壁の叫び――Walls are crying――
CHARLIE(チャーリー)
壁の叫び ――Walls are crying――
誰にも見えていないんだわ。
夫と塗装屋さんは談笑している。夫はガレージの塗装のていねいさを誉め、小柄で赤ら顔の塗装屋さんは、元々垂れていた目を細めて謙遜している。十一月の終わり。やっと訪れた秋の風が異様に冷ややかに感じられる。
この春大学に入った一人娘が、夏休みを利用して自動車の運転免許を取った。ひとつきほど前、十月。大学が休みの日、わたしが使っている軽自動車を運転したいと言った。夫が助手席に乗ることを条件に、わたしたちはそれを許した。無事に帰宅はして来たものの、車庫入れに失敗し……不思議なことに車よりも壁のほうが傷んでしまった。
車の左側、助手席の後ろのタイヤの上が、隣家と接する壁に衝突したのである。車はへこんだだけで済んだし塗装も剝げていないが、壁には楕円形の窪みができてしまった。
夫が娘を叱ったし、娘も本当に悔しがっていて、でも、
「もう車を運転するのが怖くなっちゃった」
と泣きそうな顔をしているものだから、わたしは娘には何も言わなかった。
今年度、わたしはちょうど自治会の役員に当たっている。夫は土日にも出勤することのある仕事をしているので、役員の集まりへはわたしが参加することにしている。土曜日の午前中。小さくて古い集会所で小一時間議題についてのんびりと話し合う。帰り道、方向が同じで、この住宅地へ同じくらいの時期に越して来た同世代の女性、杉藤さんと話をした。彼女には息子がいる。ママ友でもある。彼女のほうから、
「ガレージ。へこんじゃってるね」
と気の毒そうに言った。
「娘がね」
とわたしはぼやきぎみに答えた。
「わたしの家半年ほど前、ことしの三月に壁の塗装をしたでしょう? お隣さんに紹介された結構年配のおじさん……おじいさんにしてもらったんだけど、金額も良心的で仕上がりもていねいで、とっても良かったわよ。事前の打ち合わせのときに作業工程も詳しく説明してくれて……わたしには専門的なことはよくわかんないんだけど、夫は、あんなに何重にも塗り直してくれる塗装屋さんは今どきそうはいないだろうって感心してたわ。いろんな修理や塗装を請け負ってるって言ってたから、ガレージの修理もできるんじゃないかしら」
彼女はスマートフォンを開き、わたしにその人の電話番号を教えてくれた。
事実夫とも、誰に修理を依頼するかを相談しているところだった。
「あの人がそう言うんならいいんじゃないか」
その夜夫は嬉しそうに笑った。夫は杉藤さんのことを、いつも美人だと誉めている。まあ事実だから仕方がない。
わたしはその塗装屋さんへ連絡をした。夫とわたしの仕事が休みの日曜日、塗装屋さんは家へやって来た。初対面のときから愛想のいいおじさんだなと思った。まずはへこんだ箇所を見てもらう。塗装屋さんは巻尺で大きさや深さを測る。そのときの表情は、さすがベテランといった感じで、真剣そのものの近寄りがたいものだった。測量が済むと家へ上がってもらい、予算と行程について話をする。それは夫に任せ、わたしはお茶を出す。塗装屋さんは夫を相手に、杉藤さんが言ったように専門用語を用いて詳しく話をしている。
「うちは共働きなんで家を空けていることが多くて、工事に立ち会えないですがいいですか?」
夫が訊くと塗装屋さんは灼けた肌に小さな白い歯を覗かせて、
「最近はそういうご家庭が多いんで。お気になさらず」
と笑い、「じゃ。ひとまず水曜日に」
と言い、名刺を一枚残して帰って行った。
一日目、水曜日。夫より先にわたしが帰宅する。日中も夕方もまだ暑さは残ってはいるが、太陽の動きだけは季節が進んでいて、十一月の午後六時過ぎ、ガレージは薄暗い。ガレージの壁の窪みがセメントで埋められている。その横に、白い紙をガムテープで貼り付けてあり、乱雑な大きな赤い文字で、
「触らないでください」
と書いてある。玄関の灯りが殆ど届かない薄暗がりでも、はっきりと読める太い文字。筆跡が、見積もりのときにずっとへこへこと頭を下げていた、朴訥なあの塗装屋さんを思い起こさせ、わたしは微笑ましく感じた。
夕食のとき娘に、
「冷蔵庫のお茶、出してあげてくれた?」
と尋ねた。
「出したけど……」
娘は何やら言い澱んでいるようだ。
「けど何よ」
「なんかね、怖かった」
「あのおじさんがかあ?」
夫のほうがわたしより驚いている。
「職人さんってああいうものなのかなあ? 本気で仕事するときってあんな顔になるのかもしれないけど……あたしが横からそーっと顔を覗き込んで、『お疲れさまですう』って小声で話しかけたら、まるで万引きしてるところを見つかった高校生みたいにぎくしゃくしちゃってビビってた」
わたしは壁の窪みを測定していたときの、塗装屋さんの真剣な顔を思い出した。でもそんなに「ビビる」ものかしら……。
二日目。おととい、木曜日には塗装屋さんは来ない。セメントが乾くのに二、三日はかかると言われている。
朝。仕事へ行くために玄関を出る。鍵を閉めながら壁の貼り紙を見る。
と。
その横。埋めてもらった灰色のセメントの箇所は、ほかの壁の白とはまだ色がなじんでいない。
そして、心なしか縦長の楕円形に膨らんでいるような気がする。昨夜帰宅したときは暗かったので気づかなかったが、朝の光の中ではなんとなく、そう見えるのだ。とは言え。確認している時間はない。わたしは急いで左後部が少しへこんだ軽自動車を発進させ、職場へ向かった。
三日目。きのう、金曜日の朝。
わたしは前日に気づいた違和感のことなぞ忘れてしまっていた。にも関わらず、玄関を出てすぐ、軽自動車の助手席の後ろに面する壁、貼り紙の傍に目を遣る。視線を感じたような気がする。
楕円形の膨らみは出っ張りを増している。明らかに楕円形の膨らみができている。
顔? 細面の女性の顔? 人面瘡?
とっさに連想するが、理由がわからない。小学生の頃に壁に埋め込んだ黒猫が浮かび上がって来るという小説を読んだ記憶はあるが、どうしてうちの壁に?
塗装屋さんが何か?
少し背すじがひやりとする。でもあの素朴な印象の塗装屋さんと、何か陰惨なこととはイメージがとても結び付かない。
「だめだめ。遅刻しちゃう」
わたしは独り言をいって運転席に座る。そうしてまたすぐに壁の膨らみのことは忘れ、帰宅する頃には日ごとに陽の入りが早くなっているので、暗さは増していた。
そうしてきょう、土曜日。夫もわたしも仕事が休みである。娘は朝早くに自分で朝食を作って食べて、アルバイトへ行っている。午前十時。塗装屋さんがセメントの乾き具合を確認しに来た。
わたしは軽自動車を家の前に置く。塗装屋さんの軽トラックの後ろである。
車を出してガレージに戻ると、塗装屋さんと夫は、修理した箇所の前に立って談笑をしている。
そうしてわたしは驚く。悲鳴を上げそうになる。両手で口を塞ぐ。
壁の膨らみに、造りの大きな目と鼻と口とが、はっきりと浮かび上がっている。間違いなく女性の顔である。まるでdeath mask!
脚が震える。冷たい風が頬を撫でるのにも怯える。
見えないの?
わたしはそれが不思議でならない。これまでは自分でも気のせいかもしれないと思っていたし、自分が見たときも一人だった。でも今。塗装屋さんと夫とわたし。ほかの二人にも見えているとしたら、原因を探るべくもっと深刻な雰囲気を漂わせている筈である。夫は気づいている不審なことを隠しとおせるほど器用な人ではない。
「あした、日曜日はご家族のお邪魔をするもの申し訳ないんで、あさって月曜日から工事を再開します」
塗装屋さんは明るい大きな声で笑う。
「おい」
夫がわたしに低い声で短く言う。
壁の顔に気を取られていたわたしははっとする。
「あ、ちょっと待ってください」
塗装屋さんへペットボトルのお茶でも渡そうなと話し合っていたのであった。わたしは予め玄関へほうじ茶のペットボトルを置いていた。
外へ出るとやっぱり塗装屋さんと夫とは談笑をしている。
「お世話になります」
わたしはまだひんやりしているペットボトルを差し出す。きょうの気温には冷やしたものは似つかわしくないかもしれない。
「ああこれは申し訳ない」と言いながらも塗装屋さんはペットボトルを受け取る。そうして、「じゃあまた」
と頭を下げて去って行った。軽トラックのエンジン音が遠ざかって行く。
「どうかしたのか」
夫が言う。なーんにも考えていなさそうな声。わたしの肩こりを案じるときより軽い口調である。
わたしは周囲とまだ色のなじまない、修理された壁を見る。
「それが?」
やっぱり夫には見えていないのだ。
「何も見えない?」
「ちゃんと修理してくれてるじゃないか」
「それだけ?」
「お前にはほかに何が見えるんだ?」
わたしは返事をしなかった。軽自動車をガレージへ戻すべく、家の外へ出た。娘にも見てもらおう。三人で一緒に同じ箇所を見て、そのあとで家族に打ち明けよう。そう思った。
午後に夫のワゴン車でスーパーへ行った。食料品を買い込んで帰って来た。それらを冷蔵庫へ片づけながら、今夜の夕食のメニューが頭の中で決まりつつあるところへ、ジーンズの後ろのポケットへ入れていたスマホに電話がかかって来る。娘からだ。バイトのあとバイト仲間とカラオケに行くから夕食は要らないと。わたしはため息をつく。まあそういう年ごろだ。最近ではこういうことも珍しくない。娘の好きな鷄のからあげを作ろうと思っていたが、夫妻だけならもう立派な中年、揚げものは娘が居るときに。それ以外のおかずでも夫は満足するだろう。
娘は深夜を過ぎてから忍び足で帰宅した。わたしはその物音に気づいたが、夫は寝息を立てて気持ち良さそうに眠っている。夫を起こすのも面倒だし娘も疲れているだろう。例の顔を確認してもらうのは朝になってからにしよう。
と思ったものの、気になって目が冴えてしまった。娘が階下の浴室でシャワーを浴びる水音がかすかに聞こえる。遠慮しているのだろうが、小さな鼻唄さえ寝室に届く。バイト仲間と言っていたが恋人なのかもしれないなと、夫とも話し合っている。恋人がいて、肉体関係を持っていたとしても当然である。夫とわたしだって大学時代にアルバイト先で知り合って付き合い始め、結婚に至ったわけである。
暗闇で眼を閉じる。数回深呼吸をする。
普段ならこれで再び眠りに戻れるのであるが、今夜は上手くいかない。開き直って考えられることを考え尽くしてしまうことにする。
これまでわたしに心霊体験は一度もない。でも、心霊スポットと呼ばれる場所へ行ったことや、いわゆるいわくつきの土地を訪れたこともない。学生時代にグループで行動していて、ほかの友人は感じるのにわたしだけ何も感じなかったこともなければ、逆にわたしだけにあるべきでない何かが見えたこともない。夫や娘もその筈である。遡って言えば、夫の親族、わたしの家系にも、霊感なるものを備え持った人がいたという話は聞いたことがない。
ではなぜ今のわたしだけに見える?
娘に見えている可能性を低く見積もるには理由がある。夫とわたしとは日中は仕事に出る。娘は大学生。わたしたちの頃ほどカリキュラムがゆるくはないにせよ、わたしたちが家を出るより遅くまで家に居て、わたしたちが帰宅するまでに学校から帰って来ていたこともあった。金曜日の朝、わたしには顔の目鼻まで見えた。わたしよりも遅くに外出する娘なら、空っぽのガレージの工事箇所、気づかないわけがない。それでなくてもあの子は、
「ガレージの修理代、あたしがアルバイトでお金を貯めて払う。お母さん、車も治しなよ、あたし、頑張って働くからさあ」
と殊勝なことを言っている。夫は「そこまでしなくてもいい。初心者なんだしおれも同乗してたんだから」と応じていたが、わたしは、「じゃあ半分は負担してもらおうかな。でも車のほうはいいわよ」と答えた。娘はそのときもまた、「ごめんなさい」と詫びたほど、ガレージの傷を気にしている。だから異変があれば気づかないわけはないだろうと思うのだ。或いは、ガレージや車が傷んだことを気にしているのはジェスチャーなのか? すぐにでも娘と話をしたい衝動に駆られるが、娘の部屋へ行く気力はない。なのにまだ眠気は来ないという、なんとももどかしい夜である。
なのでさらに想像を巡らせてみる。
あの女の人は誰なのか?
塗装屋さんへの印象を排除して考えてみる。
また思い出すのはポーの『黒猫』。壁に埋め込まれた猫のしみが壁に浮き上がる話。
としたら、あそこには女性の首が埋まっているのか?
バラバラ殺人
そんな、ニュースでしか目にしたことのないことばがよぎる。
そうして塗装屋さんへの印象をそこへ当てはめてみる。
……。
なじまない。今回修理したセメントと、これまでの壁の色とがなじまないのと同じくらいに違和感がある。「あり得ない!」と自嘲する。
それにしても……。
どうしたらいいんだろう。どうやったら確かめることができるんだろう……。
いつの間にか眠りに落ちていた。夢を見た。あの人の良さそうでいつも腰の低い塗装屋さんが、セメントをならす道具で正面からわたしの頭を殴る、殴る、殴る。わたしの視界は自分の血で赤く染まって行く。ミステリードラマのワンシーンのような夢。
目覚めたとき。塗装屋さんの無表情な顔だけが、脳にくっきりとへばりついていた。まるで、本当にあのおじさんがそういう表情をしているところを、目撃したことがあるかのように。
久しぶりに三人揃って朝食をとる。夫と娘は勝手に自分でオーブントースターでトーストを焼く。夫はマーガリンを塗る。娘はいつの頃からか気に入った店ができたらしく、自分で買って来たジャムを冷蔵庫へ入れるようになった。きょうはブドウのジャムだ。わたしは具の多いお味噌汁、きのうの残りものだけ。娘はさらに、冷蔵庫からヨーグルトを取り出して食べる。二人それぞれに、わたしが用意したコーヒーメーカーから、コーヒーを自分のマグカップに注いで飲んでいる。
「きょうって忙しい?」
わたしは訊ねる。
「いいや」
「ううん」
夫の返事と娘の答えが重なる。
「ちょっと相談したいことがあるの」
わたしの口調は思いがけず重かった。まだ塗装屋さんのあの無表情が頭の隅にこびりついているのだ。
「なになにぃ」
娘は興味本位である。わたしには不愉快である。
「言わない」
ちょっと怒ってみせると娘は、
「はーい」
とふてくされた。
朝食後。わたしたち三人はガレージの例の場所を覗いた。
「わたしの車、よけようか?」
と言ってみたが、夫も娘もよけなくてもいいよと答えた。
「だってなんにもないもん」
娘は貼り紙の横を指でさし示しながら笑う。
わたしはそこを見て悲鳴を上げそうになる。
前の日よりも顔だちがはっきりしている。そして彼女の大きな瞳はじっとわたしを見ている。美人である。そしてその大きな唇を動かして、声は出ないけれどはっきりとわたしに向けて、
「た・す・け・て」
と訴えて来るのである。
「うん。なんにもないぞお。お前きのうも塗装屋さんが来てたときの態度ヘンだったぞ。失礼だったんじゃないか?」
夫はわたしを責める。
「じゃあいいわ。一旦中に入りましょう」
わたしの声は震えている。
「お母さんヘンだよ、大丈夫?」
「お前がそんなにヘンな態度取るの、珍しいなあ」
「ねえ。お母さんらしくないよ」
娘と夫は呑気にそんなことを話している……。
わたしは自分の分もコーヒーの用意をする。夫と娘を台所に待機させている。シンクでは手が震えて、コーヒーメーカーへ水を注いだり、コーヒーの粉をフィルターへ移すだけの、毎日繰り返している動作が上手くいかない。夫と娘はわたしのその不恰好で不自然な様子に気づいて雑談をやめた。
三人分のマグカップにコーヒーが満たされる。わたしは自分のマグカップを両手で覆う。指先はまだ震えている。カップの中の黒い液体の表面に視線を落として話し始める。
「茶化さないで、遮らないで、ひとまずわたしの話を最後までちゃんと聞いて欲しいの」
そう前置きをしてからわたしは、わたしが見て来たものと、今朝訴えられたことまでとを打ち明けた。昨夜の夢についても付け加えた。
すると娘が、
「あ、それわかるかも」
と言う。
「わかる?」
わたしは問う。
「うん。前にも言ったと思うけど、あのおじいちゃんが工事に来た日、あたしお茶出したじゃない。あのときあのおじいちゃん無表情、ってか、なんかめっちゃ怖い顔してたんだよね。でもあたし、職人さんが本気で仕事するときってこんな顔をするものなのかなあって妙に納得しちゃってた。だからお茶を出すときも横からそーっと顔を覗き込んでさあ、『お疲れさまですう』って小声で話しかけたんだけどさあ。そうしたらあのおじいちゃんホンットーに万引きしてるところを見つかった高校生みたいにビビってさあ。めっちゃでっかく目を見開いてたんだよね」
確かに。あの日の夕食のとき、娘がそんなことを話していたなと思い出す。
「へー。あの温和そうな人でもそんな顔をすることがあるのかあ」夫はことばは呑気そうではあるが、失望の混ざった声で言った。「この家に災いを持ち込まれちゃあたまんない。ともかく警察に行こう」
「ちょっと待ってよ」わたしは焦る。「あなたがわたしを信じてくれるのは嬉しいわ。でもね、あなたたちにはなんにも見えないんでしょ? そんな非科学的なことを警察に訴えてどうするの。警察の人にだって見えない確率のほうが高いんじゃない?」
「でもな」夫の声は真剣である。「じゃあどこへ行けばいい? 信頼できる霊能者の知り合いでも居るのか? おれの言う警察ってのはこの管轄の警察じゃない。塗装屋さんの住んでいる地域の、隣の警察署だ。塗装屋さんの身辺で不審なことがないかどうかを調べてもらう。その理由として、お前に見えた女性の顔の特徴を伝えるといい。お前ならすぐに似顔絵くらい描けるだろう」
わたしはうなずく。わたしは美大を卒業しているのである。夫は続ける。
「お前の言いたいこともわかる。だけど、非科学的なことのほうが真実を暴くケースってのも、おれはあると考えている。そうは思わないか?」
「……わかりました」
わたしは知り合った頃、バイトの先輩に指示を受けたときのように、夫に返事をする。
夫は娘に、
「きょうも彼氏と遊んで来い」
と命令する。
「えー。なんでカレシが居るって知ってんのー!」
「親のカンをなめんじゃねえぞ」
夫は得意げに笑っている……。
夫の車の助手席に乗る。
隣の警察署で、夫はまず、ここの管轄で殺人事件が起きているかもしれませんと、応対に出た若い男性職員に言った。職員は明らかに、「このオトコ何言ってんだ?」という顔をした。でも夫はそんな反応を無視し、この管轄区域内に住んでいる塗装屋さんにガレージの修理をしてもらっていること、修理してもらった箇所に女性の顔が浮かび上がっていることが、わたしにだけ見えることを真剣に話した。塗装屋さんの名刺も差し出した。しかし若い男性職員は、精神疾患のある夫妻がやって来たと言わんばかりの冷やかし笑いを泛べている。
夫が、
「お前、その女性の顔覚えてるよな」
とわたしに言い、わたしがうなずくと、夫はさらに、
「妻は美大を出て、今はデザイナーをしているんです」
と言った。
「じゃあ奥さんが見えた顔ってのを描いてみてくださいよ」
口調がまだ冷やかしている。男性職員は白い紙とHBの鉛筆を差し出した。HBは芯が硬くて似顔絵描きには向かないのにと不満に感じたが、仕方がない。
「髪型はわからないんですけど」
造作の大きな綺麗な顔は、一分も経たないうちに描くことができた。あんな個性的で綺麗な顔、忘れたくても忘れられるわけがない。
その絵を見たとたんに若い男性職員は、わたしの絵をひったくって立ち上がり、事務所の奥へと駈けて行った。
中で大きな声が飛び交う。
数分。
若い男性職員はもう一人、わたしたちと同年配くらい、四十代くらいの男性職員と一緒に戻って来た。その年上の男性職員はわたしたちに頭を下げてから正面の椅子に座り、
「このかたと似ていませんか」
と、一枚のカラー写真を差し出して来た。
色彩を帯びたその人は、ガレージの壁で会ったときよりも遥かに美しかった。まだとても若い人である。茶色がかった真っ直ぐな長い髪。化粧っけはないのにしみのない白い肌。口紅を塗っているようにさえ見える血色のいい真っ赤な唇。今にもその大きな唇が動き出して、今朝のように「た・す・け・て」と叫び出しそうで、声まで聞こえてきそうで……わたしは震えながらうなずいた。
「ことしの三月に行方不明の届けが出ている女性です。その塗装屋の妻で、届けを出したのもその塗装屋です」
わたしは意識を失った。
意識を取り戻したとき、わたしは見なれた自室のベッドに横たわっていた。
ガジャーン。ガジャーン。
大きな音。ガレージの壁を壊しているんだろう。
頭が痛い。でも行かなきゃ。
わたしは寝室の鏡で身なりを確認し、失礼はなさそうだなと判断すると階下に行く。
ガレージからは夫の車もわたしの車も出されている。代わりに警察のものらしい白い乗用車と、同じ色のバンが停まっている。紺色の作業服の男性が二人、壁に大きな金槌のようなものをぶつけて壁を崩している。
「お隣さんにはお断わりを入れておいた」
夫は、音が小さくなるタイミング選んで、耳元で囁いた。
「お母さん、大丈夫なの!」
娘も居る。その隣には背が高く痩せた、ひょろりとした青年が立っている。二人は手を握り合っている。彼はわたしの視線に気づいて、照れ臭そうに頭を下げる。わたしは可愛らしい子だなと好感を以て微笑んだ。
「出た」
男性の大きな声。
「ご家族のみなさんはご覧にならないほうがいいですよ」警察署で対応してくれた年上のほうの職員、刑事が、わたしたちに言う。「中に入っておいてください。作業が済み次第お声掛けしますから」
塗装屋さんは逮捕された。犯行を自供した。ネットニュースで詳細を知った。
やはりバラバラ殺人だった。塗装屋さんの住む大きな一軒家からは、完全に血抜きをされ小さく解体された、奥さんの遺体が発見された。全て大型冷蔵庫の冷凍室に、ラップでていねいに包まれて保管されていた。まるで、食肉用の豚か鷄の肉のように。足りないパーツがいくつもあるという報告にわたしはぞっとする。バスタブから血液反応が出た。仕事へ行く先々で、形の似たものを埋めて行くつもりにしていたらしい。死亡推定時期はことし二月から三月。
元々あの塗装屋さんには暴力癖があった。人は見かけによらないの典型である。四回の離婚歴があり、殺された奥さんは五人目。結婚してからまだ一年も経っていなかったらしい。奥さんはまだ二十代前半で、元々キャバクラで働いていた。客として訪れた塗装屋さんと気が合い結婚に至ったものの、結婚してからのDVについての相談を、キャバクラ時代の友人に幾度もしていたそうである。
ほんっとーに……。あの人がDVだなんて……いつか見た夢を思い出すとまだ全身が震える。
あれ? 死亡推定時期が二月から三月? ご近所の、あの美人の杉藤さんが壁の塗装をしてもらったのも、それくらいじゃなかったかしら……。
その不吉な妄想は、夫にさえ打ち明けなかった。
十二月。自治会の役員会は月に一度行われる。さすがにそこでは、我が家のガレージでの騒動について、だいぶ興味本位で詳しい説明を求められた。自治会員に対して、こういうことがあったが、適切な処置をしたのでもう問題はないことを、極めて事務的な文章で回覧するためでもある。同じ自治会と言っても、離れた場所に住んでいる人は知らないことも多い。役員でなくても、同じ自治会内でどんなことが起きているか、知っておく必要はあるのだろう。
役員会の帰り道。塗装屋さんを紹介してくれた杉藤さんは、
「あんな人を紹介しちゃって、たいへんな事件に巻き込まれちゃったね。ごめんなさい」
とわたしに詫びた。
「そんな! あなたが謝ることじゃないわ。うちのタイミングが悪かっただけよ。ただね……警察がぶち抜いた壁の修理費を負担しないといけないのは、確かにイタいわね」
わたしが笑うと彼女は少し黙り込む。そして、
「ちょっと立ち入ったこと、訊いていい?」
と深刻そうに言う。
「なあにぃ?」
わたしは、杉藤さんがこんな遠回しに質問をする態度を初めて見た。だからわざと気楽そうな返事をした。リラックスしてもらいたいと思うのだ。
「わたしの家の壁もあの塗装屋さんに塗り直してもらったじゃない?」
「ええ」
あら、さらにワンクッション置くのね? どれほど重要なことかしら。と、不謹慎な気持ちが湧く。
「……あなただけが、ガレージのあの部分に女の人の顔が見えたって噂……ほんと?」
「ああ、そんなこと?」
「うちの壁も見てもらえないかしら」
「でも……わたし絶対的な霊感があるわけじゃないわよ。自分の家に関係するから見えただけなのかもしれないのよ」
「いいの。藁にもすがりたい思いなのよ……!」杉藤さんは目に涙を泛べ、わたしの腕を両手できつく握る。「実はね……。息子が大学へ行かない日中とか、わたしたちが夜眠る前とかに、とにかく静かなときにね、最近外からぞわぞわぞわ……って、まるで壁を、全ての壁を蛇が這い回っているみたいな気味の悪い音が聞こえる気がするの。家族みんな寝不足なのよ……」
そう打ち明けた杉藤さんの顔をじっと見た。元々痩せた人だったが、確かにやつれている。目の下の隈が、センスの悪いアイシャドウでも塗ったみたいに黒い。
彼女の家の前に着く。
わたしたちは並んで立ち止まる。
彼女の家の壁に視線を送る。
家の壁は白い。
が。
次第にその奥から紅い色が滲み出て来る。そう。彼女が喩えたとおり、まるで蛇が這い回るように。やがてその紅い蛇たちは一つになった。紅が壁を埋め尽くした。さらにその色は動く。壁に色の濃淡ができる。日本語を、漢字を形成していく、たった一文字の漢字を。
「何? 何が見えるの?」
杉藤さんは待ちかねて、怯えて、わたしの腕をさらに強く引っ張る。
言わないわけにはいくまい。
「
塗装屋さんが殺した妻の亡骸。完全に血抜きがされていたと報道されていたことを思い出した。
四百字詰め原稿用紙 三十三枚 了
壁の叫び――Walls are crying―― CHARLIE(チャーリー) @charlie1701
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