第40話 釈迦の掌

 5月1日になったそうだ。


 リアル京都市民.bot事件はつい昨日のことの筈なのに、なんだか遠い日の出来事のように思える。


 僕はいつも通り、深村堂の店番をしている。ゴールデンウィーク中にもかかわらず相変わらず客は来ないので、webカタログ作成作業を黙々とやっている。まあ、来られても接客する気力がないから丁度いい。


 ちなみに橘人は書楼祇陀林に行っている。橘人は気を遣ってずっとお喋りしてくれる奴だから、祇陀林も退屈しないだろうと思ったのだ。


 あとあそこに行くとデジタルデトックスになる。そうでなくても橘人は滓滓縷縷にのめり込みすぎている。一時的なものにせよ、アクセスしない日があった方がいい。それに読む本には困らないだろうから。


 ふと、時計を見れば16時30分過ぎだった。早ければ魔美が学校からそろそろ帰ってくる。集中力が切れる前にと、僕は書きかけだったwebカタログの文章の仕上げにかかる。


 だが突然、背後から両肩を強い力で掴まれた。前にも居住部から音もなく出てきた魔美にやられた。もう帰ってきていたようだ。

「魔美、それやめろって言ってるだろ……」

 僕は魔美の手をやんわりと払おうとした。


 だが僕の耳朶を叩いたのは涼やかな男の声だった。

「ほう、随分とたくましくなりましたね」

 居住部から魔美以外の人間が現れるなんて想定外だ。


 魔美と誰かを取り違えた羞恥より前に、知らない男が自分の首元に手をかけているという恐怖が勝った。

「うわあ!」


 思わず振り払おうとした時にはもう僕の肩は自由になっていた。

「驚かせてしまいましたか」

 こわごわと振り向く。背後に立っていたのは漆黒の法衣を纏った……寒い夜、下鴨の小さな神社で僕に救いを示してくれたあの男だった。


 あまりのことに言葉が出てこなかった。

 あれから街を歩く度にこの男の影を探していた。蜘蛛の糸の一言でお陰で救われたし、ダウンジャケットから出てきた短冊のお陰で深村堂との縁ができた。


 一言でも感謝を伝えたかったのに、こんな形で男と再会した衝撃で全身が硬直してしまった。

 そんな僕をよそに、男は悠長に店内を眺める。


「品揃えがほとんど変わってない……相変わらず景気の悪い店ですね」

 まるで常連だったような口ぶりだ。


 だが男の口から続けて出てきた言葉は流石に僕の予想を超えていた。

「墨恩はかわいそうなことになりました」

「なんでアンタがその名前を……」


「そりゃあ、知り合いだからです。墨恩は今朝、街中ですっかりおかしくなってしまった状態で保護されて、鳴鏑なりかぶら療養所に緊急入院ですよ」


「鳴鏑療養所?」

「心の治療を目的にした施設ですよ。比叡山にあって、空気がとても良いんです。まあ、鳴鏑収容所ナリカブラ・アサイラムなんて呼ぶ連中もいますがね」


 僕の呪いは確かに効いたようだ。だが想定していたのは少し具合が悪くなるぐらいの効果だ。

「普通に呪ってあげた方が幸せだったかもしれません。あなた、顔に似合わずひどいことをしますね」


「ただ懲らしめたかっただけで……ずっと呪いに怯えてくれたらいいと思ったんだ」

「これでも褒めてるんですよ。あなたはセンスがいい」


「待て。アンタが何故そんなことを知っている? それにどうやってここに入った?   アンタ一体何者なんだ?」

 男が眉根を寄せる。一度に三つも質問するなと言いたげな顔だ。


「ああ、申し遅れました。私、こういう者です」


 男が名刺を差し出す。僕は返せる名刺がないことに気後れしながらも受け取った。

 だが印刷された文字を見た途端、世界がぐらりと傾いた。


 シジマ機構 教主 深村崇みむらしゅう


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 色んな記憶が一度にフラッシュバックした。


「……なるほど、面白い偶然もあったものですね」

 僕が沌蘭寺で領収書にサインした時、墨恩はそんなことを言っていた。そして墨恩は魔美の兄のことを「シュウさん」と呼んでいた。僕の名前を崇と勘違いしたのも無理はない。


「だって祟と崇、全然ちゃう字やん」

 一方で魔美はこんなことを言っていた。そりゃ、僕の名前と実の兄の名前を取り違えたりはしないだろう。


 僕のダウンジャケットに深村堂を紹介する短冊を忍ばせたのも、今こうして居住部から僕の背後を取ったのも、何のことはない。この男が深村堂の人間だからだ。


 僕は平静を取り戻すために、思いついた言葉から口にする。

「アンタ……教主にしては随分若いな」

 シジマ機構は調べ物をしていた時に何度か目にしたことがある。京都市発の新興宗教で、たまに地元民と揉めているとか何とか。


「以前からあった宗教団体を乗っ取っただけですからね。少し時間はかかりましたが、お陰で潤沢な資金と私を崇める信者たちが手に入りました」

 事もなげにそう言い放つが、確かにこの男には不思議な魅力がある。それぐらいはしてもおかしくない。


 この男には感謝している。だが、魔美の兄だと思うと怒りも湧いてくる。

「古道具屋の再建を妹に丸投げして、自分は宗教で汚い金儲けか」

「深村堂の再開は魔美が勝手にやったことです。一応、しばらく暮らせるだけのお金も残しておいたんですよ?」


「実の兄が目的も告げずに黙って出て行ったら、誰だって不安になるだろう。それに魔美は未成年なんだぞ?」

「おや、ちゃんと面倒を見る人間も用意したんですけどね……」


 ふと墨恩が口走っていた言葉を思い出す。

「墨恩は、自分が魔美の世話を託される筈だったと言っていたが……それは本当か?」


「少し誤解があるようですね。確かに墨恩は候補ではありましたが、別に彼だけじゃなかったんですよ。何人かに目星をつけて、その中で一番いい人に託そうとしたまでです。そういう意味では墨恩は補欠でしたね」


「アンタ、とんでもない人でなしだな」

「人でなしでも、人を見る目はありましてね」

 そう言って崇は僕を指差す。


「もしかして……魔美の面倒を見る人間を用意したというのは、僕のことか?」

 崇はゆっくり肯く。

「賢く、真面目で、何より善良……兄としては妹に邪な行為をしない者をあてがおうとするのは当然でしょう?」


「褒められてるのか?」

「勿論。素直に喜んで下さい」

 この男のお眼鏡にかなったということだろうか。なんだか面映ゆい。


「でも一番の決め手は名前ですね。出て行ったの代わりにがやってきたら魔美も縁を感じて、あなたを受け入れるのではないかなと思いまして」

「は?」


 それだと辻褄が合わない。だって僕はあの夜に偶然この男と出会って、そして名乗ったのだから……。

「説明してあげてもいいですが……もう解っているのでしょう?」


 その口ぶりで全て理解できた。ただ、それは僕にとってあまりにも受け入れがたい真相だった。

「僕のこと……最初から知ってたんだな?」


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「ご明察」

 崇は悪びれもせずに言う。一方、僕はまた言葉が出てこなくなってしまった。

 あの夜から今日までの出来事を奇跡だと信じていたから……。


「あなたのことはたまたま知りましてね。逸材だと思ったので、ずっと機会をうかがってたんですよ。偶然を装ってね」

「じゃあ、あの夜に出会ったのも……」


「何度目かのチャレンジでしたね。いずれは引っかかったでしょうが」

 まるで僕を罠にかけたみたいに言いやがった。主観的にはそうなのだろうが、獲物としては納得がいかない。


「何よりあなたは不思議な出来事を望んでいた。だからそれを演出してさしあげたまでのこと」

「人の人生を何だと思ってるんだ……」


 僕がちゃぶ台を売りに行って、今こうして深村堂で働くようになるまでの全部がこいつの仕掛けだったということだ。この絶望は誰にも伝わらないだろうが。


「人間は偶然に弱いし、奇跡が起きたとたやすく思いこむ……偶然こそ、強い呪いの一つなんですよ」


「僕はな……僕の名前を聞いたアンタが、当意即妙にカンダタ呼びして、そこからお釈迦様の蜘蛛の糸を繋いでみせたことに本気で感動したんだぞ」

 崇は口元を歪ませ、少し困ったように笑った。


「あれはあの場で閃いた……と言っても、もう信じてもらえないでしょうね」

「当たり前だ!」

 一度大声を出すと、壊れた蛇口のように恨み言が溢れてきた。


「この三ヶ月は僕にしたら大冒険で……大変だったけど、喪失した自信を取り戻す日々でもあったんだ」


「それはそれは……」

「でも所詮、僕はお釈迦様気取りのお前の掌の上で遊んでいたサルだったんだよ」

 自己肯定感にヒビが入った。そしてそのヒビから色んなものが流れだそうとしている。気持ちを強く持ってないと、また空っぽになってしまいそうだ。


「だけど、私だって何でも見えているわけじゃないですよ。例えば……そうですね、まさかあなたが怪異案件で才能を発揮するとは思ってもみませんでした」

「やめろ。また褒めて、隙を作るやり方だろ」


「本当ですよ。あれは対怪異の仕事はセンスが要りますし、教えたからどうにかなるものでもない。だから誇って下さい。あなたには才能があったんですよ」

 そう言われても別に嬉しくはない。


「そうそう。私、怪異案件のツテは豊富なんですよ。深村堂にいた頃から人脈は育ててましたからね」

「案件が多いからどうした。アンタがいくら対怪異のエキスパートでも、アンタの身体は一つしかないだろう」


 僕の言葉に、崇は不敵に笑った。

「簡単ですよ。シジマ機構の信者を放り込めばいいんです。成功するまで何人でも」

「それは……何人も死ぬだろ。たとえ死ななくても墨恩みたいになる」


 僕の言葉に、崇は深く肯く。

「よくて鳴鏑療養所送りになるでしょう。でもほんの一握りの者があなたのように目覚める……まあ、これも一種の選別ですね」

「何を言ってる?」


「でも厳しい選別を乗り越えて残った者たちは対怪異のエキスパートになるわけで……いずれは京都中の怪異案件を私たちで独占します。それは京都を支配するのと同じだと思いませんか?」


 ようやく解った気がする。おそらくこれは崇なりの復讐なのだ。父親を死に追いやった京都を牛耳ることで、それを達成しようとしている。


「遠からず誕生する私の使徒たちを……限定京都市民リミテッド・レトロポリタンとでも号しましょうか」

 どこか嬉しそうにそう告げる崇を見て、背筋に悪寒が走った。

「もっとも、本格的な選別はまだこれからですけどね」


「考え直せ! どれだけの犠牲者が出ると思ってるんだ」

「ですから、ウチで対怪異の先生をやりませんか? 高額報酬をお約束しますし、きっと犠牲者も減ると思いますよ」


 崇への感情を抜きにすれば、決して悪くない提案だった。深村堂を再興するための原資を安全に稼げそうだし、魔美も兄との縁が戻って嬉しいかもしれない。

 けれど、僕は"先生"という呼び方が気に障った。


「……僕を先生呼びしていいのは一人だけだ」

 僕が怪異の先生をやるとしても、責任を取れるのはせいぜい一人だ。ならば姉の影を追って、これから更に怪異の世界に踏み込もうとする橘人を見守るのが僕の役目だろう。


「交渉決裂ですか」

「それより早く帰ってくれ。アンタを魔美と会わせたくない」

 魔美はいつ帰ってきてもおかしくない。


 だが崇はゆったりと店内を歩き回る。帰れと言われた人間の動きではない。まだ自分の家のつもりなのか、それとも帰ったところで自分の望む通りになると思っているからか……。


「今日のところは退散します。まあ、気が変わったらいつでも歓迎しますよ」

 そう言って崇は表の戸から出て行った。そんな崇の後ろ姿を見送ると、あの日の光景が蘇る。


 下鴨の寒い夜。偶然通りかかった神社の敷地であの男を見つけた……いや、僕が見つけてもらった。そう思っていたのに。


「……本当に、あの言葉に救われたんだ」

 あの時の僕に教えてやりたい。


 全財産なんか持ち歩かなくても世界は憎めるって。

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