雪と夏
長月 有
雪と夏
ある日、僕は家を出た。
はっきりとした理由なんてものはない。衣食住に困ることもなく、人並みに家族に愛され、幸せな日々を送っていた。
だから、家出の理由は……強いて言えば、戸が開いていた、くらいのものだ。幼い頃は外でよく遊んでいたものの、今の家族と出会ってからは体が弱いからという理由で家から出ることを許されなくなってしまった。
毎日窓から外を眺めるだけの生活に我慢できなくなった、というのが本音かもしれない。目の前に並ぶ草花たちがふよふよと揺れまるで僕を呼んでいるようにさえ見えていた。
ふらりと一歩、外へ踏み出す。じっとりとした風が、やけに体にまとわりついて、草の匂いが鼻をつき、思わずくしゃみが出そうになる。
真上からつき刺さる太陽に目を細めながら、僕は勢いよく飛び出した。
◇
しばらく歩いてみると、自分の生きていた世界が、いかに小さなものだったかを思い知らされた。地面も空も、目に映るすべてのものが、果てしなくどこまでも広がっている。
思い出の中にぼんやり残っていた外の風景は、時間とともに色褪せ、今こうして目に映る世界は、まるで初めて触れるもののように輝いていた。気がつけば、不安や緊張は消えていて、代わりに胸の中を満たしていたのは、ただただ真っすぐな好奇心だった。
耳を澄ますと、遠くの鳥の鼻歌や、小さな虫の囁きが風に乗って運ばれてくる。風の匂いも、空気の感触も、すべてが新鮮だ。
僕は一体、何に縛られていたんだろう。 不自由な暮らしをしていたわけじゃない。家族も優しくしてくれた。でも、自由だったかと聞かれれば、そうじゃなかった気がする。
その瞬間、僕はこの広い世界に、少しずつ、自分が溶け込んでいくような感覚がしていた。
ぼんやりとした視界のまま、僕は歩き続けた。太陽はまだ真上にあり、どこまでも青い空を白い雲が流れていく。時折吹く風が、頬を優しく撫で、木々のざわめきが心地よい。
不意に強い光が目の前をさえぎり、目を細めて見上げると、大きな川がそこにはあった。太陽の光を反射して、水面がギラギラとまぶしく輝いている。橋の下に影ができているのが見え、僕の足は自然とそこへ向かっていく。川に近づくにつれて水の匂いが濃くなっていった。
河原の小石がコロコロと音を立て、小さな音楽のように僕の耳をくすぐる。影に入った瞬間、空気の温度がふっと下がり、火照った体が少し楽になった。僕はそのまま地面に寝そべるように倒れ込んで、静かに目を閉じる。
「大丈夫?」
どこからか聞こえた声に、僕は再び目を開けた。ひとりの少女が不安そうに眉を寄せて、僕をのぞき込んでいる。長く伸びた黒髪は光を反射せず、黒々としていて、光に満ちた世界のなかでくっきりと僕の瞳に映った。僕は声を出そうとしたがうまく出ず、体も言うことをきかない。
そのとき、視界がふっと揺れ、気づけば僕は宙に浮いていた。少女が僕の体を抱きかかえている。その腕は白く、やせていて、それでもしっかりと僕を支えていた。心地よいぬくもりが伝わってくる。
抱えられたまま、あたりの景色がどんどん後ろへと流れていった。白い雲が太陽を覆い、世界は少しだけ影をまとい始める。入道雲の広がる空は、ほんの少しの恐怖を含んでいた。
少女の行動は誘拐そのものであったが、僕は逃げる気にもなれなかった。というよりはむしろ、逃げようという発想が浮かばなかった。ただ、少女のぬくもりに心を預けていた。
「着いたよ」
少女の声とともに、僕はそっと地面に降ろされた。足元には、ひんやりとした畳の感触。目を上げると、六畳ほどの和室が広がっていた。南側の壁は障子になっていて、外の光がやわらかく差し込んでいる。そこは古びた木の柱や、乾いた畳の匂いに満たされていた。
奥から人の気配がして、ふすまが開き現れたのは小柄でふっくらとした体型のおばあさんだった。白くやわらかそうな髪、丸い輪郭、穏やかな目元。全身に優しい雰囲気を纏っている。
「ユキちゃん……?」
おばあさんは僕たちの姿に気づくと、小さくそう呟いた。この子の名前だろうか。
「ただいま」
少女はおばあさんの方を見て、少しばつが悪そうに俯きながら返事をした。
「いらっしゃい、来てたのね」
おばあさんはにっこりと微笑んだ。僕はそちらを振り向くと、初めましてと挨拶をした。
「あら、かわいいね」
おばあさんはそう言って、僕の頭をわしわしと撫でてくれた。家族とはちがう、遠慮のない手のひら。でも、それがなんとも心地よく、新鮮だった。
「お菓子、持ってくるわね」
そう言っておばあさんが部屋を出ると、しばらく黙っていた少女がぽつりと口を開く。
「私……家出してきたんだよね。別に何かあったわけじゃないけど、なんか疲れちゃって」
ここが彼女の自宅ではないことは、なんとなく察していた。 でも、僕と同じだったとは。『家出』という言葉に僕はどこか親近感を覚える。
「……もう、なにもしたくない」
少女はごろんと横になって、天井を見上げた。ちょうどそのとき、おばあさんがお盆を持って戻ってくる。水とお菓子ののった盆を、机の上にそっと置いて、少女の隣に座った。
「休むことも大切よ」
おばあさんの言葉は静かで、でもずしりと胸に残った。少女は何も言わずに天井を眺めている。僕は、おばあさんの言葉に賛同するかのようにそっと寝転がってみせた。
「いいなあ、君はのんきで」
少女がくすくす笑って、僕の頭を優しく撫でた。その手のひらはあたたかく、くすぐったくて、でも嬉しかった。障子の向こうから、そよそよと風が吹き込む。鼻をひくつかせると、どこか懐かしい匂いがした。
僕はもともと野良猫で、小さな公園の隅っこで生まれた。兄弟みんな、白い毛並みに少し茶色の模様を持っている。そんな六匹の兄弟と共に、質素ながらも幸せな生活を送っていた。
でも、成長していくにつれて、僕は自分の体がほかの兄弟たちよりも弱いことに気づいた。走るのも遅いし、高いところにも登れない。母親は、だんだん僕のことを気にかけなくなっていった。
日に日に遠くなる背中、いつしかそれは手に届かない場所にまで離れていた。必死に鳴いても、誰も振り返らない。そうして僕はとうとうひとりぼっちになった。
食べ物も飲み物も何もない。薄れていく意識の中で静かに目を閉じる。
その時だった。
僕の目の前に、一匹の白猫が現れた。ふわふわの毛並み、どこか凛とした雰囲気。その猫は、僕のことをじっと見つめたかと思うと、何も言わずにそっと僕の首根っこを咥え、そのままどこかへと連れていった。
どのくらい経ったときだろうか。柔らかな風の匂いと、どこか人間の気配のする場所。白猫が僕を下ろしたのは、その白猫の住む家だった。そこからその白猫は、縁側の下でうずくまる僕に水や食べ物を分けてくれた。
白猫は、名前も言わなければ、鳴き声すらほとんど聞かせない。ただ静かに、淡々と、僕に必要なものを与えてくれた。雨の日も風の日も、必ず僕に会いにきて、世話をしてくれる。冷たい夜には、そっと僕の隣に寄り添ってくれることもあった。僕が震えていると、白猫は自分のふわふわの体を僕に押し当ててくれる。まるで、母親のようだった。
ある日、白猫は僕をじっと見て、それから何かを決めたように立ち上がった。言葉はなかった。でも、なぜか「ついてきて」と言われているような気がして、僕はその後をついて歩いた。白猫のおかげもあってか、僕は以前よりも長い距離を歩けるようになっていた。
見知らぬ道、見知らぬ匂い。でも白猫と一緒なら不安はない。僕たちはどんどん歩いた。草原を抜けて、川を越えて……辿り着いた先は、見たこともない家のドアの前。
そして、白猫はまた僕を見つめて───静かに背を向けた。その姿は瞬く間に遠ざかる。僕は悲しくて必死に鳴いた。追いかけようとした。
でも、追いつけなかった。
こうして僕はまた、捨てられてしまった。
「懐かしい」
その声にはっと意識が戻る。視線を向けると、少女が古びたスケッチブックを膝の上に広げていた。表紙には色あせたシールがぎっしりと貼られていて、よれた角が時の流れを物語っている。
「これ、小学生の頃に描いてたやつ。おばあちゃんちに来るたび、ここで描いてたんだ」
少女がページをめくるたび、色とりどりの絵が現れる。おはじき、風鈴、朝顔、ビー玉、どれも夏の匂いがした。
そして、あるページで指先がぴたりと止まる。そこに描かれていたのは、真っ白な、ふわふわした猫の絵だった。
「あ、ユキちゃんだ」
少女が小さくそう言った。
「またユキちゃん?」と、僕の心に疑問が生まれる。
「昔ね、この家にユキっていう猫がいたの。きみにそっくりな顔だったけど、もっとまっしろで、すごくきれいな猫だったんだよ」
すると、おばあさんも笑いながら言葉を続けた。
「ほんとによく似てるわね。最初に見たとき、ユキちゃんが帰ってきたのかと思ったわ」
懐かしそうに目を細めるおばあさんは優しく僕を見つめている。
ぺら、と少女の指が次のページをめくる。絵の中心には、先程よりも小さな猫が描かれていた。左耳が折れ曲がり、白い毛並みに茶の模様。
───それは、間違いなく僕だった。
少女は何も言わず、ただじっと絵を見つめていた。
僕はすぐさま縁側から飛び降り、その下へと潜る。痕跡こそないものの、やっぱり見覚えがあった。
そうか……僕はずっとここにいたんだ。
僕を咥えて、どこかへ連れて行った、あの白くてふっくらとした猫。ほとんど言葉を交わさなかったけれど、優しかったその背中。あの猫が僕を連れて行った家は、今、僕が暮らしている家族のもとだった。やさしい手、あたたかい布団、名前を呼ばれたときの安心する声。全部、あの白猫……『ユキちゃん』がくれたものだ。僕はその名前を心の奥へ大切にしまう。
やがて、少女はすっと立ち上がると、僕たちを見て「もう大丈夫」と笑った。そして玄関に向かって歩き始める。
「元気でね」
そう言ってゆっくりと離れていくその姿に、ふと、あの白猫の後ろ姿が重なった。あの日、僕を置いて、何も言わずに去っていった、あの白くて大きな背中。
少女の背中は、やわらかく夕日に照らされていた。
あの日の白猫と同じように。
「また、いつでもいらっしゃい」
そのおばあさんの言葉は、僕にも向けられているような気がした。
もう、僕の心には「捨てられた」なんて気持ちはどこにもない。
助けてくれて、ありがとう。
そう伝えたくて、僕は胸いっぱいに息を吸い、喉をふるわせた。
一人と一匹の恩人に向けて。
「にゃあ」
雪と夏 長月 有 @yu_nagatsuki
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