第10話 迷宮東西事情と迷宮へのご案内

 迷宮──“ダンジョン”と呼ばれたそれは、まさに一夜にして世界を変えた。


「枯れることなき壺」──その存在が公にされた日を境に、

 人々の目は確実に、そして熱をもって迷宮へと向けられるようになった。

 政府、企業、研究機関、果ては一般市民に至るまで、

 誰もがこの未知の構造物の正体に目を輝かせた。


 だが、ことはそう単純ではなかった。


 世界各国の対応は、大きく二つに分かれていく。

 政府主導か──それとも様子見か。


 たとえば、アメリカ・中国・ロシア。

 これらの大国は迅速に軍事力を投入し、迷宮の周辺を完全に封鎖。

 公的なルート以外での侵入は厳しく制限された。

 迷宮の所有権は国家にあり──と、当然のように主張し、

「まずは安全性を確認する」との名目で調査と独占を進めていった。


 その動きは、軍の装甲車や武装兵たちが迷宮入口を警戒する映像として報道され、

 逆に火に油を注ぐ形で、民間の関心と陰謀論をさらに加速させることになる。


 一方、日本や欧州の一部国家は、曖昧な立場を取り続けた。

 法律の整備、土地の利権、自治体との摩擦、そしてなにより「未知の危険」に対する恐怖。

 議会では派遣の是非が揉めに揉め、一部地域では市民団体による反対運動も巻き起こった。

 結局のところ、“様子見”を選んだ形だ。



 * * *



 やがて、各国がほぼ同時期に、ある重大な共通点に気付く。


 ──迷宮の奥には、“何か”がいる。


 形状や構造はまちまちで、入口からしばらくは無反応なことも多い。

 まるで侵入者の警戒心を解くかのように静まり返った空間。

 だが、一定の深度を超えた瞬間、空気が変わるのだ。


 それは、まるで物語の中のような──


「モンスターの出現」


 実際に最初の被害が出たのは、アメリカ・アリゾナ州。

 赤土と岩柱の景観で知られるモニュメントバレー。

 その観光地の端、岩山のふもとに忽然と現れた迷宮でのことだった。


 内部は、古代遺跡のような複雑な石造りの迷路。

 侵入したのは地元の若者三人。

 スマホ片手に中へ入った彼らは、奥で“動く岩”のようなものに遭遇する。


「──ゴーレム、だった。まさか、って思ったけど……」


 後に唯一無傷で生還した青年が語ったその姿は、

 石で組まれた無機質な巨人──

 拳ほどの目が赤く輝き、重々しく迷宮の廊下を徘徊していたという。


 逃げ遅れた一人は足を踏みつぶされ、重傷。

 それをきっかけに、州警察の緊急対応部隊が出動した。


 迷宮に突入した警官たちの装備は拳銃とショットガン。

 通常の犯罪者に対する装備ではあったが、

 迷宮の“異常性”にはあまりに力不足だった。


「弾は効いてる……はずなんだが、まるで効いてない」


 岩の装甲は銃弾を弾き、撃ち込むたびに鈍く火花を散らすだけ。

 それでも数人がかりで一点集中の銃撃を加え、なんとか倒すことには成功した。


 息を切らせ、汗まみれになった隊員たちが遺したのは、ひとつの言葉だった。


「──あれ、戦車で来たほうがマシだ」


 作戦終了後、迷宮は即座に封鎖指定。

 市民の立ち入りは禁止され、入口には鉄柵と厳重な警備体制が敷かれた。


 それは、政府による“初めての敗北”だったとも言える。

 未知の存在に対し、現代の武力が必ずしも通用するとは限らない。

 それが証明された最初の事例だった。


 そして同時に、噂は現実になった。

 迷宮には、確かに“宝”と“魔物”が眠っているのだと。



 * * *



 ──時を巻き戻す。舞台は、日本・三鷹。


 迷宮の存在が世界中に知れ渡ってから、およそ三か月。

 大国は先を争うように軍や特殊部隊を投入し、迷宮の「存在」を現実のものとして受け止め、調査・管理を強めていった。


 銃声、封鎖、そして“初遭遇”。

 世界はようやく認めたのだ。あの穴の奥に、確かに“異常”があると。


 だが──現代兵器すら通じないかもしれない未知の空間。

 戦闘部隊に続いて派遣されたのは、白衣の集団だった。


「考古学者」「生物学者」「建築工学の専門家」「地質研究員」。

 彼らは武装を解き、データを拾い、そして“何か”を見つけようとしていた。

 なにせ、そこには未知の遺構があり、未知の生物がいて、未知の原理で成り立つ空間が広がっていたのだから。


 各国はそれぞれの「理」で動いた。

 だが、どの国も一致して口にしたのはただひとつ。


 ──「入口から半径100メートルまでは、安全圏である」──


 モンスターも罠も出現しない。

 それは観察による共通見解であり、だからこそ次の段階が始まった。


 そして今、日本政府もまた、世論の高まりと他国の動向に背を押されるように、

 迷宮の“入口周辺”のみの民間開放に踏み切ることとなった。


 * * *


「三鷹迷宮」。

 そう名付けられたそれは、井の頭公園の奥、

 以前は自然観察林として立ち入りが制限されていたエリアに忽然と姿を現した。


 地面を割るように広がった階段、

 苔むした石壁が円状に続く“口”。

 その奥に、昼でも光を拒むような闇がぽっかりと口を開けていた。


 ──抽選制。入場者は、わずか50名。


 当初こそ、治安や安全性に不安の声が上がったものの、

 気づけば応募総数は8万人を超えていた。


 その倍率、1600倍。


 当然、SNSは荒れた。「不公平だ」「コネだ」「八百長だ」といった不満が飛び交い、

 テレビでは昼夜問わず“迷宮ブーム”に沸くコメンテーターたちが騒ぎ立てていた。


 そんな中、俺はポケットからスマホを取り出して画面を見つめる。

 そこに表示されているのは当選通知の画面、「三鷹迷宮 入場許可証」のQRコード。


 集合時間などの注意書きと、何か起きた際の責任を問わない旨の宣誓書へのリンクが貼られている。

 思わず声が漏れた。


「……あの“運:15”、案外バカにできないかもな」


 レベルアップによって上がったステータスでもことさら判別方法のわかりづらい項目だが、

 もしかしたらそれなりの効果があるのかもしれない。



 そんな詮無きことを頭の隅に残しながら、俺は腕時計をちらりと見やった。


 ──そろそろ、集合時間が近い。


 軽く息をついて立ち上がる。

 迷宮という非日常の入り口に向かうには、妙に日常じみた足取りだったが、それでも心の奥はざわついていた。


 集合場所は、迷宮のすぐそば──井の頭公園に面した、少し古びたビルの一階。

 マスコミや野次馬の混乱を避けるためか、日程や時間の詳細は当選者にしか知らされていない。

 おかげで、公園の様子も普段とさほど変わらない。

 とはいえ、どこかざわついた空気も感じなくはない。

 腰の低い撮影スタッフらしき集団や、明らかにカメラを意識した装いの人物が、ベンチや植え込みの影にちらほらと見える。

 中には、探検家気取りなのか、自分たちを中に入れろと喚く集団も目に入る。


(あれが、噂の“探り”ってやつか……)


 深くフードを被り直し、気配を消すように歩く。

 用心に越したことはない。


 建物の前に立つと、ガラス張りの扉の向こうにスーツ姿の男女が二人。

 緊張感が隠しきれず、だが堂々とした立ち姿だ。

 立派な体躯と合わせて、その眼はしっかりと周囲を警戒している。

 目が合った瞬間、まるで防犯カメラに照準を合わされたような感覚に襲われた。


 俺はゆっくりと歩み寄り、声をかける。


「……あの、すみません。迷宮入場の、当選者なんですが」


 声が少しだけ上ずっていた。自覚はある。

 それでも、男のほうは慣れた手つきで読み取り機を差し出してきた。


「ありがとうございます。確認いたしますので、当選コードの画面をこちらにお願いいたします」


 事前に準備しておいたスマホの画面を掲げる。

 黒い読み取り機に画面をかざすと、「ピッ」と軽い電子音が鳴った。


 数秒後、男性の表情がわずかに和らぐ。


「……はい、確認いたしました。イトウ・タケル様ですね」


 うなずく俺に、彼は続ける。


「本日は、11時からの第4回チームとなります。奥に進んでいただいて、二階の『第4』と記載された部屋でお待ちください」


「わかりました。ありがとうございます」


 そう答えて室内へと一歩を踏み出す。

 その瞬間、脇に立っていた女性の視線が、すっと俺をなぞるように動いた。

 表情はほとんど動かさず、警戒の色だけがにじむような目つき。


(……セキュリティ、思ってたよりちゃんとしてるな)


 ドアの向こうには、黒スーツのスタッフたちが忙しそうに行き来していた。

 入ってくる一般人──つまり、当選者を一人ずつ誘導しているようだ。

 空気は静かだが、どこか張り詰めていて、まるで控え室に入った芸能人の気分だった。


 俺も指示されたとおり、階段を上がる。

 コツコツと足音を立てながら、無言の廊下を抜けて二階へ。


「……第4、第4……あった」


 白いドアに、印刷されたA4サイズの紙が貼られている。

 “第4”とだけ、太字で記されたそれを確認し、俺は静かにドアノブをひねった。


 中にはすでに数名の当選者らしき男女が腰を下ろしていた。

 皆、手元のスマホや封筒に視線を落とし、口数少なく時間を潰している。


 俺も空いた椅子に腰を下ろす。



 しばらく静かな時間が流れた。


 時計の針が予定時刻を指す頃には、部屋には十人の姿が揃っていた。

 どこか落ち着かない面持ちで椅子に座る者、そわそわとスマホをいじる者。

 無言の緊張が室内を満たしていた。


 そんな空気を切り裂くように、先ほどビルの入口にいた黒スーツの男女が扉を開けて入室する。

 男の方が一歩前に出て、静かに、しかしよく通る声で語りかけた。


「皆様、本日は三鷹迷宮の入場当選、誠におめでとうございます」


 頭を下げるその仕草は丁寧だったが、無駄のない動きに、場の空気が一段階引き締まった。


「本日、皆様をご案内させていただきますタケウチと申します。

 普段は自衛隊に所属しており、三等陸佐の任を預かっております。

 本日は、皆様の安全確保と迷宮に関する説明を担当いたします。どうぞよろしくお願いします」


 落ち着いた口調に、背筋を正す者が数人。

 タケウチの言葉にかぶせるように、傍らに立っていた女性が、静かにホワイトボードを転がして前へ出た。

 ギシリ、と車輪の音が床に響く。


 ボードには一枚の大判の紙が丁寧に貼られており、そこには小さな文字でびっしりと注意事項が書き連ねられていた。


「すでに皆様の手元にも案内は届いていると思いますが、改めてご説明いたします。

 迷宮という未知の場所に立ち入る以上、確認と共有が重要ですので、最後までご静聴ください」


 そう言って、タケウチは一歩近づき、ボードを指さしながら要点を説明し始めた。


「まず、現在確認されている『安全圏』は、入口からおよそ半径100メートルです。

 しかし、保守的な観点から、50メートル地点にラインが引かれております。

 皆様はこのラインを越えての移動はできません。必ずお守りください」


 彼の声は低く、明瞭だった。

 無駄な強調や感情は含まれないが、軍人らしい規律を帯びていた。


「次に、当選者の数は全体で50名です。

 本日は10名ずつ、5つのグループに分かれての入場になります。

 皆様はそのうちの第4チームに該当します」


 ボードの下に、各チームの時間割らしき表が貼られているのが見えた。


「各入場者には2名の隊員が随行いたします。

 警備や監視、そして緊急時の対応のために、全体ではおよそ40名の部隊が同行します」


 ざわ……と、わずかに場の空気がざらついた。


 ──それほどの警備が必要なのか。

 そんな不安が、目を伏せた誰かの表情にちらりと浮かんだ気がした。


「入場前には、所持品の確認を行います。

 危険物や、それに準ずると判断されたものはすべて没収いたします。

 悪質なもの、例えば模造品の武器や薬品などを持ち込もうとした場合、即時拘束の対象となります」


 その言葉に、数人がさもありなんと頷く。


「また、迷宮内のあらゆる物質の持ち出しは禁止されています。

 これは“石ころ一つ”でも同様です。違反者は例外なく拘束対象となりますので、誤ってでも拾わぬようお願いいたします」


 タケウチは言葉を切ることなく続けた。


「さらに、撮影機材の持ち込みも一切禁止とさせていただきます。

 スマートフォンなども同様に、入場前にお預かりいたします」


 少しざわついた視線が交差する。


「入場時間は30分。それ以内であれば、警備隊員の同行のもと、一定範囲内を自由に移動可能です。

 迷宮という未知の存在を、ぜひその目でご確認いただければと思います」


 説明がひと通り終わったところで、タケウチは一歩下がり、部屋をゆっくりと見渡した。


「何か、ご質問はございますか?」


 沈黙が落ちる。

 誰も口を開こうとしない。

 緊張もあるだろうし、質問して注目を浴びることへの躊躇もあるのだろう。


 やがてタケウチは小さくうなずき、最後の言葉へと移った。


「では最後に、一つだけ、重要な点を繰り返し申し上げます」


 声の調子が、わずかに厳しくなった。


「これより皆様をご案内いたしますが、あくまで“迷宮”という未知の領域に足を踏み入れることになります。

 何が起きるか、どのような事態に巻き込まれるか、政府機関として保証は一切できません」


 室内に、張りつめた緊張が戻ってくる。


「皆様には事前に誓約書をご提出いただいておりますが、あらためてお伝えします。

 万一、不測の事態が発生した場合、我々は実弾を含む緊急措置を講じる可能性があります。

 その結果、皆様が巻き込まれることがあっても、国や自衛隊はいかなる責任も負いかねます」


 静寂。

 その言葉が、空気の中に凍りついたように漂う。


「今この場で、不参加を希望される方がいらっしゃいましたら、どうぞご遠慮なくお申し出ください」


 タケウチの視線が、一人ひとりをゆっくりと見渡していく。


 しかし──誰一人、口を開く者はいなかった。


 そのまま、静かな沈黙だけが続いた。


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