第38話 リアル京都市民.bot③

 リアル京都市民.botからの最後の指令を見た瞬間、感動が一瞬で吹き飛んだ。

 伏見稲荷ならまだいい。四つ辻まで行けだって?


 伏見稲荷大社に行ったことがある人間なら解るはずだ。本殿や千本鳥居の入り口は平地にあるが四つ辻はそこから本格的な登山道を登った先の、山の中腹だ。

 現在時刻は16時15分。制限時間は一時間。


 今から山を降り、京都市内を南下し、そこからまた山を登れと? なんて悪意に溢れた指令だ。僕は貧弱で、運動不足な大学生なんだぞ?

 これからの一時間の行程を想像しただけで疲労感に襲われてしまい、思わず展望台の手すりに体重を預けてしまう。


「祟!」

 祇陀林の叫びで我に返った。いつの間にか展望台まで僕を追ってきたようだ。

「……助かった」


 僕は手すりから手を放し、脱兎の如く走り出す。

 危なかった。緩んでた。想像で折れそうになるとは何様だ。僕から京都愛を取って何が残る。愛で駆動しろ。足が折れても走れ!


 僕は祇陀林を伴って展望台を駆け下り、車に転がり込む。

「とりあえず下へ降りるのじゃ」

 祇陀林はそう言って車を発進させた。


「で目的地はどこなのじゃ?」

「伏見稲荷の四つ辻……」

「なら、このまま向かうか?」


 車は暗い山道を下っている。今はまだ一本道だが、じきにルートを確定させなくてはならない。今は16時18分。いずれにせよ、猶予はない。


 ここから伏見稲荷まで祇陀林の車で行くとして、平時なら20分で済むようなルートだが渋滞が怖い。30分で着けば御の字だが、40分以上かかったらほぼアウト。命のかかったこの局面でそんな運試しをしたくはないというのが本音だ。


「……京阪を使うしかないか」

 京阪電車で伏見稲荷駅まで行くのが安全だ。問題はどこの駅から乗るか。京阪の三条駅、祇園四条駅、清水五条駅……とりあえず直行ルートのない祇園四条駅は除外する。


 僕はスマートフォンで時刻表を調べる。伏見稲荷駅に止まる準急は一時間に5本、その内で伏見稲荷駅から四つ辻までの所用時間を考慮したら、乗れるのは三条駅の16時26分発か38分発の2本しかない。


 三条駅駅を16時26分に出る準急は清水五条駅で16時29分でも捕まえられる。仮にそれを逃しても、41分発の準急に乗れるならまだ勝負になる。


 車はほどなく東山ドライブウェイの分岐点に辿り着く。

「清水五条駅へ頼む!」

 車は左に折れ、清水五条駅を目指す。とりあえずここまで間違わなかった筈だ。


 だがほどなくして間違っていないということは正解とは限らないのだと思い知る。五条バイパスへ降りてほどなく、渋滞に巻き込まれた。時刻は16時25分だが、まだ大谷本廟を過ぎたところ。とてもじゃないが29分の準急に乗るどころではない。


 このまま41分発の準急にも乗れなかったら……以降は座して死を待つ身になってしまう。

 最悪の可能性を想像したら、手が震えだした。いや、疲労かもしれない。


 震える僕の手の上に、小さな手が重ねられる。祇陀林だ。

「……落ち着くのじゃ。祟は必ず間に合う」

 慰めてくれた。というか慰める必要があると思われるほど顔が憔悴してたのかもしれない。


「ありがとう。頑張るよ」

 結局、清水五条駅に辿り着いたのは16時36分だった。

 失った時間を考えるんじゃない。「お陰で休めた」と考えるんだ。

 

「わしらはこのまま伏見稲荷へ向かうからな。終わったら連絡するのじゃぞ」

「解ってる! また後でな」

 僕は車を飛び出し、清水五条駅の地下へと続く階段を駆け下りた。


 改札を抜け、ホームへ入る。しばらく待つと準急がやってきた。座席こそ埋まっているが、立錐の余地がないほど混んでいるわけでもない。少しは落ち着けそうだ。

 やがてドアが閉まり、電車はゆっくりと加速した。


 僕はドアに寄りかかって一息つく。

 ここから伏見稲荷駅までは約7分。16時48分頃に着くとして、残り時間は27分。こうなれば伏見稲荷駅まで僕にできることは何もない。

 いや、何かを考えるならこれが最後の機会になるか。


 僕はふとリアル京都市民.botのホーム画面に行ってみる。真っ黒なアイコンや文字化けしたようなbio欄から読み取れるものはない。ゼロフォロー、ゼロフォロワーだから好むアカウントの傾向も解らない。


 だけど僕は目を凝らしてリアル京都市民.botを観察することにした。文字だけでも解ることがあると思う。例えば言葉の選択。


 IDに「Navi」と入れたのは、誰よりも京都に詳しいという自負だろうか。

 でも公に認められた者がIDに「Official」なんてわざわざ入れない。何より京都市民としての自信があるならスクリーンネームに「リアル」なんてつけない。

 

 スクリーンネームもIDも「自分は京都市民だ」と言い聞かせているようなネーミングだ。僕はリアル京都市民.botに、京都市民を名乗ることを許されなかった者の悲しみを読み取った。


 京都への進学を夢見た高校生、それとも京都に残ることが叶わなかった大学生か……他にいくらでも可能性は考えられるし、僕のプロファイリングも的外れかもしれない。


 冷静になってみると、こいつは決して理不尽な指令を出していないことに気づく。難しそうでも、ワンミスかツーミスならまだクリアできる程度の難度に留めてくれているというか。何より京都の知識があればリカバリーできるようになっているのも絶妙だ。


 例えば先ほどの将軍塚から清水五条駅までの移動。決してベストではなかったが、ワンミスの範疇のロスだ。これから生身でタイムアタックする辛さは残っているとはいえ、まだどうにかなる。


 ふと僕の中に妙な考えが生まれる。

 リアル京都市民.botはこれでもフェアプレイを貫いているつもりではないだろうか? だって単に呪いたいだけなら、最初から無理なゴール地点を指定すればいいだけだ。


 もしかしてお前は京都愛の深さを誰かと競い合いたかったのか?

 独り合点もいいところだが、何故かその解釈は僕の中でしっくり来た。

 だったら僕も負けるわけにはいかない。伊達に四年もくすぶっていたわけではないのだから。


「伏見稲荷、伏見稲荷です」

 車内にアナウンスが響く。僕は大きく息を吸い、構える。そして扉が開くと同時にホームに飛び出した。


 伏見稲荷大社までは駅から徒歩5分、僕は早足気味に向かった。残り時間全て走れるわけでもないので、なるべく消耗を抑えたい。


 巨大な楼門をくぐり、社内の案内板を見る。

 ……やっぱりそうだ。本来の順路は右手の千本鳥居だが、四つ辻を目指すなら左手の三つ辻から直接向かった方が早い……というか、千本鳥居ルートだと僕の体力ではおそらく走りきれない。


 残りは23分。僕は復路として用意されているルートを登っていく。登り始めてすぐに、遠回りになっても向こうの緩い石畳を進めばよかったと後悔する。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 息が荒い。心臓が破れそうだ。蓄積してきた疲労が血管を流れる感覚があり、足が鉛のように重い。太ももやふくらはぎが悲鳴を上げている。


 ここで足が痙攣したら終わりだ。少しペースを落として確実に進むことを選ぶが、不安と恐怖が頭の中をぐるぐると回る。

 日没まであと数十分、黄昏の中を歩いていると冥府へ向かっている気分になる。


 三つ辻に到達。時刻は17時02分。残り13分。三つ辻から四つ辻までの所要時間は約10分と言われているが、既に消耗したこの身で間に合うのかは解らない。

 解らなくても行くしかないだろう。


 僕はただ標識の四つ辻という文字だけを追って足を前に出す。死にたくないとかじゃない。京都市民として、負けるわけにはいかない。


 僕は残っていた最後の力を振り絞った。獣のような声を上げ、目の前の石段を駆け上がる。鳥居の朱色のせいで視界がずっと赤い。


 やがて石段がなくなり、平らな場所に出た。 僕はその場にへたり込みそうになるのをこらえ、震える手でスマートフォンを取り出す。


 僕は眼下に広がる京都の絶景を撮影し、リアル京都市民.botにリプライした。投稿時刻は17時14分。すぐにスマートフォンの時刻表示が17時15分に変わったのを見て、脱力する。


「はぁ……はぁ……」

 その場に座り込む。全身が汗で濡れ、足はもう一ミリも動かない。

 一分ほどしてリプライ通知が来た。これで四度目の指令を出されたらもう死ぬしかないと思いながら確認する。


@tatatataru .


 これだけか?

 盛大に称えてくれるのかと思ったら、「.」だけのリプライとは。こいつなりの負け惜しみなのかもしれない。まあ、無視されるよりはいい。


 これで僕はリアル京都市民.botの呪いに打ち勝った人間ということになる。人の目がなければ市街地に向かって吠えていたかもしれない。


 だけど今日はこれで終わりというわけではない。

 橘人に次の指示をしないと……祇陀林に迎えに来て貰わないと……でもその前にこの感動を誰かにシェアしたい。


 丁度いい。魔美にシェアしよう。

 僕は魔美に先ほど撮った画像を送った。何か反応があるかなと思っていたら、すぐに電話がかかってきた。


『なんやねん。画像だけ送ってきて。伏見稲荷なんてせんど行ったわ』

「ごめん。ちょっと魔美に見せたくなって」

 沈黙が流れる。変なことを言ってしまったことだけは解った。


『……まあええわ。で、他に用事あるんやろ?』

 流石は魔美、僕が無意味に連絡してこないことを承知している。

「お前に頼みがある」


『ウチに頼んだらたこつくで?』

 魔美は冗談めかした口調で言う……冗談だよな?


「……沌蘭寺の墨恩さんを深村堂に呼び出してほしいんだ」

 そう、全てを終わらせるために。

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