第2話『会えない朝が、怖くなる』-真一side-

気づけば毎朝が楽しくなっていた。これまでは決まった時間、決まった電車にただ乗り込むだけだったのに──。


今は違う。知り合ったばかりの、名前も知らない女性と交わすたった一言が、その朝を特別にしてくれる。


なぜそんなに嬉しいのか、自分でもまだわかっていない。たぶんだけど、ただ一人で黙って乗る電車で、話し相手ができたことが嬉しいんだろう。うん、きっとそうだ。そうに違いない。


自分の中で考えがまとまったところで、僕は今日も彼女の隣に立つ。


「おはようございます」


「お、おはようございます……」


いつも彼女は挨拶の後で少しだけどもる。やはり、自分が怖いのだろうか。大柄な体格。無愛想な顔。妹にも「お兄は無表情で何考えてるかわかんない!」と文句を言われたことがある。女性から見たら、威圧感を覚えるのかもしれない。


……それでも、彼女とは話がしたかった。怖がられていても、彼女の言葉が、笑顔が、嬉しかったから。


何か喜んでもらえる話題はないだろうか。そう思っていたとき、ふと彼女のカバンに目がとまった。スマートフォンのストラップとは別に、もう一つ見慣れないキャラクターがぶら下がっている。


「……そのキャラは、スマホのキャラとは別ですか?」


声をかけると、彼女は一瞬はっとしたように目を見開き、小さくうなずいた。


「こ、この子は……昨日お話ししたゲームとは別のタイトルのキャラで……」


その言葉はほんの少し恥ずかしそうだったけれど、ストラップを見つめる瞳はやわらかく、そのキャラへの思いがじんわりと伝わってきた。


控えめな口調の中に、確かな好きがこもっているのがよくわかった。


「若い女性の間で流行っているんですか?」


そう尋ねると、彼女は首を振った。


「好きな人は好きだと思いますけど……流行ってるというわけでは……」


そうなんだ、と小さく頷いた。


大学時代の同級生に「女の子はすぐ流行りに飛びつくからな」と聞かされたことを思い出す。でも彼女はそうじゃない。自分の【好き】を自分で選んで、大切にしている。


──なんだか、それがとても素敵に思えた。


「自分の【好き】を貫いてるんですね。そういうの、素敵だと思います」


自然に出た言葉だった。けれど。


彼女の顔が、瞬く間に真っ赤になった。


……え?


思わず固まる。体調が悪いのだろうか……。


──いや、違う。

これまでにも同じようなことが何度かあった。他の女性にも厚意のつもりで何気ない言葉をかけたら、真っ赤になって走って逃げられたことがあった。中には叫ばれたこともある。……あれはもしかして、セクハラだったのか?


「……すみません、あの……」


言いかけたけれど、うまく言葉が出てこない。何を謝るべきなのかもわからず、ただもたもたしているうちに、改札まで来てしまった。


「……では」


そう言っていつも通りに頭を下げる。けれど、彼女からの返事はなかった。



──返事がなかった。


昼休み、職場のデスクでうなだれていた。


(……やっぱり、セクハラだったのかもしれない)


思い出すほどに自己嫌悪が募る。そんな自分に声をかけてきたのは、隣のデスクの同僚・小野だった。


「なに落ち込んでんの? 例の件か?」


「……例の件?」


「おいおい、忘れたのかよ。佐々木が盛大にやらかしたやつだよ」


ああ、と彼は目を伏せる。後輩の佐々木が出した見積もりが、仕様と全然違っていた件か。

取引先から盛大なクレームが入り、佐々木に泣きつかれ、上司からも手助けを頼まれ、事後処理はすべてこちらに回ってきた。そのせいで、明日から少なくとも二時間早く出勤しなければならなくなった。


(……彼女に会えない)


そう思った瞬間、胸がきゅう、と締めつけられた。


……これはきっと、謝れないままになることへの後悔だ。セクハラまがいのことをして、嫌われたかもしれないまま、もう顔を見られないなんて。



その日から、彼女に会えない日が続いた。


そして会えないまま、三日目の朝を迎えた。昨日も、今日も、その姿を見かけることはなかった。

早朝の会社ロビーで、ふと立ち止まる。


(このまま、もう二度と会えないかもしれない)


(いや、たとえ会えても、今までのように話してはもらえないかもしれない)


考えれば考えるほど、答えの出ない不安に飲みこまれそうになる。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。


「……ちょっと、出てくる!」


そう言って職場を飛び出し、最寄り駅へ向かっていった。

最初は早歩き。そこから小走り、気づけば全力疾走していた。


(頼む、間に合ってくれ……!)


電車が着く時間に合わせて、ようやく改札に到着する。


──いた。


改札の向こう側で、こちらをきょとんと見つめている彼女が、そこにいた。


息を切らせながら、彼女のもとへと一歩一歩、歩いていく。真っ先に彼女に謝らなければ──そう思っていた。


なのに、最初に口から出たのは。


「……会いたかったんです」


その一言だった。


……そうだ。僕は、会いたかったんだ。彼女に。


この数日の焦燥も、今日ここに来てしまったことも、全部そのひと言で腑に落ちた。それが何を意味するのかはまだわからない。でも、確かに僕はそう思ったのだ。


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