螢火(ほたるび)
燈の遠音(あかりのとおね)
第一章 邂逅
彼は、走り続けていた。
音を信じて、夢を追いかけて。
彼女は、静かに佇んでいた。
日々を守り、愛を抱きしめて。
これは、一人の男の物語ではない。
そして、一人の女の物語でもない。
ふたりが出会い、ふたりが別れ、
それでも確かに灯った、小さな火――
これは、ふたりの物語。
たとえ行き着く先が涙であったとしても、その音はきっと誰かの胸に残る。
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名門・白河家の一人娘、白河好実(しらかわこのみ)、十七歳。
その名を耳にした者は、誰もが少し背筋を伸ばし、「桜蘭様」と一目置いた。
長い睫毛の奥に揺れる静かな瞳、整った品ある物腰、そしてなによりも、誰にも媚びず、誰にも頼らず、ただ一人で凛と立つその姿――。
男子生徒たちからは憧れと敬意を込めて見つめられ、女子たちからも一目置かれつつ、しかし、どこか遠い人。手の届かないその気高さに、いつしか彼女の周りにはいつもひとつ分の空白があった。好実も、それに慣れていた。そうすることが、美しく生きる術だと教えられてきたから。
だが、好実の心は、いつもどこかで空洞のようなものを抱えていた。
求められた通りの完璧を演じるほどに、自分が自分でなくなっていく。そんな感覚が、ふとした拍子に顔を出すことがあった。
そんな好実の中に、かすかな風穴が開いたのは、隣町の高校で行われた軽音楽部の合同ライブでのことだった。
――たまには、自分の世界以外の音楽にも、触れてごらん。
かつてピアノを習っていた音楽教室の恩師から、そんな言葉とともに招待状を手渡されたのがきっかけだった。気乗りはしなかった。けれど、その日はなぜか、足が向いた。
舞台の上でギターをかき鳴らす少年がいた。川端輝(かわばたあきら)。
彼の音楽は、好実がこれまで親しんできた洗練されたクラシックやジャズとはまるで異なる、粗削りで奔放なものだった。
でも、その音には――魂があった。
一音一音が叫びのようで、感情が剥き出しで、理屈を越えて心を揺さぶってきた。
ギターの響きも、声も、そして彼自身が書いたであろう詩も。
上手いとは言い切れない。リズムも揺れ、音の粗もあった。けれど、そんなことがどうでもよくなるほど、熱量に満ちていた。心の奥で、何かが鳴った。
演奏が終わると、会場は歓声と拍手に包まれた。
好実はしばらく立ち尽くしていた。自分でも驚くほど、言葉が出なかった。
そのまま、帰り道。日が傾き始めた静かな商店街を、好実は一人歩いていた。
余韻が頭から離れない。繰り返し繰り返し、彼の音が脳裏で鳴る。
ふと、漏れるように呟いた。
「……リズムは、ちょっと走ってたかな」
声に出してから、自分でもおかしくなって微笑んだ。
まるで評価するような口ぶり。けれど、誰に向けられたわけでもないその言葉は、思わずこぼれ落ちた感想だった。
「やっぱり、気づいてた?」
背後から声がした。驚いて振り返ると、そこには燃えるように赤いギターケースを背負い、夏の夕陽のような眩しさで笑う輝が立っていた。
「えっ……」
「さっきのライブ、見てたでしょ? ずっと君のこと気になってた。ていうか、君だけ拍手してなかったら」
「……してたわよ、ちゃんと」
「じゃあ、心の拍手か。なんか、君の顔、すっごい真剣だったからさ。てか今の、音が走ってたって?」
「……聞いてたの?」
「もちろん。耳、いいんだね。
ちょっとショックだけど、でも、当たってる」
輝は笑って、自分の胸を軽く叩いた。
「俺、そういうの言ってもらえると嬉しいタイプ。君、音楽やってる?」
「……昔、少しピアノを」
「へぇ。『桜蘭様』って、そう呼ばれてるの知ってる? なんか近寄りがたいって評判だけど……」
彼はいたずらっぽく指をピストルの形にして突きつける。
「そんな君に――ゾッコンハート!」
「……なにそれ」
「俺の口ぐせ。君、覚えといて。たぶん、これから何度も聞くことになるから」
好実は呆れたように、でもどこか楽しげに、少しだけ肩の力を抜いた。
その瞬間、自分が笑っていることに気づいて、ほんの少しだけ戸惑った。
ー結ー
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。静かに、でも確かに、灯りは続いていきます。
次章では、ふたりがとても大切な“約束”を交わすことになります。
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