第3話 墓場荘②

「タレカイルノ……」


 怖い……。

 全身の血が一瞬で凍り付いたようだ。身体が強ばって指一本動かせない。呼吸も浅くなり、脳が酸欠を訴えている。


 返事をしたものか迷う。オーナーは「幽霊は騒がしいのを嫌うからね」と言っていた。声を出すなんてもっての他だろう。僕は沈黙という保留を選択する。


「タレカイルノ……」


 同じ呼びかけが来る。先ほどより響きが弱い。このまま無視すれば帰ってくれそうな気さえする。

 心の余裕ができると自分を支配している恐怖が幽霊への恐怖とは別種のものであることに気づいた。


 そうだ……幽霊が存在していたら確かに怖いけど、そんなことは実は些事だ。

 これまで僕は「今じゃない」「これじゃない」と様々な機会を見過ごしてきた……その消極的な静観の果てに今の僕がある。


 僕が本当に怖いのはあの孤独がこれからも続くこと。そして孤独を脱出する機会を逃すことだ。


 思い返すと、オーナーは「幽霊と会えたなら詳しく報告してほしい」と言っていた。ならばただ静観するだけではなく、コミュニケーションを試みることこそ、この仕事における成果ではないのか。


 だったら……たとえ幽霊に取り憑かれたとしてもこの機会を取りこぼしたりはしない。

 僕は声がした方向……104号室の側の壁に這うように移動し、壁を静かに叩いた。


 コン。


 声を出さずに返事をしたつもりだった。これで去られたのなら仕方ない……そう思って返事を待っていると、再び不気味な声が聞こえてきた。


「ソコニイルノ……」


 「そこにいるのか?」と訊いているのか。壁越しだと濁音が消えるだけでなく、語尾も不明瞭になるらしい。

 僕は返事の代わりにまた壁を叩いた。


 コン。


 もどかしい……。

 それが偽らざる本音だった。折角の幽霊を前にして、壁を叩くしかコミュニケーション方法がないなんて。

 僕は賭けに出ることにした。


 オーナーの言う騒音とは無作法な音のことではないのか。こちらから礼儀を持って静かに話しかける分には問題がないのではないか。何より孤独の果てに死んでいった魂が本当に求めているのは静寂ではなく、誰かの温かい声なのではないか……。 

 僕は壁に向かって、震える声で語りかけた。


「僕は神田祟。お前は?」


 発声途中でボリュームが小さすぎたかもと思い、「祟」からちょっと強めた。

 言い終えた瞬間、部屋を支配していた肌を刺すような悪寒がすうっと和らいだ気がする。

 やはり間違いではなかった。この霊は対話を求めているのだ。僕の声が恐怖ではなく安らぎを与えたのだ。その確信が僕に勇気を与えた。

 僕はもう一度、壁の向こうにいるはずの見知らぬ霊に語りかける。


「もう寂しくないぞ」


 僕は返事を待った。だが壁の向こうはしんと静まり返っている。

 いくら待っても返事はない。満足したのだろうか。だけど僕にはまだどうしても訊きたいことがあった。

 

 104号室の幽霊はおそらく何かに絶望して自ら命を絶った者の筈だ。きっと救われたかっただろうに……今も孤独で、苦しそうだ。

 だから死が救済かどうか、それだけは知りたい。


 僕は心からの問いかけを壁の向こうの静寂に投げかけた。

「まだ苦しい?」

 僕の言葉が部屋の闇に溶けて消えかけたその直後。


「――ああああああああああああああああああっ!!」

 鼓膜を突き破るような性別不詳の絶叫が聞こえた。そして……


 ドンッ!!


 人間一人分の体重を壁に叩きつけたかのような鈍く生々しい衝撃音……そうとしか表現しようがない音だった。あまりのことに思わず立ち上がってしまった。

 しかしそれきりだった。


 103号室はまた死んだような静寂に包まれた。「何かが去ってしまった」としか言えない。感覚のチャンネルが戻ったのか、黴と埃の匂いが急に気になりだした。

 僕は部屋の真ん中で膝を抱え、まんじりともせずに過ごした。


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 僕は103号室のドアが開いた気配で目覚めた。

 いつの間にか眠っていたらしい。明け方までは意識を保っていた筈だが。

「おはよう、神田君! 大変だったねえ」


 オーナーが上機嫌な表情で言う。時刻を確かめると7時半、約束通り迎えに来たのだろう。

「幽霊が出ました……でも仕事は果たしたと思います」

 乾きと緊張で口が上手く回らない。一息に話して楽になりたいのに。


「みたいだね。だから仕事はこれで終わりでいいよ」

 思わぬ申し出に話そうとしていた内容が飛ぶ。

「いや……あの、幽霊とコミュニケーションを取れたんですけど」

 僕が恐る恐る報告すると、オーナーはこともなげにこう言った。


「ああ、それはもうどうでもいいさ。幽霊が出たんだから、それだけで充分だよ。報酬は深村さんに渡しておくから忘れずに受け取りに行ってね」

 そのあまりにあっけらかんとした答えに僕は何も言うことができなかった。


⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩⛩


 自宅で一休みして昼には深村堂に行くつもりだったのに、目覚めたらもう夕方だった。赤葉荘では全然動かなかったから肉体的な疲労は皆無だと思っていたが、心は疲れ切っていたらしい。


 僕は割り切れない気持ちを抱えたまま、報酬を受け取るために深村堂の戸に手をかけた。入るなり、店内のアンティークの柱時計が18時の到来を告げる。

「おっ、取り憑かれんと帰ってきたんやな」

 帳場に座っていた深村さんが人を食ったような笑みで僕を迎えた。


「……笑い事じゃないですよ。とんでもない目に遭ったんですから」

「へえ、どんな?」

 深村さんが手招きをする。僕は近くに腰を下ろし、昨夜の経緯をかいつまんで彼女に話した。


「あんたの中ではそういうことになってるんやな」

 僕の話を黙って聞いていた深村さんはそう言うと、予め用意してたと思しき封筒を僕に差し出す。

「はい、約束の10万円や。大事に使いや」


 僕は封筒を受け取ると、その場で中身を確かめる。野暮かもしれないけど、そうでもしておかないと家に帰って葉っぱが出てきそうな気がしたからだ。

 ひのふのみの……確かに一万円札が10枚入っていた。


「運も良かったんやな。数日かかるかもしれへん仕事が一晩で終わるなんて」

「どういう意味ですか?」

「……運がええってのも才能やから素直に喜んどき」

 そう意味深に笑う深村さんを見て、このまま帰ってはいけないと思った。


 5万あればひとまず今月の家賃と当面の生活費にはなるな……。

 そんな計算ができた途端、僕は封筒から万札を5枚引き抜いていた。そして深村さんに差し出しながらお願いしていた。

「これで今回の答え合わせをしてくれませんか?」


 僕の人生は答え合わせのないテストの連続だった。そして答えが分からないままだから何度でも同じ間違いを繰り返す……だから報酬の半分を捨ててでも答え合わせをしてほしいと思ったまでだ。


 深村さんはおかしそうに笑っていた。

「どうですか?」

「……笑ったウチの負けやな」

 深村さんは僕の5万円を袂に仕舞うと解説を始めてくれた。


「元々、オーナーの赤川さんはあんたを何日も使おうとしてたんや」

「ええ。あの口ぶりだと幽霊が出るまで何日でも103号室で過ごすものだと思ってました」

「それが方便やったんや」

「どういう意味ですか?」


「オーナーの指示通り、アンタが極力音を出さず、息を殺して103号室で過ごしていたら、隣室の住人からしたらまるで幽霊がおるみたいに感じへんか?」

「あっ……」

 ようやく理解した。オーナーは僕に対して故意に説明をしなかったが、103号室の隣室にはまだ人が住んでいたのだ。


「オーナー、『真夜中なのに退去の相談をされた』って喜んでたで」

 僕が幽霊に「まだ苦しい?」と問いかけた途端、壁の向こうから聞こえた絶叫とあの衝撃音。あれらは僕が発した言葉を幽霊のものだと信じ込んでしまったが恐怖の限界に達して上げた悲鳴……そして勢いよくドアを開けて逃げていった音だったのだ。


「僕は住人の追い出しに利用されたんですね……」

「あのオーナーはな、赤葉荘を潰してマンションにしたがってたんや。その諸々の準備が整ったのは最近やけど、一人だけどうしても立ち退きに応じへん住人がおった」


「家賃がありえないほど安いからですか?」

「そう。大学院生やったらしいわ。修了まではまだ期間があるから当分住むいうて……業を煮やしたオーナーは搦め手を使って追い出そ思うたんや」


「でも法律に則って立ち退き料を払えば大丈夫でしょう?」

 今住んでいるアパートが古いので、立ち退きの話をされた時のために調べたことがある。立ち退き料の相場は家賃の半年分なり一年分なりらしいが、仮に一年分払ったとしても家賃が1万5000円なら18万円だ。


「家賃の安さを理由に住んでる人間が18万ぽっち貰ってよそに移ると思うか?」

「だからって人雇ってまで脅しますか?」

「これはオーナーの話やけど……大学院生はオーナーの狙いに気づいて立ち退き料をつり上げようとしてたらしいわ」


 ああ、それは揉める……。

「オーナーは金持ちやから100万払おうがそこまで痛くない。ただ、拗れるともう金やのうてプライドの話になってくる。京都でずっと地主やってる自分が、なんで貧乏学生に偉そうにされなあかんのか……ってな」


「でも僕を使って幽霊を演出するのは、追い出すための仕掛けとして弱くないですか?」

「オーナーは色々と仕掛けを用意してたらしいけど、あんたがいきなり一発目で大成功させたことに驚いてたで」


 そこだ。大学院生が僕を幽霊と誤認したにせよ、どうしてあんなに恐怖したのかが解らない。

「でも僕は幽霊に向かってちょっと話しかけただけですよ?」

「どんな風に?」

「どんな風にって……」


 そこまで口にして気がついた。

 壁の向こうから聞こえた言葉は濁音が消え、語尾も不明瞭だった。あの壁の固有の性質なのかもしれないが、もしも同じことが僕の言葉でも起こっていたらどうなるか。


「……タタル。オマエ……」

「モウサミシクナイ……」

「マタクルシ……」


 最初の呼びかけは途中からボリュームを上げた……なら、こんな風に聞こえたということになる。

 ああ、そうか……僕がどうしても訊きたかった「まだ苦しい?」という問いかけも、隣室の大学院生にとっては「また来るし」と聞こえたのか。


「……それはさぞ怖かっただろうな」

 そう他人事のように思いつつ、納得できた。

「なんや、もう納得したんや」


「納得というか……理解できたというか」

 立ち退き料で揉めたという話もあって、大学院生を追い出す片棒を担がされていたことについてはさほど心が痛まなかった。

 ただ、いると思って語りかけた幽霊が存在しなかったことの方がやるせなかった。


 まかり間違えば僕もああなっていたっておかしくなかったのだ。そういう意味では僕のifの可能性と出会えたと思っていた。答えを聞きたかったし、友達にもなりたかった。変なことを思っている自覚はあるが、僕はあの幽霊にシンパシーを覚えていたのだ。


「ああ、そうや。忘れてた」

 深村さんが思い出したようにそんなことを言う。

「なんですか?」


「赤葉荘を壊す前にまた別件でバイトお願いすることになると思うけどええ? 今度は普通のギャラやけど」

「どんな仕事です?」

「いや、在庫の搬出や。たまに海外から注文があるんで、ファミコンのカセットや古い玩具なんかを104号室に預けてるねんけど……」


 104号室だって?


「あれ、大学院生が住んでたのは?」

「102号室に決まってるやろ。104号室は深村堂で借りてるんやから」

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