元が黒く戻りはじめ、プリン頭になっている。耳にはいくつものピアス。ぱっと見はヤンキーそのもの……正直、ちょっと怖い。

美咲先輩の弟、と言われても全然ピンとこない。むしろ「彼氏です」と言われたほうがまだ納得できるくらいだ。


そんなことを考えていたらハッとなり、慌てて彼の方に向き直る。


「ご、ごめんなさい!せっかく先輩を迎えに来たのに、傘をお借りしてしまって……!」


すると彼はニカッと笑って肩をすくめた。


「いや、全然いいっすよ。気にしないでください。女の人が濡れてるほうがダメっすから」


見た目だけで「怖そう」なんて思ってごめんなさい。めっちゃいい人だった。


「こんな小さなタオルじゃ足りないわね。……浩平、そこのコンビニでタオル買ってきて」


「へいへい」


「返事は『はい』でしょ!ほら、とっとと行って!」


小言を言われても気にする様子もなく、浩平さんはひょいと手を振ってコンビニに向かっていった。


「で? 何があったの?」


不意に問われて、胸が跳ねる。


「え……?」


「何かあったんでしょ。……また、泣きそうな顔になってるよ」


その言葉に張りつめていたものがほどけていく。


「先輩……」


声にならない声と一緒に、涙がぽろりとこぼれ落ちた。


「あーあ。ほら、泣くなって。いつでも話は聞くって言ったでしょ」


美咲先輩はそう言って、頭をぽんぽんと撫でながら、そっと抱き寄せてくれる。

その温もりに触れた瞬間、安心したせいで余計に涙が止まらなくなる。


先輩……私、どうしたらいいんですか――。

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