第53話 隠形館②

 20時。食事を済ませた僕は探索に適した格好に着替える。ついさっき、元木さんから隠形館行きの誘いがあったからだ。

 ……行くとは行ったけど、まさかその日の夜に行くとは思わないじゃないか。


 しかし芸能人と作家先生からのお誘いだから無碍にできない。

 ……もしかして、こういう行動力が成功する秘訣なんだろうか。


 そんな益体もないことを考えながらアパートの前で待っていると、タクシーが滑り込んできた。助手席の窓が開き、元木さんが顔を出す。

「お待たせ。さあ乗って」


 僕は後部座席に乗り込もうとして一瞬、固まった。後部座席の奥には既にルイさんが鎮座していたからだ。確かに元木さんが助手席に座っている以上、そうなるわけだが。


「少年、今夜はよろしくね」

 ルイさんはブラウン系統でまとめたパンツスタイルに身を包んでいる。白でまとめても似合うと思うのだが、探索するから汚れが目立たない色を選んだのかもしれない。


「いえ、お邪魔します……」

 僕は縮こまるようにして隣の席に収まる。きっと僕とルイさんを会話させるための元木さんの配慮なのだろう。だとしても大女優の隣というのは一般市民には心臓に悪い。肩が触れそうな距離に芸能界があるのだ。


 タクシーが走り出し、北大路通へ向かう。しかし会話の種が浮かばず、ただタイヤがアスファルトを噛む音だけが響く。沈黙を気まずく思っていると、不意にルイさんの視線が僕の手元に注がれた。


「ねえ、少年。君の持ってるそれ、随分と古そうなスマートフォンだね」

 ルイさんが指差したのはお守りのように握りしめていたAndroid端末だった。二年前に発売されたミドルレンジモデルで、画面の端には落下させた時の細かいヒビが入っている。


「どうして最新のiPhoneを使わないのかな?」

 純粋な疑問というよりは少しばかり咎めるような、あるいは啓蒙しようとするような響きがあった。


「まあ、無理すれば買えなくはないんですけど……」

 僕は言葉を選びながら答える。ここで「金がない」とだけ言うのは簡単だが、それだと話が終わってしまう。


「生活と学費のために節約しているのと……主な用途がソーシャルゲームなので。ゲームをやるためだけに、本体を十数万もする最新機種にするのは贅沢かなと」


「ノンノン、それは違うよ」

 ルイさんは人差し指を振り、大仰に嘆息してみせた。


「あれはただの電話じゃないんだ。最先端の技術の結晶、人類の英知の集積なんだから。持ってるだけで一流の感性に触れられるというのに。若いうちこそ感性を磨く投資を惜しんではダメだよ」


 「一流のものに触れろ」というのは成功者がよく口にする金言だが、直接言われると「どうにかして買い換えようか」という気持ちになってきた。きっとルイさんのブランド物のバッグの中には発売されたばかりの最上位モデルのiPhone Pro Maxあたりが入っているに違いない。


 その時、ルイさんのバッグから着信音が鳴った。電子音ではなく、少しレトロな呼び出し音だ。

「おっと、失礼」

 ルイさんが取り出した端末を見て、僕は目を疑った。


 それはパカッと縦に開く、折りたたみ式のスマートフォンだった。どう見てもiPhoneではない。

「はい、杏是林です……ええ、今向かっています。はい、またよろしくお願いします」


 ルイさんは手短に通話を終えると、パタンと小気味よい音を立てて端末を閉じた。その所作はどこか未来的でスタイリッシュだった。

 しかし僕には言いたいことがあった。


「……あの、ルイさん?」

「ん? 何かな」

「なんでiPhone使ってないんですか?」


 声に猜疑心が滲んでいたと思う。だがルイさんは悪びれもせずにサラリと言ってのけた。


「ああ、私はもう使いすぎてiPhoneに飽きちゃってね。向こう数年はマイナーチェンジが続くだろうから、革新的なコンセプトの新機種が出るまでは戻らないつもりなんだ」


 彼女は折りたたんだスマートフォンを掌の上で弄びながら、愛おしそうに見つめる。


「これなんか見てよ。閉じればコンパクト。まるでガラケー時代のギミックと最新技術の融合じゃないか。一枚の板だった画面を折り曲げるなんて、技術への挑戦だとは思わない? こういう遊び心がいいんだよ」


 さっきと言ってることが違う。

 最先端の技術の結晶だの、ジョブズの夢だのと言っていた舌の根も乾かぬうちにこれだ。


「でもねえ、最近は水冷式スマートフォンというのも気になってて……私の理想は各社の試作機を一ヶ月毎に貸して貰うことかな? でもスマートフォンの主流は海外メーカーばっかりだからなかなかツテも作れなくてねえ」


 冗談で言ってるのかと思ったが、その顔は真剣そのものだ。どうやら独自の美学を持った変人らしいが、別に気難しいとかではないみたいだ。それだけで僕の心はかなり軽くなった。


「ところで今の電話、誰からか解る?」

 ルイさんが話題を変えるように言った。

「事務所の方とかですか?」


「丹那さんだよ」

 その名前を聞いた瞬間、僕の背筋が凍りついた。あの妖食倶楽部の主催者にして、底知れぬ食の怪人。思い出すだけでも怖い。


「丹那さんが今のオーナーから許可を取ってくれてね。さっき門も開けたから心ゆくまで探索していいそうだよ」

「……そうですか」


 僕は乾いた返事をした。丹那さんはこういう形で人間たちから様々な感情を摂取するのが楽しみなのだろう。


 気がつけばタクシーは北山通を抜け、さらに山手へと進んでいく。街灯が減り、周囲の闇が濃くなっていく。深泥池のあたりになると、空気の質が変わったような気がした。


「もう着くね」

 ルイさんが窓の外を眺めながら言った。その横顔は廃墟に向かう探検家のそれになっていた。


「北山にはね、少し特殊な歴史があるんだよ」

 ルイさんは解説を始める。その口調はこれから訪れる舞台の設定を語るナレーターのようだ。


「第二次世界大戦後、府立植物園のあたりは進駐軍GHQに接収されて、高級将校の家族住宅地として利用されていたんだ。周囲では彼らを当て込んだ商売も始まり、自然と町並みもモダンになっていった……ってわけさ」


 北山が高級住宅街なのは知っていたが、そんな背景があったとは。


「そんな中、ニセモノの小さなアメリカでは耐えられなかった幹部がいた。彼は少し離れた静かな山裾に故郷の邸宅を再現しようとしたのね。芝生の庭、暖炉のあるリビング、白いペンキの壁……」


 話の途中でタクシーが停まった。目的地の隠形館についたらしい。

「続きは降りてからだね」


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 降り立った僕たちの目の前には錆びついた巨大な鉄の門がそびえ立っていた。洋風の装飾が施された門扉は半開きになっており、門柱には「KEEP OUT」とかすれた文字の看板が残っていた。


「よし、撮り始めるよ」

 元木さんがビデオカメラを構える。それで大事なことを思い出す。

「あ、そういや台本貰ってないんですけど……」


 元木さんが深村堂に持って来た台本、てっきりくれるものかと思ったのだが、嘉永際に回収されてしまったのだ。

 しかし元木さんは苦笑いを浮かべる。


「あー、神田君は別にいいんだよ。この短時間で台本暗記させるのも悪いし、下手に台詞憶えたら棒読みになっちゃうでしょ?」

「それは確かに……」


 台本を意識しすぎて、ぎこちなく喋っている自分の姿がありありと浮かんだ。

「大丈夫だよ。台本は私の中にはあるし、君は私の台詞に対して自然にリアクション取ってくれたらいい」


 流石は女優だ。遠慮無く乗っからせていただこう。

「じゃあ、行こうか少年」

 僕は肯いて、ルイさんの隣を歩く。


 門から玄関までのアプローチはコンクリートで固められていたようだが、それでも大きなヒビが入り、その隙間から雑草が伸びている。しかしアプローチはコンクリートがあるだけましで、両脇の庭園部は背の高い雑草で覆われている。


「お陰で藪漕やぶこぎせずに済んだな」

 元木さんがアプローチのコンクリートをかかとでトントン叩きながら苦笑する。


「声入ってもいいんですか?」

「うん。オレからも指示とか出すし。最悪、編集でどうにかするから」

 なるほど。番組ではあるけれど、三人で会話しながら探索する感じにはなるのか。


 僕たちは足元を懐中電灯で照らしながらアプローチを進んだ。

「そういえば隠形館って正式名称じゃないですよね?」


「うん、違うよ。最初のオーナーはアメリカ人だし」

「じゃあ、誰かがそう呼び出したってことですか」


「忍術とか呪術で、姿を見えなくする術を『隠形の術』と呼ぶんだけど……門の外からだと全然目立たないんだよね。すっかりこの辺の自然に溶け込んで……だから隠形館」


「何なら今も館本体はよく見えないですよね」

 僕がそう言うと突然雲に隠れていた月が現れ、月光が今夜の目的地である隠形館を照らし出した。

「少年、君は持ってるね」


 かつては白亜の豪邸だったのだろう。だが今は壁の漆喰が剥がれ落ち、蔦が血管のように絡まり、まるで朽ち果てかけた巨人の顔のように見えた。ガラスが割れたままの窓からは濃密な闇しか伺えず、虚ろな眼窩みたいだった。


「……ファビュラス」

 ルイさんが感嘆の息を漏らした。

 僕たちは玄関ポーチへと進み、重厚な木製の扉の前に立った。飾り彫りの施された扉は長い年月風雨に晒され、黒ずんでいる。


「はい、神田君。開けて」

 元木さんに促され、僕は「では」とドアノブに手をかけようとした。その時だ。

「ストップ!!」


 鋭い声が飛んできた。ルイさんだ。 僕はビクリと肩を震わせ、動きを止めた。

「えっ、な、なんですか?」


「ダメだよ少年。いきなり開けちゃ。廃墟に対するリスペクトが足りない」

 ルイさんは僕の手を払いのけ、懐中電灯の光を扉の隙間に向けた。

「ほら、見てごらんなさい。ここを」


 光の先には幾重にも重なった分厚い蜘蛛の巣が張っていた。埃をかぶり、フェルトのように灰色になっている。中には枯れ葉や虫の死骸が絡め取られ、一つの歴史を形成していた。


「うわ……」

 僕がおぞましさに顔をしかめると、ルイさんは満足げに頷いた。


「これよ。これを確認しないと」

「はあ……」


「こんな風に厚く蜘蛛の巣が重なっているということは長らく人が出入りしていないという証明なんだ。廃墟探索においては、この手付かず感こそが最高の前菜だね」


 ルイさんはうっとりとした表情で蜘蛛の巣を眺めている。まるで美術館で名画を鑑賞しているかのような熱っぽい視線だ。


「じゃあ、蜘蛛の巣の除去はお任せします」

「いや、それは君がやって。虫は少し苦手なんだ」

 この人、何なんだ……。


 僕は近くに落ちていた木の枝を拾い、蜘蛛の巣を除去する。

「ご苦労。折角だからドアも君が開けてよ」

「そうですか? では……」


 僕は言われるがまま、ドアノブを回した。真鍮製のノブは冷たく、ざらついている。力を込めると内部の機構が悲鳴を上げた。蝶番が錆びついた重低音を奏で、重い扉がゆっくりと内側へ開いていく。


 フワッと中から風が吹き出してきた。黴と埃、そして古い紙の混じったような、廃墟特有の冷たい匂い。止まっていた時間が動き出した匂いだ。

 よし、入ろう。そう思って右足を踏み出そうとした、その時だ。


「ストップ!!」

 またルイさんの声だ。僕はバランスを崩しそうになりながら、片足立ちでピタリと止まる。

「今度はなんですか」


「足元! 足元をよーく見たまえ!」

 ルイさんは僕の足元に強烈なライトを浴びせた。

「埃の積もり具合、そして足跡がないかチェックするのが基本中の基本だよ」


 彼女は地面に這いつくばるような姿勢で床の状態を観察し始めた。

「服、汚れますよ」

「構うものか」


 ルイさんは顔を上げ、真剣な眼差しで僕に説く。

「見なさい、この埃の積もり方。窓からの隙間風で描かれた波紋。これは自然が数十年かけて描いた砂絵アートなんだ。それを踏み荒らす前に敬意を持って観察し、記録する。それが廃墟に対する礼儀だよ」


 そう言ってルイさんはライトで照らされた埃の層を指差す。

 これからこの調子で、一部屋ごとにチェックが入るのだろうか?  廊下を歩くたびに埃のチェック、ドアを開けるたびに蝶番のサビのチェック……。


 僕は思わず天を仰いだ。なんて面倒な仕事を引き受けてしまったんだ……。


 後悔の念が押し寄せる中、ルイさんの「よし、エントリー!」という高らかな掛け声が響いた。僕たちはついに隠形館の中へ足を踏み入れた。


「そうそう、この新雪を踏み荒らすような気持ち良さ……たまらないね」

 しかし雪と違って、厚い埃は踏んでも硬くならない。まるで雲を踏んでいるような感触だ。知らない感覚をもう少し確かめたくて無駄に歩く。


「廃墟を歩く時はなるべく足元を照らした方がいいよ。何を踏むか解らないからね」

「解りました」

 ルイさんのアドバイスに従い、懐中電灯を点けて足元に気をつけながら歩く。


「実はこの隠形館は惨殺事件が起きた場所と言われているんだ。家長から小さい子供まで無残に殺されたという……」


 ルイさんがそこまで言ったタイミングで、僕はついうっかり発見してしまった。

 未踏の証明である筈の埃のど真ん中に、点々と続く小さな靴の跡を……。

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