第15話 書楼 祇陀林④

 544、545、546……。


 僕は慎重に歩数を数え続けながら西へ進む。どれだけ歩いても懐中電灯の照らし出す光景に変化がなくて、その事実がじわじわと僕の正気を蝕んでいる。


 いや、それでも進んではいる。何より誰かのために歩いている。あの安アパートで一人で過ごしていた日々を思えば全然孤独じゃない。


 711、712、713……。


 これまで深村さんの紹介で色んな仕事をしてきた。でも、振り返ると僕は隠された真実に全然気づけなかった。

 そして橘人がああなったのには僕にも責任の一端がある。


 だから同じことを繰り返さないために、今度は自分から知りに行こうと思ったのだ。『黄母衣内記』なんて実在しない本の所在を尋ねて、祇陀林を試したのもそういうことだ。


 本来、書庫にない本の所在を問われたところで、「ない」と強く返せばいいだけだ。そうできなかったのはきっと彼女の知識がまだ完全じゃないからではないか?

 僕の中で組み上がった仮説はこうだ。


 ごくまれに一目見ただけで全て記憶してしまうような、異常な記憶能力を持つ人間が生まれる……そして祇陀林とはその特殊体質を持つ者たちによる、継承システムなのではないか?


 祇陀林の店主は自らの寿命が近づくと、次代となる同じ体質の幼い子をどこからか連れてきて、自分の知識と蔵書の全てを引き継がせる。


 そして対外的には「ずっと同じ祇陀林が生き続けている」と振る舞うことでその権威と神秘性を維持してきたわけだ。

 だからあの子はまだ祇陀林として未完成なのだろう。


 ……871、872、873。


 これで西へ873歩進んだ。僕は南に身体を向け直し、歩みを再開する。この先はここまでの倍以上の歩数を歩かねばならない。だが数え間違えずに歩くという行為はなかなかに神経に来る。


 15、16、17……。


 それに何より、「西へ873歩、南に2284歩行けば『洛東巷説顛末』がある」という僕の仮説だって合っている保証はどこにもない。「もし間違えていたら?」という不安を抱えながら歩く道のりの辛さを今、思い知っているところだ。


 922、923、924……。


 それでも……あの子の抱える不安に比べたら、僕の不安なんてたかが知れている。


 1134、1135、1136……。


 今の祇陀林を演じているあの少女が本当に自らの意思でここにいるのかは解らない……でもあの歳で、しかも国外から連れて来られたのなら、そもそも本人に選択の自由なんてものはなかっただろう。


 1779、1780、1781……。


 この先、何十年も祇陀林であることを強いられるであろうあの子の不安と孤独を考えれば、たかが暗闇を一人で歩くぐらいが何だというのか。

 そう思うと、心の中に松明が灯ったような気持ちだった。


 ……2282、2283、2284。


 ここだ。

 僕は足を止めた。 『洛東巷説顛末』はこの辺りにあるはずだ。


 僕は懐中電灯の光で、本棚の背表紙を一つずつ照らしていく。だがいくら探しても目当ての本は見つからなかった。歴史書、兵法書、個人の日記……どれも貴重そうなものばかりだが、肝心の『洛東巷説顛末』だけがどこにもない。


 歩幅を数え間違えたのか? それとも歩幅が違った? そもそも考えが間違っていたのかもしれない……。

 探しながら焦りが募っていく。


 その時だった。

 メキメキと古い木材が悲鳴を上げるような音が近くから響く。思わず懐中電灯を向けると、僕が先ほどまで調べていた本棚がゆっくりと、こちらに向かって傾いてくるのが見えた。


「うわっ!」

 僕はとっさに後ろへ飛び退く。直後、凄まじい轟音と共に本棚が崩れ落ち、書物が床に散乱した。土埃が舞い上がり、呼吸が詰まる。

 元来た道は完全に塞がれてしまった。


 ……マズいかもしれないな。

 僕にある程度余裕があったのは、行きの逆である「東に873歩、北に2284歩」で戻れると思っていたからだ。


 勿論、別に閉じ込められたわけではないので本棚を少し迂回すればいいのだが、迂回した分の歩数やその方角を正確に反映できるかどうかは解らない。


 僕は疲労回復のためにしゃがみ込むと、電池を節約するために懐中電灯を一度切った。ここまで来た以上、『洛東巷説顛末』は回収しておきたいが、帰路に明かりがあるのとないとのではエラい違いだ。


 だが数十分待ってみても事態は変わらなかった。

 最悪、やるしかないか……。


 懐中電灯を握りしめて覚悟を決めた瞬間、ある音に気づいた。

 それは静かな音だが、一定の調子で鳴っており、徐々に大きくなっていく。


 こちらに向かっているのか?

 だが目を凝らしても照明を携えている様子はなく、真っ暗闇の中を悠々と進んでいる感じだ。

 やがてその人物は静かに僕の前に現れた。


 僕は顔を上げて、暗闇に向かって静かに告げた。懐中電灯は必要ない。

「……迎えに来てくれると思っていましたよ、いついさん」


⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩


「……ほう。わしが来ると思うておったと?」

 いついさんの静かな声がした。僕を咎めるというよりは、好奇心が勝ったという感じだ。


 僕はゆっくりと立ち上がって答えた。

「あなたは目隠しをしていたのに段差も角にぶつかることもなく敷地内を歩いていました。まるでエコーロケーションで空間を把握しているのように」


 実際にエコーロケーション能力を持った人間と会ったことはないが、まあそこは本質ではない。単なる僕なりの仮説だ。

「ただ、そんなあなたならこの異変を察知して、助けに来てくれそうな気がしたんです。何よりこの書庫の闇もあなたにとっては無関係でしょうしね」


 僕の答えを聞いて、いついさんは喉の奥で微かに笑った。

「面白いことを言う。頼りない男だと思ったら、存外観察眼があるようじゃな」

 僕は懐中電灯を点けた。たとえ電池が切れても、もういついさんというガイドがいる。どちらかと言えば、今はいついさんの感情を捉え損なう方が怖い。


「そうでもないですよ。本棚が倒壊する可能性を考慮してませんでした」

「腐っておったようじゃな。まあ、よくあることじゃ」

 いついさんはそう言うと、一つ向こうの本棚を指差した。


「『洛東巷説顛末』ならすぐそこにある。惜しかったのう」

 なんだ。では本棚さえ倒壊させなければいずれは入手できて、部屋にも静かに戻れたのだ。なんともツイてない。


「お主、ここにはどうやって?」

「祇陀林が『とりの花見はなみに、うまの夫婦箸ふうふばし』と口を滑らせたんですよ。それを方角と歩数を表す符帳を解釈してみたんです」

「なるほどなあ」


 いついさんの語調や表情から判断するに、僕の解釈は間違っていなかったようだ。

「しかし仮に歩数と解釈しても、肝心の歩幅が解らねば意味がないだろう?」

「ええ。だから試しにあなたの歩数にしてみたんです……あなたの後ろについて歩いたお陰で、身体が覚えてました」


 僕がそう畳みかけるといついさんの口元から笑みがすっと消えた。目隠しの下の表情は読めないが、彼女の心に触れたことだけは確かだった。

 だから僕は覚悟を持って、その言葉を口にした。


「いついさん……あなたは先代の祇陀林なんでしょう?」


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「深村の小娘も粋なお使いを寄越すものじゃな」

 いついさんの返事を聞いて、僕は内心胸を撫で下ろしていた。決して当てずっぽうで口にしたわけではないが、外れていたら失望されていたかもしれない。


「解りやすく言えばわしがマスターテープで、あの子はダビング先。おまけにこのダビングには時間がかかるのじゃ」

「あの……ダビングって何ですか?」


 話の腰を折るつもりはなかったのだが、馴染みのない言葉すぎて思わず聞いてしまった。こんな重要そうな話、理解しないまま調子良く相づち入れる方が失礼だと思ったからだ。


「そうか、もうそんな世代じゃないか……」

 いついさんは少し鼻白んだような様子で言葉を探す。

「まあ、正確には今まさに引き継ぎの最中だから、わしもまだ祇陀林と言えなくもないな」


 彼女は僕に背を向けると、先ほど指差した本棚に向かって歩いて行く。僕はその後ろを黙ってついていった。彼女はとある書架の前で足を止めると慣れた手つきで一冊の古い和綴じ本を抜き出した。


「ほれ。遠慮せずに持っていけ」

 差し出されたその本の表紙には墨痕淋漓と『洛東巷説顛末』と書かれていた。


「ありがとうございます」

「朝には迎えが来るように手配してやろう。まあ、あの子はさみしがるだろうがな」

 僕が本を受け取ると、いついさんは闇の中へ向けて歩き始めた。それが入り口に戻ろうとしているのだと気づいて、慌てて彼女の隣に駆け寄った。


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 果てしない本棚の列が懐中電灯の光に照らされては闇の中へと消えていく。その静寂の中、いついさんがぽつりぽつりと自らのことを語り始めた。


「もうある程度事情は察しておるだろうが……わしは四十年ほど前、人身売買同然に祇陀林に連れてこられた。元はこの国の人間ですらない」

 その告白はあまりに淡々としていたが、それ故にかえって彼女が生きてきた年月の重みがずしりとのしかかってきた。


「祇陀林をやめることはできなかったんですか?」

 僕はあの少女が夕食時に見せた無邪気な笑顔を思い出しながら、尋ねずにはいられなかった。

「……やめようにもやめられんのじゃよ」


 いついさんは静かに首を横に振った。

「我らはこの五百年余り、ただひたすらに持ち込まれる書物を記憶し、管理してきた。別にその知識を悪用してきたつもりもない。だがそうは思っておらぬ者たちも世の中には多い」


 そう語るいついさんの声には深い諦念が滲んでいた。

「もしもわしらが祇陀林をやめたら、これ幸いと書庫を狙う者や意趣返しをしようとする者も出てくるだろう」


 京都の影の支配者のように思われた祇陀林も、実際はまったく自由ではなく、むしろ縛られていたなんて……皮肉なことだ。


「ところでお主、度胸があるな」

「そうですか?」

「仮に自分の解釈が正しいと思っていてもなかなか命までは懸けられんぞ。そんなに本が欲しかったのか?」


「自分のためならこんなことしませんよ」

「どういう意味じゃ?」

「あの子に自信を与えたかったんですよ。『君の記憶は正しかったよ』『ちゃんと辿り着けたよ』って言えるように……」


 いついさんは絶句したようだったが、これは偽らざる本心だった。

 彼女は祇陀林としてはまだ半人前で、きっと内心ではずっと不安な筈だ。そんな彼女がこの先一人でも祇陀林をやれるように、身体を張ってみせただけだ。


「これは度胸があるとかじゃないな。愚か者め……」

「僕の愚かさで誰かを救えるなら……安いものですよ」

 そう言いながら、僕はまた橘人のことを思い出していた。

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