青白い繭(ショートショート)

雨光

腐った花の香り

終電の行き着く先は、いつもこの箱だ。


ネオンの毒々しい光に吸い寄せられ、私は自動ドアの向こう側へと沈んでいく。


受付の女は、人形のように無感動な顔で、私にキーを渡した。時間の澱んだ匂いがする。


無数のブースが並ぶ光景は、さながら蜂の巣のようであった。


私は指定された番号の、狭い繭の中へ滑り込む。


リクライニングシートの冷たい合皮が、肌にじっとりと触れた。


空調の低い唸りが、絶え間ない溜息のようだ。


モニターの放つ青白い燐光が、私の顔を幽霊のように照らし出す。


マウスを握ると、他人の皮脂のぬめりが微かに伝わってくる。


私はそれがひどく厭であったが、同時に、奇妙な安堵を覚えるのであった。


この匿名性の海の中では、私もまた、誰でもない誰かになれるのだから。


眠る気にもなれず、ただ意味もなくネットの海を漂流していた、その時だった。


隣のブースから、音がする。


初めは、キーボードを打つ乾いた雨音のような響きであった。


しかし、それはやがて、変わった。


カリ、カリ、と。まるで、硬い爪で何かを執拗に引っ掻いているような、神経を逆撫でする音。


私はヘッドフォンを外した。


音は、より鮮明になる。

それだけではない。


壁の薄い仕切りを通して、気配が伝わってくるのだ。


女の気配だ。なぜそうだと分かったのか、自分でも説明がつかぬ。


ただ、そうとしか思えなかった。


そして、鼻腔をくすぐる甘い香り。


熟れすぎた果実のような、それでいてどこか死んだ花の香りに似た匂いが、換気扇の風に乗って、私の繭にまで漂ってくる。


不意に、画面の右下で、小さな通知が瞬いた。


メッセージの着信だ。


こんな夜更けに、誰からだろう。


見知らぬIDだった。


『隣にいるの』


心臓が、氷水に浸されたように冷たくなった。


指が、凍りついたように動かない。


カリ、カリ、という音が、ぴたりと止んだ。


『……聞こえる?』


再び、通知が瞬く。


私は吸い寄せられるように、マウスを動かした。


『どなたですか』


そう打ち込むのに、永遠とも思える時間がかかった。


『ずっと此処にいるのよ。この箱から、出られないの』


彼女の紡ぐ言葉は、モニターの向こう側から、まるで直接耳元で囁かれているかのように、私の意識に沁み込んできた。


その文面は、美しく整っているようでいて、どこか狂気の破片が光っていた。


それから、私たちはチャットを続けた。


彼女は、このネットカフェの時間の外を生きているようだった。


外の世界の話をすると、まるで遠い異国の物語を聴くかのように、不思議な返事をよこした。


私は恐怖よりも、抗いがたい好奇心と、倒錯した思慕に囚われていった。


姿の見えぬ女との、青白い光の中だけの密会。


『……会いたいわ』


何時間経っただろうか。彼女がそう送ってきた。


『私の部屋へいらして。鍵は、かかっていないから』


私は、まるで操り人形のように、席を立った。


自分のブースのドアを開け、隣の、彼女がいるはずの繭の前に立つ。

ドアノブは、ひやりと冷たい。


ドアは、音もなく開いた。


中は、空っぽだった。


誰もいない。


ただ、古びたPCのモニターだけが、チャットウィンドウを開いたまま、静かに光っている。


そして、部屋の隅の暗がりに、長い髪の毛が、まるで黒い水溜りのように、おびただしく落ちていた。


壁には、びっしりと、爪で付けられた無数の傷。


私は総毛立ち、踵を返して自分のブースへと逃げ戻った。


心臓が、肋骨を内側から叩きつけている。


自分の席に座り、震える視線をモニターに戻した、その時。


画面には、新しいメッセージが表示されていた。


IDは、あの女のものだ。


『あなたの繭、いま、入ったわ』


背後で、リクライニングシートが、ぎ、と軋む音がした。


冷たい、人間のものではないような指が、ゆっくりと、私の肩に置かれた。


私の口から漏れた声にならない声は、この青白い繭の群れの中に、虚しく吸い込まれて消えていった。

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青白い繭(ショートショート) 雨光 @yuko718

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