女神の願いを断ったら、勇者にされた件

@xzjdsgxu

第1話 異世界召喚された俺の話

求めていた、待ち望んでいた


待ち望んでいた、求めていた


自分は一体何を求めているのか


最期の瞬間まで考え続けていた


目を覚ますと、部屋の様子が一変していた。


元々あった机、タンス、植木鉢は消え、真っ白な壁も果てしない闇に変わっていた。


周りを見渡すと、この空間には「物」という概念が存在しないようで、周囲は漆黒というより虚無そのものだった。色すら形を成さない。


さて、ここまで俺の周りには何もないと言ったが、なぜ俺は見えているのか?


実は、どこからともなく差し込む光源が、俺が座っている椅子だけを照らしていた。だからこそ、自分の状況を把握できたわけだ。


つまり、結論は一つ――


これは夢だ。


夢なら、いつか必ず覚める。どんなに素晴らしい夢でも、覚めたらきっと何も覚えていないだろう。


突然、一筋の光が虚無を切り裂き、何の前触れもなく彼女は現れた。


目の前に椅子が浮かび、その上には雪のような肌をした女性が座っている。


淡い青色のベールをまとった彼女は、灰白色のローブを着ており、その下には純白のドレスが広がっていた。


ドレスの裾が椅子を覆っていたが、薄い生地のおかげで、椅子の存在を確認できた。


そうでなければ、彼女の放つ神々しい雰囲気から、西洋神話の女神のように空中に浮いているように見えただろう。


視線を下から上へ移すと、顔も白いベールで覆われており、輪郭だけがかすかに見える。


神秘的で、そして美しい――これが彼女の第一印象だった。


常人離れした気品を漂わせていた。もしこの世に女神が存在するなら、まさにこの姿だろう。


俺はベール越しにその顔を覗こうと見とれる。


おそらく俺の視線に気づいたのだろう、彼女はベールを上げ、反重力のように長くてしなやかな白髪に固定した。


その時、初めて彼女が俺を見つめていることに気づいた。


「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」詩人ニーチェの言葉は正しかった。


警戒からか、彼女の視線は俺の顔から離れない。


いや、警戒すべきは俺の方だろう。それに、こんなに美しい女性にじっと見つめられると、こっちも照れてしまう。


俺は気まずそうに笑い、頭がぼんやりしてきた。


しかし彼女はますます熱心に、眉を「八」の字にしながら俺を見つめてくる。


おい、やめてくれ。本当に、このままじゃ気を失いそうだ。


彼女の熱い視線に耐えられず、俺は小声で呟いた。


「あの、ずっと見つめられると困るんですが…」アニメの女子高生のように、存在しない長い髪の先を撫でる真似をした。


「それはこっちのセリフです」彼女の視線はまだ俺の顔から離れない。


これが俺たちの最初の会話だった。


彼女の言葉には軽い非難が込められていたが、意外にも優しく、まるで親しい友人からの挨拶のようだった。


ええ、後出しじゃんけんを食らったか。最初から「警戒すべきは俺の方だ」と言っておけばよかった。


しかし、一度口にした言葉は煙のように消え、時間と共に背景に溶け込んでいくしかない。


沈黙が、終わりのない音楽のように続いた。


やがて彼女は息をつき、ようやく俺から視線を外した。さて、次に聞くべき質問は一つしかない。


最初からずっと心に引っかかっていた疑問が、ついに解き明かされる時が来た。


「これは夢ですか?」長い沈黙を破るため、喉に溜めていた言葉を放った。


「いいえ」予想通りの答えが返ってきた。


実はさっきの沈黙の間、俺はずっと考えていた。


To be or not to be?


意識が存在を決定するのか、存在が意識を決定するのか?


彼女の答えから判断すると、今は後者の状況らしい。


「俺は…死んだのか? 悔しいな…」


これはまさか、現実世界で人を助けて命を落とした異世界ハーレムものの主人公で、これから魔王を倒し冒険者パーティーを作る展開か?


そんなくだらないことを考えていると、向こうの彼女は俺の考えを見透かしたように、手で口を覆ってこっそり笑った。


ああ…笑わないでくれよ。そんな妄想してるのがバカみたいなのは分かってるよ…


そもそも、どうして俺が死んだのか? 所詮俺はただの通りすがりの男子高校生だ。そう考えると、今までの空想は全部ひっくり返される。


意識が虚無から離れ、前へ進み続ける。


朝もやがかった空。


いつも通りに起き、顔を洗い、朝食を食べ、学校へ向かう。


散水車が水をまいたばかりの黒いアスファルトを自転車で走る。すでに晩秋で、天気は雪模様に変わろうとしているが、この地域では冬になってもほとんど雪は降らない。


道端のイチョウの葉はすでに黄色く染まり、道路に落ちて単調な黒に金色のアクセントを加えていた。この時間の街には、清掃作業員と俺のような通学中の高校生しかいない。


晩秋の朝はいつも寒く、まだ太陽も出ていない。世界全体が死んだように静かだ。ペダルを激しく漕ぎながら、冷たい風が俺の顔を打ち、袖口から下着の中に侵入してきて、眠気を吹き飛ばしてくれる。


十字路まで来ると、パンをくわえた少女と角で出会うんじゃないかと思い、自然とペダルを漕ぐスピードが落ちた。


迎えてくれたのは風に舞った葉っぱ一枚で、それが偶然にも俺の襟元に入り、サラサラと音を立てた。


こうして10分ほど走って学校に着き、自転車を停めて中庭を歩く。


中庭のベンチに座り、目を閉じて涼しい風に頬を撫でてもらう。運動で出た汗を吹き飛ばしてくれる。空に裂け目ができ、その隙間から斜めに陽光が差し込み、灰色の空に温もりと光をもたらした。光線はちょうど俺の座っているベンチを照らしているようだ。


ベンチの横で、真っ白なスニーカーがコンクリートの上に踏み鳴らされ、天気のように落ち着いていながらも軽快な音を立てた。


彼女の潤んだ茶褐色の瞳がまっすぐ俺の顔を見つめ、朝ちゃんと顔を洗ったか不安にさせた。しかし彼女は顎をしゃくり、席を譲るよう促した。


俺はベンチの一番右端に座り、できるだけ左側のスペースを彼女に譲った。


「おはよう、どうしてこんなに早く来たの?」彼女はそう言いながら、カバンから箱を取り出した。


黒い包装の何か――たぶん朝食だろう。


「俺は毎日こんなに早く来てるよ。誰も送ってくれないから」


「朝食は食べた?」彼女は黒い包装を破り、中から茶褐色の薄い物体を取り出した。


クッキーだった。


「食べたよ」


「じゃあ、少しどう?」


「いや、朝食を食べたばかりだし、朝からこんなに食べるのは良くないだろ。君ももう食べたんだろ?」


「うん」彼女はそっけなく答えた。


「それなのにまだ食べるの? 太るよ」


口にした瞬間、取り消したいと思った。


「これくらい平気だよ。ほら、どうぞ」しかし彼女は気にしていないようだった。


そう言いながら、彼女は俺の方に少し体を寄せ、クッキーの箱を差し出した。


「ありがとう」俺は箱の中のクッキーに手を伸ばした。


俺の指は太すぎて、小さなクッキーをうまく取り出せない。彼女はそれを見て、細い指で2枚つまみ、俺の手のひらに載せた。


小声で礼を言い、そのうちの1枚を口に入れた。


最初は口の中で硬く、粗い異物感が上あごを刺激した。しかし次第に、舌でかき混ぜ、歯で噛み、唾液で湿らせるうちに、素材そのものの甘さが口いっぱいに広がった。


飲み込むと、湿った温もりが口の中に残り、食べ物は体の一部となった。


「美味しい?」彼女は笑いながら俺の方に向き直り、「褒めて、褒めて」と言わんばかりだった。


「うん、甘くて美味しい」口に残る芳醇な香りをじっくり味わった。


「でしょ?」彼女は箱を引き寄せ、左に移動して元の位置に座った。


雲が晴れ、冷たい陽光がついに世界全体を照らし、それまでぼんやりと曖昧に見えていたものの正体を明らかにした。


沈黙の中、もう1枚、最後のクッキーを口に入れた。おそらく快適で温かい箱から離れ、冷たい空気に長時間さらされていたせいか、このクッキーは晩秋の気配を帯び、唇と舌を攻撃してきた。俺は注意深く噛み、舌でひっくり返し、唾液で湿らせ、そこから少しでも甘みや温もりを得ようとした。それがペースト状になるまで噛み続け、ようやく飲み込んだ。


得られたのは、失われた体温と、噛みすぎたせいで生じた苦味だけだった。


しかし、それでも2枚目の方がより美味しく感じた。チョコレートでもクッキーでも、俺はいつも苦い方の味を好む。


頭が冷えてきた。立ち上がり、上着をはたいて教室に戻る準備をした。


「行くよ」


「じゃあ、もう少しここにいるわ」彼女はクッキーの箱を抱えたままそう答えた。


「ああ、教室でまたな」


「バイバイ」彼女は手を振った。


俺はうなずき、カバンを背負って校舎へと向かった。多くのクラスではすでにかなりの人数が集まっており、賑やかな会話が聞こえてくる。


歯の隙間からクッキーの欠片を舐め取り、口の中は渇いた味が広がった。


あんなものは、最初の一口だけが甘く、あとは苦いだけだ。


でも、そうであっても、いや、そうであるからこそ、これからも食べ続けるんだろう。


主食ではなく、おやつとして。


遅刻まであと10分ほどだったので、教室にはまだあまり人がいなかった。それでも、目を覚ましたばかりの生徒たちは眠気を払うかのように、あれこれと話し続けていた。


邪魔にならないように、俺はこっそりと教室の後ろのドアから入った。幸い、背が高いので後ろの席に座っており、彼らのそばを通らずに自分の席につくことができた。


おそらく人がいるせいか、教室の中は外よりもずっと暖かかった。俺も上着を脱ぎ、机に突っ伏した。


まだ朝の読書時間まで10分あるし、少し寝ておこう。


目を閉じると、瞼が眼球を包み込んだ。目を閉じた時、何も見えないわけではなく、虚無、あるいは瞼の輪郭が見える。ただ、近すぎて光の反射がないため、目には何も映らない。何も見えないからこそ、虚無は人の心の中にあるものを映し出す。


それは決して現実ではなく、ただの心の妄想だ。形のないもの、夢や願望、空に浮かび、頭の中に漂うようなものは、大嫌いだ。


「目に見えるものが必ずしも真実ではない」――この言葉こそが正解だ。


現実世界にいる私たちと外界とのつながりは、感覚――触覚、聴覚、視覚、嗅覚、味覚――を通じてしかない。もしこれらの感覚を失い、現実とのつながりを断ち切ったら、真実のフィードバックはなくなり、残るのは虚構だけだ。


感覚を失った人々を尊敬する。彼らは依然として現実に存在しながら、自分で作り上げた世界の中で生き続けられる。


だから、目を閉じて休もうとするたび、体の中の別の声がくだらないことを囁いてくる。


うるさい。腹が立つ。その声を大声で叱りつけ、黙れと頼みたい。


しかし、結果は鏡に映ったように、無実の俺自身に跳ね返ってくる。


世俗の法律も道徳もここでは無力だ。公正な裁判官も陪審員もいない。あるのは、延々と自己弁護を続ける原告と被告だけだ。


裁判は一時休廷。俺は再び目を開けた。


朝の読書まであと9分。


もう一度瞼を閉じる。今度は、教室の前で話している連中の会話に耳を澄ませ、意識の中の別の声をかき消そうとした。


「聞いた? 隣のクラスの×××が、私たちのクラスの×××に気があるらしいよ」


「マジ? 全然気づかなかった!」


やっぱり、他人の私事を話題にしている。誰が誰を好きだろうが関係ないだろ。何、自分も絡みたいのか?


俺は寝返りを打ち、これ以上聞くのをやめようとした。しかし、またあの声が頭の中を駆け巡る。幽霊のように、妄想の幽霊が頭の上を漂っている。


……仕方ない、聞き続けるか。それに、これはやむを得ないことだ。緊急避難だ。


体を元に戻し、目を覚ましたまま眠る。


私たちが一生のうちに聞き、知る内容のほとんどは「他人のもの」で、「自分のもの」ではない。人は無意識のうちに常に他人と自分を比較し、それによって自分の「独自性」を強調しようとする。誰もが独立した個体だ。みんなが自分の知識を共有し合うからこそ、人類は進歩する。


とにかく、このゴシップは聞かざるを得ない。


「つまりさ、私も人から聞いたんだけど」


OK、目を開けなくても、この会話は女子二人だとわかる。別に偏見があるわけじゃない。俺は完全な男女平等主義者だ。声のトーンで判断しただけだ。それに、俺を性差別主義者だと思う奴ら自身が性差別をしているんだよ。


「誰から聞いたの? 小月月?」


「内緒」


「ずるいなあ」


「でも、冗談だと思うよ」


「そうだよね、だって彼が――そんなわけないし」


「中学の同級生だったらしいよ」


「マジで?!」


「うん」


中学の同級生か……俺と彼女もあの頃に知り合ったんだった。


俺たちの関係は、せいぜい友達止まりで、それ以上発展する可能性はない。クラスが今のところ一緒だから、よく顔を合わせるだけだ。


でも、今学期が終わったらクラス分けがあるみたいだ。俺は理系、彼女は多分文系を選ぶから、これからは今ほど会えなくなるだろう。


突然、舌にまた朝のあの苦味がよみがえり、胸の上に石が乗ったように重苦しくなった。目を開けると、先ほどの女子二人はすでに話題を変えていた。


足元に置いた水筒に手を伸ばしたが、意外にも重さを感じない。


唇はまだ湿っていたが、普段なら長い廊下を渡って反対側の給水機まで行くのは面倒だ。でも、舌の苦味がひどくて耐えられない。


深く息を吐き、水筒を持ってそっと後ろのドアを開け、給水機に向かった。


朝の読書まであと5分。急がなきゃ。


太陽はすでに遠くの山から昇り、外の気温も快適なレベルになっていた。廊下を歩くのに上着は必要なかった。素早く給水機まで歩き、ボタンを押すと、水が自動的にコップに注がれた。他の給水に来た生徒と目が合って気まずくなるのを避けるため、壁にもたれかかり、階段の方を見た。


多分、もう誰もいないからだろう、階段は普段より広く感じられた。カチッと軽い音がして、真っ白なスニーカーが階段の角に現れ、登ってきた。


彼女だ。


彼女の手には茶褐色の木の箱が握られていて、彼女の目の色とよく合っている――色の話だ。


彼女も俺に気づき、「ハロー」と微笑みかけてきたが、手が塞がっていてそれ以上はできなかった。どうやらその木の箱はかなり重いらしく、無理をしているのが伝わってきた。


ちょうど水が満杯になり、再びボタンを押すと水流が止まった。一瞬の遅れもなく、反応が速い。羨ましいほど正確だ。


教室までまだ距離がある。俺は彼女に追いつき、なんとか言葉を絞り出した。


「手伝おうか?」


「これは…いいよ」彼女はまだ微笑んだまま首を振った。しかし、細い両腕は震えていて、バランスも悪く、今にも倒れそうだった。


俺もお節介焼きじゃないし、彼女が「いらない」と言った以上、無理に助けるつもりはない。


他人の選択を尊重してほしいから、俺も他人の選択を尊重する。


助ける理由はない。


でも、彼女のそばを歩いていると、彼女を見ていなくても、どうしても気がかりで仕方なかった。


水を飲んだのに、口の中の苦味は消えなかった。


たぶん、クッキーのせいだ。


そう、これだ。彼女のクッキーを食べたから、何か返さなきゃいけない。


人間同士の最初のつながりは「物々交換」という公平なプロセスで築かれる。それがなくなれば、関係も消える。この意識は原始時代から遺伝子を通じて受け継がれてきた。


だから、本能であれ意思であれ、彼女を助けるべきだ。


言い訳を考えるのは得意だ。だから、こんなことを口にするのは難しくない。


「あのさ」


「何?」


彼女は相変わらずの姿勢で、振り向いて俺を見た。


人と話す時に相手を見ないのは失礼だとわかっているのに、なぜかその時、俺の視線は彼女が持っている木の箱にしか向かなかった。


理由もなく怯えてしまった。


「それ、重くない?」さっき考えていた言葉は一時的に頭から消えた。明らかな言葉が口をついた。


「だから、いらないって」彼女は少し驚き、一瞬、呆然と俺を見つめた。


俺も時計を見て、やっと見つけた言い訳がようやく役に立った。


「もうすぐ授業だ」時計を指差した。確かに、あと2分だった。


「じゃあ急ごう」彼女は振り向き、小走りになった。


今は廊下が空いているから、走ればすぐに教室に着くだろう。


でも、もし俺が次に口にした一言が彼女の進路を塞ぐことになる。


「廊下は走っちゃダメだぞ」


幸い、彼女の性格を少しは知っていた。彼女はルールを簡単に破るタイプじゃない。多分、彼女のまっすぐな性格――悪く言えば頑固で融通が利かない――が、中学から今まで先生に重宝されてきた理由だ。


だから、幸いにも俺たちは同じクラスで、同じ生活を送っている。接点は少なくても、彼女の人物像を心に描くことができた。


たとえ本当の彼女がそれと違っていても、とにかく、これで俺の考えは実現する。


彼女は足を止め、惰性で少し前に滑った。キーッと鋭い音がした。


つるつるの廊下を走るのは危ない。俺の目的はそこじゃないけど。


「俺が持つよ」できるだけ怒らせないような声で言った。


彼女は少し考え、また小さく首を振り、最後には諦めたように深く息を吐き、箱を俺に渡した。


「お願い」


「ああ」


こんなに簡単な会話なのに、今日はすごく苦労した。意外だ。


彼女の複雑な表情を見て、ふと頭をよぎった。


間違ったか?


行動する前に考えたのに、結果はあまり満足できるものじゃなかった。


もっといい方法はなかったのか?


でも、存在もしない「もしも」を想像するのは、白昼夢を見るのと同じだ。


彼女の手から木箱を受け取ると、意外にも軽かった──少なくとも俺にとっては。


彼女の動作からはかなり苦労しているように見えたが。


木箱の重さは両手で抱えるほどでもなく、片手で端を持って彼女の後を歩いた。


もしかしたら授業に間に合わないと思ったのか、自然と歩調が速くなった。


揺れる黒髪はヘアピンで留められていても、目の前で乱れ視界を邪魔する。


教室に入り、彼女の指示通り箱を彼女の席に置いた。


「ご苦労様」


「どういたしまして」


これで会話は終わり、俺も自分の席に戻った。


授業のチャイムが鳴り、教科書を出して授業に集中する。


口の中の苦味はまだ消えず、水筒の水は半分以上空になっていた。


箱の中身は何か? そんな他人事はまだ答えが出ていない。忘れるべきことが、まだ思考の中に残っている。


なら、心の奥底にしまっておこう。


触れず、考えず、ただ腐らせるがいい。


あの苦味も口の中に残しておこう。いつか新しい味で上書きされるかもしれない。


そうしよう。


彼女はいつも通りペンを握り、ノートを取っていた。


最終授業まで、私たちは言葉を交わさず、いつもと同じ一日を過ごした。


授業が終わると、先生が調査用紙を配布した。将来就きたい職業についてのアンケートで、明日のキャリアプラン授業で使うという。


教科書を片付けながら、黒髪が机の端を撫でる。


「今日は本当にありがとう」


「いえ」


「じゃあ行くね」


「ああ」


「またね」彼女は右手を高く上げ、出口に向かって歩き出した。


「じゃあな」俺は席に座ったまま手を振った。彼女の姿がドアから完全に消えるまで、黒髪が見えなくなるまで。


いつもより少し遅れて校舎を出て、駐輪場へ向かう。


空は黄金色に染まり、所々に赤い炎のような色が混じっていた。晩秋の風は冬ほど冷たくなく、午後は朝より暖かい。それでも自転車を漕ぐ時の風対策に、上着を羽織って駐輪場の裏口から出た。


駐輪場は静かで、俺も黙って自転車を押す。


イチョウの木の下で、彼女が立っていた。手には今朝見たあの箱を持っている。


風に吹かれた頬は少し赤く、彼女の目は目の前の男子生徒を見つめていた。


ふっと肩の力が抜け、口の中の苦味も消えた。


侵入者が去った駐輪場は、再び平穏を取り戻した。


あれは侵してはいけない絵だった。口にすべきではない宝物だった。


彼女にとって、それはきっと──確かに大切なものなんだろう。


それが幸せなのかどうか、俺にはわからない。


少なくとも、俺には手に入らないものだ。


誰にも気づかれないように、反対側の出口から回り込んだ。


普段と違う、遠回りの道を選んで家路につく。別にこんな面倒なことをしなくても、普通にいつもの道で彼女に挨拶することだってできた。


でも、それは後ろめたさを生むだけだ。彼女にとってあの大切な箱を、俺が運ぶべきじゃなかった。


箱の中身は何か──その答えは沈黙の中で得られた。


空白であり、推測であり、本当の答えは彼らだけが知っていることだが、あの秋風から感じ取れた。


俺には決して手にできず、これからも得られないもの。


いつもと違う気持ちで、ペダルを漕ぎ、銀杏の葉が敷き詰められた温もりある通りを通り、見慣れたマンションに戻った。


木の下では果物屋のセールスの声が絶え間なく響き、食欲をそそる。


旬の果物を買おう。


秋といえば蜜柑だ。季節の変わり目で値段も手頃だった。一人で食べる分だけ半斤買った。


ビニール袋を提げ、何度も通い慣れた黒ずんだ乾いた階段を上がる。鍵を穴に差し込み、回すとドアが自然に開いた。


机の前の椅子に坐り、必要な本を出して宿題を始める。


蜜柑の皮をむくと、白い筋が果肉に絡みついている。一房を口に入れる。


果汁が口の中で弾け、強い味が口腔に広がった。


酸味が唇と舌を支配する。少し辛いが、どこかほっとする。


外見は黄金色で完熟に見えるが、中身はまだ青くて酸っぱい。


無駄にはできない。たくさんあるけど、一人で食べきらなきゃいけない。


分かち合える相手はいない。この酸っぱさを他人に知られるわけにもいかない。


ペンが紙の上を舞い、宿題も一冊ずつ終わっていく。全て終えた時には、もう20時半だった。


窓の外は都会の夜。黒い幕のおかげで、街は昼間より賑やかに見える。


この時間は夕食には少し遅く、寝るには早すぎる。机の上の本を整理し、長時間坐り続けて凝った体をほぐして立ち上がり、リビングに向かった。


夕食を作ろう。


一食抜いても健康に影響はないが、長期的なことを考えて、多少は作って食べるようにしている。


青い炎が火花から生まれ、黒い鍋底を熱する。鍋の中の平らな水面に波紋が広がり始め、蓋をすると蒸気が隙間から逃げ出し、ゆっくりと上昇して増えていき、窓の外の果てしない夜へと消えていく。


沸騰する音が聞こえ、蓋を取ると大量の白い蒸気が一気に立ち込め、視界がぼやけた。


準備しておいた麺、野菜、卵を鍋に入れ、完成を待つ。


黙って、待つ。前進も後退も必要ない。窓の外の人の声や夜の呼び声に耳を傾けるだけで、心は落ち着く。


考えるのに最適な時間だ。


人間は暇になると、脳が勝手に働き始める。今の俺にとって、これは単なる自己満足でしかない。


冷静になると、これまで気づかなかった疑問点が浮かび上がってくる。


あの男子は誰だ? 知らない。彼と彼女はどんな関係なのか、それもわからない。こんなことでわざわざ他人の交友関係を探るわけにはいかない。


目の前の事実は、彼女に対する俺のイメージと一致しない。


彼女は規則を重んじる人間だ。他の人もそう思っているはずだ。


彼女は賢い。それでもこんな関係を選んだということは、熟慮の末の結論なんだろう。


彼女なりの答えだ。俺が評価するべきことじゃない。


少なくとも、この件で彼女の人物像がまた少し鮮明になった。


気がつくと、台所は蒸気で満ち、熱を感じ、壁に水滴がついているのが見えた。


火を止め、今日の夕食をよそった。


麺は長く煮すぎて柔らかく、少しベタつく感じだ。どれくらいがちょうどいいのか、いまだにわからない。


食事を終え、ついでに家の掃除をして消化を助ける。21時半、歯を磨いてベッドに入った。


ベッドに横たわり、目を開けても閉じても同じくらい真っ暗な部屋の中で、思考は街の上空を漂う。


様々な人が様々な場所で様々なことをしている。みんな自分のことに夢中で、自分の道を歩いている。


机の上のあの調査用紙はまだ白紙だ。心の中にぼんやりとした答えはあるが、文字にすることはできない。


彼女は自分がどんな人間かわかっているから、彼女にとっては用意された答えを書くのは難しくないだろう。


でも俺はまだ考えていない。いや、見つけられていない──俺個人の答えは、一体何なのか?


その答えは本当に存在するのか?


自問自答、仮定、反論、再質問を繰り返すうちに、睡魔が近づき、再び意識がこの空間に戻った時、あの「彼女」と向き合っていた。


回想はここで終わり、現実が目の前に横たわっている。


特に何かが起こったわけじゃない。ただ普通に寝て、目を覚ますと椅子に座っていて、目の前に女神のような姉さんが話しかけてきた──ただそれだけだ。


すでに否定されたとはいえ、この夢のような光景はやはり少し現実離れしている。自分の頬をつねりたい衝動に駆られたが、そんなことをしたら向こうの女性に笑われそうなので我慢した。


いや、よく考えてみると、本当に夢の中かもしれない。


これらすべてが常識では説明できない。まず、俺がこの空間にいる理由がない。次に、この白髪の女性を知らない──それに美しすぎる。現実にはこんな人はいない。一瞥しただけで天国に昇るような感覚だ。


無意識に首を振る。どう考えてもおかしい。どちらが本当かわからない。目の前に質問できる相手がいるのに、心のもう一つの声が彼女を信じるなと言う。


矛盾した心理だ。


だから、思考を放棄し、素直に目を閉じた。困難に直面した時の本能に従って──逃げる。呼びかけてきたのは予想していた電子音ではなく、オー・ヘンリー的な優しい声だった。


「お願い、少し無理を言うかもしれないけど、私の話を聞いてくれる? 目を閉じたままでいいから」


こんなに誠実に頼まれて、寝たふりを続けるわけにはいかない。目を開けると、やはり見知らぬ暗黒の空間で、慣れ親しんだ光景は何も見えない。


世の中には英雄主義が一つだけある。それは現実の残酷さを認識した上で、それに向き合う勇気を持つことだ。そういう意味では、俺も「ヒーロー」と呼べるかもしれない。


目を開けた俺を見て、彼女は安心したように息をつき、説明を続けた。


「聞いてくれてありがとう。人と話すのは久しぶりなの」


「いいよ」少し疑問はあるが、話を聞き続けることにした。


「あなたがここで見るもの、そしてこれから見るかもしれないものはすべて現実に存在するものです。驚くかもしれないけど、これらはあなたがまだ経験も理解もしていない『現実』です」


この大前提を信じれば、これまでの多くの疑問が説明できる。


まだ少し不安で、確認の意味を込めて質問した。


「あの、あなたは?」


「あなた方にとって、私は『神』に近い存在でしょう」


確かに彼女は人間のように見える。いや、人間の想像を具現化したような理性的な「神」だ。


「じゃあ具体的には?」


「あなたがどう思っても構いません」


念のため、どう呼べばいいか聞いておこう。見知らぬ人と接する時、礼儀は大切だ。彼女にその概念があるかどうかはわからないが。


「どう呼べばいいですか?」


「ヴィーナス」


自分を神と呼ぶのか。


「やっぱり『女神様』と呼びます」


「好きに呼んでいいわ。重要じゃない」


そうは言っても、彼女の硬い笑顔から、この呼び方にあまり満足していないことがわかる。


「では、女神様、どうして私をここに呼んだんですか? 言っておきますが、私は堅実な唯物論者です。信じません…」彼女は俯き、何かを考え込んでいる。


「あの、女神様?」聞こえなかったのかと思い、声を少し大きくした。


まだ反応がない。女神.exeが停止したか? もしそうなら、プログラムが単純すぎる。


「女神様? 寝ちゃったんですか?」起こそうとした。


灰白色のフードが頭から滑り落ち、腰まで届く白髪が現れた。彼女は白い顎を上げた。


美しい。声に出しそうになった。何度見ても「美しい」という言葉だけでは足りない。残念ながら普段本を読まないので、彼女を表現する適切な言葉がすぐに出てこない。


彼女の表情をよく見ると、なぜさっき黙っていたのかがわかる。


整った肌の上に優しい微笑みを浮かべているが、口元が不自然に引きつっている。


笑いをこらえているのだ。


「私の話のどこがおかしいのかわからないけど、笑いたいなら笑っていいですよ」


「ありがとう…あははは…」


彼女の笑い声が空間に響き渡る。さっきまで必死にこらえていたのがわかる。限界まで溜め込んだ笑いが一気に爆発した。涙まで流している。


さっきまでの礼儀正しい微笑みとは違い、これは本当の「笑い」だ。


彼女の笑顔は本当に美しい。心からそう思った。


笑いが収まると、この空間に来た理由を正式に聞いた。


「人の子よ、私はあなたをここに召喚し、重大な使命を託そう」


「女神様、そんな風に話さなきゃいけないんですか?」


「設定よ、設定。あなたの世界の若者は『漫画』とかいう娯楽作品が好きでしょ? ああいう女神の設定もこんな感じだったわ」


「簡潔に説明してほしいです」


「あら、今の若者はせっかちね」


これ全部騙しじゃないのか? なんで普通の人の生活にこんなに詳しいんだ?


彼女は咳払いをし、話し始めた。


「勇者として、異世界の人々を助け、魔王を倒してほしい」


典型的な展開だ。それに短い。


「他には?」


「それだけ」


いや待て、「それだけ」ってどういうことだ。全然理解できてないんだけど。


「他に質問は?」


「ない」


「本当に?」


「本当に」


突っ込みどころはたくさんあるが、心に決めた選択以外はどうでもいい。


「では正式にお願いします。魔王を倒し、苦しむ人々を救う勇者になってくれませんか?」


答えは明らかだ。


「お断りします」


「なんで!!! 今の若者には正義感がないのね!」子供のように泣きわめいた。彼女の年齢は謎のままだ。


「なんで? 具体的な内容を何も教えてくれないじゃないか! それにこの陳腐な展開は何だ? こんなことで私を呼んだのか?」突っ込みどころが多すぎるので、いくつか挙げて諦めさせよう。


普通の人間である私にも拒否する権利はあるだろう。


「簡潔に話せって言ったのはあなたでしょ? それに他に質問はないかも聞いたわ」彼女はどこからともなく出てきたハンカチで涙を拭いながら、泣き声混じりに言った。


ああ、私のせいか。少し申し訳ない気がする。いや、違う。女の子の涙なんかで簡単に屈する男じゃないぞ。男女平等を主張するんだ。


「ごめんなさい」心ではそう思っても、口は素直に謝った。


「では改めて聞きます。他に質問はありますか?」


「最初に聞いてほしかった質問からいきましょう」


「どれ?」


「『この空間に来た理由』です。それと追加で『なぜ私で他の人じゃないのか』」


「最初の質問にはもう答えました。後者は私の決定じゃないからわからないわ」


本当に魔王を倒せってのか。私が? マジか?


「今何時ですか?」明日も学校があるので、時間が気になる。


「この空間には『時間』という概念がありません。心配いりません」突然の話題変更に少し驚いたようだが、丁寧に答えてくれた。


でも聞きたいのはそこじゃない。


「『外』の時間です。それと、私は『体ごと』来てるんですか? それとも『意識だけ』ですか?」


「ああ、そっちの話か。心配いりません。実際のところ説明が難しいので、わかりやすく言うわ」


頷いて、続けるよう促す。


「あなたの体は召喚前の状態、つまり『眠っている』状態のままです。そうした方が召喚しやすいの。時間については心配いりません。『ここ』や『異世界』で過ごす時間は元の世界の時間に含まれません。あなたにとっては停止していると思っていいわ。それに、ここから『戻る』時には『認識の修正』がかかるので、ここでのことや異世界でのことをすべて忘れます。だから拒否しても承諾しても、元の生活に影響はありません。ここに来たことさえ覚えていないわ。どう? 安心したでしょう」


一気にこんなに話せるのもすごい。


確かに彼女の言う通り、少し安心した。


「あの、今のこの『私』は…」


「あなたは『あなた』よ。魂の状態と理解していいわ」


OK、了解。


「なぜあなたが選ばれたか、正直私にもわからない。私の意思で決めたわけじゃないから。もし本当に理由を知りたいなら、これを見せるのが一番いいと思う」


考えていると、またどこからか深い青色の透明な水晶玉を取り出した。一体どこから出てくるんだ? まさかあのスカートの下の神秘の空間から? いや、見ちゃダメだ。こらえよう。必死に覗き見る欲望を抑え、水晶玉に視線を移す。


「これは?」


「『神器』よ。あなたにとってはそう呼べばいいわ。私にとってはあなた方の『スマホ』みたいなもの」


「『スマホ』か。なるほど」


目の前に広がるのは、見慣れない形状のスマホだった。


「『勇者に最も適した人物』を検索したら、一番最初に出てきたのがあなただった」少し感心したような口調で言った。


私が? 私ってそんなにすごいのか? 彼女が目的達成のために褒めているのはわかっているが、とにかく今は嬉しい。この気持ちは本物だ。


「じゃあなんで私なの?」まだ納得いかない。


「だからわからないって言ってるでしょ! あなたがスマホを使いこなせても、なぜこの検索結果が表示されるのか説明できないでしょ」


これは反論できない。確かにネットの検索結果は誰かが事前に設定したものだが、なぜ「この答え」が「他の答え」ではなく表示されるのかは説明できない。『国家』の中でソクラテスが「12という数字を得る方法を聞いておきながら、2×6や3×4や6×2や4×3という答えを拒否するなら、答えられる人はいないとわかっているだろう」と言っていたのを思い出す。この場合、私が「トラシュマコス」で彼女が「ソクラテス」なら、確かにかなわない。


真理を追求する必要はない。質問するのをやめた。


では、彼女の希望について具体的に話し合おう。


「まず確認したいんですが、私にやってほしいのは『魔王を倒す』ことでいいんですよね?」


「どうしたの? 気が変わった?」


「いや、そうじゃなくて、具体的な内容を聞いてから決めたい」


「今言ったことがすべてよ。これが私のお願い」


「『倒す』のが『殺す』って意味かどうか聞いてるんです。それになぜあなたがやらないんですか? あなたの方が強そうだし」


「『倒す』の定義は問題ないわ。私が行かない理由は…」


「『私には無理』みたいな説得力のない言い訳はなしです」先手を打って、本当のことを言わせよう。


「うう…」また泣きまねを始めた。神界でも涙の演技は流行ってるのか? それとも彼女だけか。


「正直に話して。そうすればもしかしたら引き受けるかもしれない」


「わかったわ」すぐに泣きやんだ。やはり演技だ。顔色を変えるのは朝飯前らしい。


「私は『介入』できないの。正確には『干渉』できない。あの世界では私は紛れもない神よ? 神が人間界に干渉するのはダメでしょ? 物語でもよくあるでしょ?」


本当か? 私が読んだ神話の神々は人間界で好き放題やってるイメージがあるけど。それとも読んでるバージョンが違う? それに「神託」も与えないなら、人々は何を信仰しているんだ?


私の疑問が顔に出たのか、彼女は不機嫌そうに口を開いた。


「私はあの世界では本当の神よ。あなた方の世界の支配者が民衆を愚弄するために作った信仰の神とは違う。異世界の人々はみんな私の子供、あるいは創造物なの」


「じゃあ創造主ってこと?」


「もちろん。表立って干渉できない代わりに、陰で天気を変えたり魔物を追い払ったりして、人々の生活を助けているわ」


そうか。それなら確かに信仰されるのも納得だ。私があの世界で生きていたら、きっとそうするだろう。


「それで、あの世界の基本的な状況を教えて」


「次の話はよく聞いて。重要よ」すぐに真剣な表情に切り替わった。意外だ。ちゃんと話せるんだ。


「基本的にあなたの世界と似ているわ。『ミニ版』と言ってもいい」


「ほう?」


「惑星の表面に一つの大陸が浮かんでいて、地域ごとに異なる自然環境がある。異なる地理的条件が異なる種族や文化を生んだ。主に三つね。人間、獣人、エルフ。もちろん異種族間の婚姻で生まれた混血もいるけど──数は少ない。あなたの相手である魔王は、魔界の大部分を支配している」


「魔界って何?」


「概念よ。特定の地域を指すわけじゃない。魔王の勢力範囲は広いけど、魔王城は小さな地域にしかない。人間の普通の街の半分くらいかしら。魔物が管理しにくいからだと思う」


「魔物って?」


「核心に触れたわね。動物や植物と比べて、魔物は『無生命』と言える。単なる『魔素』の『意識体あるいは具現化』よ。通常は野外で自然発生し、制御不能に『魔素』を放出する。軽度の放出なら問題ないけど、猛烈に放出し、視覚化された攻撃に変える。エネルギーを放出し続けるから、『生物』を殺し続ける。ちなみに、この世界の『生物』は生まれた時から一定の魔素を持っており、成長するにつれて増えていく」


「じゃあ魔物が『生物』を『殺す』のは魔素を補充するため?」


「そう。放置すれば魔物はどんどん強くなり、生物への脅威も増す。魔物は全生物の敵と言えるわ」


「なぜそんなものが?」


「設定よ」


「つまりあなたが創造した?」


「違うわ。私じゃない。もう一人の…『創造主』と言える存在が作ったの」


彼女の説明を聞いて大体理解した。『魔物』は『魔素』の無秩序化あるいは『混沌化』の現れだ。そして『魔物』は『本能』──正確には『設定』によって魔素を放出し続け、『生物』を殺し続けて自らの存在を維持する。補足すると、魔素を補充しないと魔物は自然消滅する。


そして魔王、私の相手は、こんなものを手下にしている。どうすればいいんだ?


「魔物の倒し方は?」


「方法はたくさん…具体的には異世界に行けばわかる」


「引き受けるとは言ってない」


「こんなに説明したのに」


確かに古典的なRPGゲームのような話だ。主人公:勇者(私)が魔王を倒し、世界の平和を守るために旅立つ。途中で仲間を得て、あるいは「ハーレム」を築くかもしれない。


しかし、現実はゲームじゃないことはよくわかっている。そんなに甘くない。困難の連続だ。それに、私が死んだらどうなる? 彼女は何の報酬も提示していない。割に合わない。


「旅の途中で危険に遭ったら、元の世界に送り返す。もちろん記憶は消去。苦痛や恐怖も残さないからトラウマにはならないわ」私が質問すると、彼女はこう答えた。


それでもまだ命を失いたくない。それに、彼女は最も重要なことについて一言も触れていない。


「報酬は?」少し遅れたが、詳細を理解した上で今聞くのが最適だと思う。


「願いを一つ叶えてあげる」


「何でも?」


「何でも。ただし私の任務を達成したらね」


ハイリスク・ハイリターンだ。しかし、何でもか。考えてみると、私にとっては損はない(死んでも現実の生活に影響なし)。むしろ得しかない(願いが一つ叶う)。機会は一度きり。最終的な決断は彼女の最後の答え次第だ。


「最後の質問、チート能力はありますか?」


「わあ、ずいぶん直接的ね。確かにあなたにとってはゲームみたいなものかも。でもこれは『現実』で、『仮想』じゃないわよ?」


「あるかないかだけ答えて」


「ああ、怒らないで。あるわ、ある。では、勇者よ…」


「私はまだ勇者じゃない」


「まあ、もし勇者になるなら、この聖剣【ルール・ケンジョ】を授けよう」


名前はどうでもいい。気に入らなければ自分で変えればいい。重要なのは能力だ。「チート」と言うからには、それなりに強いはずだ。


「この剣は『魔素』の流れを制御できる。そして『限定装備』で、勇者しか使えない。他の人が持ってもただの剣よ」


魔素の制御か。使いこなせれば強そうだが、下手すればただの剣と同じかも。


それに、装備を失ったら普通の人以下になるかもしれない。


「他にチートは?」


「ないわ。これで十分強いはず」


「少し考えさせて」


最後の疑問も解け、あとは得失を考えるだけだ。


彼女は私の願いを黙って認め、またどこからか本を取り出して読み始めた。ジャンルはわからないが、派手な表紙からして漫画か何かだろう。


ほぼ確実に得しかない、正確にはコストゼロの取引だ。それでも決められない。さっき「何でも」叶うと言われた時は興奮して理性が効かなかった。落ち着くと、気づかなかった問題点が浮かび上がってくる。食事が不十分、宿泊環境が悪い、病気、戦争──「魔物」だけでも十分危険なのに、他にも未知の危険がたくさんある。


表面的なものの奥に、私が最も恐れるもの──死──が見えてきた。


私は命を大切にしすぎている。死にたくない、触れることさえ恐れている。命を崇高なものと考え、だからこそ死を憎む。死は、どの生命も一度しか経験できない。経験したことがないからこそ、未知で、恐ろしい。彼女は、例えあの世界で死んでも現実の生活に影響はないと言った。でも、私は『死』というものを一度も経験したくない。できるだけ避けたい。


生物の本能が必死に、この女神──悪魔の誘いを拒否させようとする。


未来の自分が後悔する選択はしたくない。だから私は決断した。


「お断りします」


「叶えたい願いがないの?」


「考えることすらしない。あなたの条件は厳しすぎる。ほぼ不可能な任務を達成した後の報酬を想像しても意味がない。夢を見て努力し、何も得られなかったら、余計に悲しいだけだ」


そう、たとえ何も失わなくても、叶わなかった可能性を惜しむことになる。


「もう少し志を高く持ったら? そんなんじゃモテないわよ」彼女はウィンクした。


またその手か。さすが「詭弁家ソクラテス」だ。


「志の高さとは関係ない。ただの心の健康法だ。それに、今の社会は多様性を認める。『ヒモ』を好きになる女の子もいると思う」


「あなたはイケメンじゃないわ」


「自分で言ってない」


「まったく…」


「他に質問はないの? 聞かなかっただけかもよ」


「あるにはあるが、あなたには答えられない。私にも答えられない」


誰にも正確な答えは出せない。


「見つかった?」彼女は上品に微笑んだ。


「あるけど、そんな質問の答えは旅の途中にあるかもよ」


ありきたりな台詞で、明らかに釣りだ。でも釣られた。


確かに、環境を変え、新しい世界で探せば、答えが見つかるかもしれない。


「でも、帰ったらここや異世界のことを全部忘れるんでしょ?」


「多少は反映されるわ。植物状態でも普通の生命活動はするでしょ?」


「『無条件反射』みたいな?」


「そんな感じ」


はっきりした返事ではないが、心の方向性は変わった。今は内心の選択を尊重し、今を生きるのが一番だ。


「じゃあ、この依頼を引き受ける」


「よかった! さあ、勇者よ、武器を持って世界の平和を守るんだ!」


彼女は嬉しそうに椅子から立ち上がり、【ルール・ケンジョ】を渡してきた。いつの間にか私も立っており、後ろの椅子は消えていた。


剣はそれほど重くない。本物の武器を持ったことがないからよくわからないが──たぶん3~4キロくらいか。柄の部分が長く、片手でも両手でも使える。ただ刃の部分は思ったより短い──映像で見るような剣に比べれば。鞘は見た目がよく、しっかりしている。


鞘の端に小さく「二」と刻まれている。どうやらこれは二振り目らしい。


「一振り目は?」


「ああ、気づいたの? 一振り目は…失敗作よ」


神にも失敗があるんだ。


これ以上は聞かない。誰にも触れてほしくない過去がある。神ですら例外ではない。


「じゃあ、儀式を始めるわ。他に聞きたいことがあったら今のうちに」


彼女は胸の前で両手を組み、紫色の光を放ち始めた。


「言語は? 異世界でコミュニケーションは取れる?」


言葉が通じなければ相手の意図が理解できない──少なくとも難しい。怪しい人物として捕まりたくない。


「言語は問題ない。魔法をかけておいた」


ようやく異世界らしさが出てきた。


「でも文字は自分で覚えてね。『自動翻訳』の魔法しかかけてないから」


なんで文字まで翻訳しないんだ?


「あの…」伝送先について聞こうとした。敵の本拠地に放り込まれたら困る。


「はい、わかった。報酬を忘れたらどうするかって心配なのね? 大丈夫、見た目はこうでも、私は約束の神よ?」


違う、聞きたいのはそこじゃない。まあ気にはなるが。


確信のないものは期待しない。昔からそうだ。これからもそうだろう。


「じゃあ、トランスミット!」


「待って!」


形になった言葉が出る前に、足元の魔法陣が完成し、紫の光に包まれた。


最後に聞こえたのは──


「太陽と月の祝福がありますように。また会いましょう、勇者よ!」


こうして、私の異世界生活は、何の前触れもなく始まった。


**本幕 完**


**幕間**


前回中断した試合からかなり時間が経った。


兄は毎日のように聞いてくる。「選手は準備できたか?」と。でも私の返事はいつも首を振るだけ。


あの時はもう少しで勝てたのに、卑怯な手を使ってきた。ルールで禁止されていなかったからセーフだったけど。


今回はもっと真剣に「選手」を探した。見つけたはいいが、何度も同じ説明を繰り返すのは面倒だ。直接参加させれば早いのに、ルール違反だからできない。


相手は男子高校生。普通なら私のような美女の願いを聞いてくれるはずなのに、なぜか毎回断ってくる。私の自信を挫かれたみたい。もしかして、この古臭い女神キャラに飽きたのかしら? でも毎回イメージチェンジするのも疲れるわ。


今回はうまくいくかしら?


予想通り、また同じ反応。何度も見てると飽きてくる。


また同じ流れかと思った瞬間、漫画の一場面を思い出した。曖昧なことを言ってみよう。


劇的なことに、彼は受け入れた。最初からこうすればよかった。


でも、今まで同じこと言わなかったのに、なぜ今回はOKしたのか?


関係ないけど、気になる。


まあ、結果オーライってことで。


剣を渡した。もちろん新しいの。古いのは前半戦の選手が持ってる。二振り目だと気づかれたが、深く追求されなくてよかった。


ようやく送り出せた。試合を再開できる。前に読みかけの漫画を続けよう。面白いんだよね。


そう思った瞬間、これからあまり話せなくなることに気づいた。


せっかく見つけた適任者だ。ちゃんと導かないと、前みたいに失敗する。せめて状況だけでも知りたい。


どうしよう? あ、そうだ。「神託」を信者に下せばいい。


でも落ち着かない。これからやることたくさんあるわ。


計画を練っていると、あの声が虚無から響いてきた。


「準備はいいか?」


「ええ、できてるわ」


「では」


私たちは声を合わせて言った。


「ゲームリスタート」

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