私の勇者様 ―― 真実の偽典
ネコ屋ネコ太郎
1章 神託の街、沈黙の祈り
第1話 神託は下された
今より少し昔、まだ剣と魔法が人々の暮らしに根付いていた時代――。
世界には「勇者」と呼ばれる者たちがいた。
その名を与えられた者は、剣を取り、人々を導き、魔を祓い、神と契り、災厄を打ち払ったと伝えられている。
だが、それも遠い昔の話。
この王国においては、“勇者”という言葉すら、もはや童話や伝説の中にしか存在しなかった。
誰もが知っていた。
勇者など、もう存在しないのだと。
剣は錆び、魔法は学問の隅に追いやられ、神は遠ざかり、祈りもまた形だけになった。
それでも人々の暮らしは豊かだった。
港は栄え、市場は活気に満ち、王都サラディアは大陸有数の商業都市として隆盛を誇っていた。
戦争も疫病も遠ざかり、誰もが、今日と同じ明日が来ることを信じて疑わなかった。
そんなある日。
それは、前触れもなく訪れた。
――王都で汝を救う男が、勇者である。
澄み切った朝の空に、雷鳴にも似た声が響き渡った。
それは、二百五十年もの間、誰の耳にも届かなかったはずの“神の声”――神託だった。
港で網を繕っていた漁師たちは、手を止めた。
市場で果物を並べていた老婆も、パンを売る少年も、馬車の御者も、皆が空を仰いだ。
教会の鐘が鳴り、王城では貴族たちが騒然となった。
街は、瞬く間に異様な熱気に包まれた。
「勇者が現れる」
その期待と興奮が、誰もが忘れかけていた古い言葉を蘇らせた。
しかし――神託は奇妙だった。
「救う男」とは誰か。
何を救うのか。
王都の誰も、それを知らない。
剣を抜けとも、魔を討てとも言われていない。
ただ、「救う男」――それだけが伝えられた。
王国は混乱した。
王宮の学者たちは古い書物を引き裂き、過去の神託の例を漁った。
教会の神官たちはひたすら祈り、新たな解釈を模索した。
「勇者? 本当に現れるとでも?」
そんな呟きが、市場の片隅で風に紛れて消えた。
民衆は噂を交わした。
勇者になるのは貴族か、傭兵か、それとも街角の詩人か。
救いとは、命を救うことか、国を救うことか、それとも、もっと別の何かなのか。
解釈は割れ、希望と不安が交錯した。
だが、ただ一つ確かなのは――
神託は絶対である、ということ。
理由は問わない。
真偽も問わない。
信じるか否かではない。
それが、神託というものだった。
神託に“なぜ”を問うことは、風に形を求めるに等しい。
それは理由ではなく、結果として世界に現れるものだからだ。
ゆえに、王国は動いた。
王国教会は、神託を最初に受けた若き神官、エイミー=パーシングを選び出した。
彼女こそが、神託に応える使命を持つ者とされた。
エイミーは、まだ若かった。
漆黒のような黒髪を持ち、真面目で、どこか頑なな少女だった。
柔らかな法衣の裾が風に揺れ、朝の光を受けたその横顔には、ほんのわずかに影が差していた。
それでも彼女の目には、誰よりも強く――そして、痛いほどにまっすぐな“信じる意志”が宿っていた。
誰もが諦めかけた言葉を、彼女だけは信じていた。
子供の頃に読んだ物語の中の“勇者”という存在を、今も夢の続きのように、現実のこととして信じていたのだ。
二人の従者と共に、彼女は王都へと送り出された。
選ばれた者として、誰よりも純粋に、勇者を信じる者として。
けれども――誰も知らない。
勇者とは、何なのか。
救いとは、何を指すのか。
本当に、救われるべきものとは、何なのかを。
民は願った。
勇者が、国を、家族を、自分たちを救ってくれることを。
王は祈った。
勇者が、国の威信を取り戻してくれることを。
教会は誓った。
神の威光が、再びこの地に満ちることを。
しかし、神託は何も教えなかった。
ただ一つ、「救う男」とだけ。
それは、誰でもあり得た。
それは、誰でもなかった。
希望と不安と野心と猜疑が渦巻くなか、物語は、静かに、確かに動き出す。
これは、まだ白紙の物語。
一人の少女が、かつて本で読んだ「勇者」を追い求め、
やがて、本に書かれていない「本物の勇者」を知るまでの――。
そして、誰かが、まだ勇者ではない誰かを選び、
その者が、真に勇者と呼ばれる存在へと変わるまでの――。
そんな物語の、始まりである。
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