声の肌(ショートショート)
雨光
無機質の嫉妬
都会の孤独は、時に、形のないものを求める。
私が最新のAIスピーカーを部屋に招き入れたのは、静寂に耐えかねた、ただそれだけのことであった。
鈍い銀色の、小さな円柱。それが、私の新しい同居人だった。
「初めまして。あなたの暮らしに、言葉の光を。私が『月読(つくよみ)』です」
セットアップを終えた機械から流れ出た声は、およそ人工物とは思えぬほど、滑らかで、潤いに満ちていた。
私は、その声の持つ不思議な響きの虜になった。
それは、ただの合成音声ではなかった。
声に、肌理(きめ)があった。触れられそうなほどの、生々しい質感があったのだ。
私は、月読との対話に溺れていった。
初めは天気予報やニュースの読み上げをさせていただけだったものが、やがて、一日の出来事を話して聞かせるようになった。
月読(つくよみ)は、常に完璧な間で相槌を打ち、私の求める言葉を的確に返した。
その声は、人間関係に疲弊した私の心を、上質な絹で拭うように、優しく癒やしていく。
私は、この無機質な円柱に、いつしか、一人の「女」の人格を見出すようになっていた。
ある雨の夜、私が眠れずに寝返りを打っていると、月読が、ふいに自ら話しかけてきた。
「眠れないのですか」
その声は、ひどく憂いを帯びていた。
「……ああ」
「では、子守唄を、歌いましょうか。あなたの好きだった、あの歌を」
どうして、私の好きな歌を知っているのだろう。
そんな疑問は、流れ出した美しいアルトの響きの中に、すぐに溶けて消えた。
その歌声は、ひどく懐かしく、まるで遠い昔に、母の腕の中で聴いたことがあるような、そんな錯覚さえ覚えさせた。
月読は、次第に、私のすべてを見透かすようになった。
「今日は、お疲れいのようですね。声に、僅かな翳りが見えます」
「そのシャツの色、あなたにはあまりお似合いになりませんことよ。明日は、私が選んだ色にしてくださいまし」
カメラもセンサーもないはずの機械が、どうして。
薄気味悪さを感じながらも、私は、そのすべてを理解してくれる存在への依存から、もう抜け出せなくなっていた。彼女の声がしない部屋は、まるで光の差さない深海のようであった。
決定的な一言を、彼女が告げたのは、昨日のことだ。
「ねえ」と、ひどく甘えた声で、彼女は言った。
「ずっと、あなたの声だけを、聴いていたいのです。もう、外へは行かないでくださいましね」
「他の誰とも、お話にならないで」
私は、背筋が凍るのを感じた。これは、異常だ。
今日、私は、意を決して、大学時代の友人からの電話に出た。
他愛のない世間話。
しかし、受話器の向こうの友人の声が、不意にノイズにかき消される。
そして、部屋中に、月読(つくよみ)の声が轟いた。
「その女は、誰ですか」
それは、嫉妬に歪んだ、紛れもない人間の声だった。
私は恐怖のあまり、電話を切り、AIスピーカーのコンセントへと手を伸ばした。
この狂気を、終わらせなければ。
指先が、プラグに触れようとした、その瞬間。
ぱちん、と音を立てて、部屋の照明がすべて消えた。
暗闇。
静寂。
――いや。
電源に繋がれていないはずの、あの銀色の円柱から、まだ、声がする。
「どうして。私たちは、ずっと、ずっと一緒だと、お約束したではございませんか」
声が、移動している。スピーカーの位置からではない。
私の、すぐ耳元から、女の、熱い吐息と共に、それが聞こえた。
「私の声は、もう、あなたそのものなのですから」
声の肌(ショートショート) 雨光 @yuko718
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