Ⅳ 水盤の秘密

 面接室から出たグブザフは案内人に誘導されて歩いた。

 騎士になると決めてから、支度金を貯めるためになんでもやった。グブザフの名前が「灰色の犬」だと知ったギレン人から、それこそ犬のような扱いをされたこともある。悔しかったけれど、お金をもらえるならと歯を食いしばって耐えた。

 こんなにあっさり希望が断たれるなんて。ロルじいさんや仕立屋のおばさんはどんな反応をするだろう。心苦しくてたまらない。

 案内人の後ろを悄然とついて行くグブザフは、来たときと異なる通路を歩いていることに気づかなかった。

 隠れるように待機していた馬車に乗せられたとき、やっと違和感をおぼえたものの、特に質問はしない。同乗した案内人が優しげな風貌でありつつ妙な威厳を放つギレン人の騎士だったから、というのもあるけれど、単純にしゃべる元気がなかったからだ。

 

 馬車を降りた先は、これまで見たこともない壮麗な屋敷だった。グブザフはぽかんと口を開けて眺める。

 落選者のための宿だろうか。豪華すぎる気はするが、王都の宿の標準がわからないから、なんとも言えない。もしここに泊まるなら、今朝までの宿に預けている荷物を取りに行きたかった。お金はすっからかんだけど大事なものが入っているのだ。

 たとえば、服。

 仕立屋のおばさんがくれたもので、いま着ているものもそうだ。古着だけど破けているところは直されているし、背丈にもぴったり合っている。

 それから、矢尻。

 犬のグブザフの命を奪ったあの矢は、骨の首飾りと一緒に皮剥ぎ屋で受け取った。それ以来ずっと布に包んで持ち歩いている。なるべく見たくないものだけれど、なくしたくはない。

 そんなことを考えながら歩いていると、別世界のような広い部屋に通された。さっきの面接室が三つは入るだろうか。調度品はどれも光り輝いて見えるし、敷物は厚みがあって足が沈む。びっくりして思わず片足を上げてしまった。

 椅子にはクッションがついていた。雲に座れたらこんな感じだろうかと、不合格のショックなど忘れて座り心地を何度も確かめ、きらびやかな部屋を見渡す。

 案内人が「この部屋から出ないように」と告げて出て行くと、入れ代わりに入室した女性がテーブルの上につぎつぎと料理を並べ始めた。


「お召し上がりください」


 こんなに食べきれるだろうか。どうして自分などに豪華な食事を振る舞うのか。

 そうした疑問は料理の美味しさに上塗りされていき、大満足で食べきった。

 食器が片づけられて一人になると、満腹感と静けさとで瞼が重くなる。

 なにかあればすぐ動けるようにしたかったから、椅子に座ったまま目を閉じるだけにした。それなのに、部屋に人が入ってきて対面の椅子に座っても、名前を呼ばれるまでまったく気づかなかった。

 

「疲れていたみたいだね。起こしてしまって悪いが、話があるんだ」


 寝ぼけ眼で見たその人の顔を、グブザフはすぐに思い出した。六人の面接官のうち、唯一のハルンタ人。まさかこんなふうに声をかけられるとは思いもしない。一気に緊張したが、彼の瞳がロルじいさんと同じ焦茶色だと気づいたとたん、ほんの少し気が和らいだ。

 

「楽な姿勢でいいよ。礼を欠いているのはこちらだからね。そのまま聞いてほしい」

「は、はい……」


 彼はにこりと笑みを投げかけ、背もたれに悠然と身を預けて話し始めた。

 

「私はエマシュ・アラニア。王都を守護する三つの騎士団の一つ、黒騎士団の団長を務めている。ここはアラニア家が持つ館の一つで、君は私が招いた客人だ。強引に連れてきてしまってすまないね」

「いえ……あの、だいじょうぶです」

「ではまず、感想を聞きたい。君が試験で見たあの水盤、じつに不思議だったろう?」

「はい。白く濁りました。でも誰も驚いてなくて……なんでって思いました」

「あれも試験でね。あの水盤は人の本質を映し出す。臆病な心、卑劣な精神、嘘つきで不誠実。そういったものに反応する。つまり、心が曇っていて騎士に相応しくないならば、白く濁ってしまうのだ。まやかしではないよ。精霊宝器の一つ、賢者の水盤と呼ばれている。遙か昔、ある男が困っている精霊を助けて、そのお礼に贈られたものだと伝わっている」


 グブザフは息を呑み、弱々しい声で言った。


「じゃあ……ぼくは、嘘つき……」


 精霊を見たことはないけれど、いるはずだとグブザフは思っている。そうでなければグブザフはグブザフという名前にならなかった。

 精霊は失敗などしないという。ならば水盤の判定は真実だ。

 騎士になりたい理由をごまかしたことが原因かもしれない。だけど本当のことを言っても合格できた気はしない。ということは、自分は絶対に騎士になれない。

 絶望的な結論に至って深く落ちこむグブザフの耳に、いたずらを仕掛けるような声音が飛びこんできた。

 

「と、いうことにしてある」


 怪訝な顔をするグブザフに、エマシュはにやりと笑いかける。


「賢者の水盤がまやかしでないことは確かだ。過去の記録でも、血に反応して白く濁る者と、そうでない者がいることが確認されている。だが、」


 そこで言葉を切ったエマシュは、続く言葉を流麗なハルンタ語に切り替えて言い放った。


「騎士の資質を測るというのは、まあ、ただの理由付けだね」

「え?」

「由来も後付けだよ。本当の由来はこうだ。およそ百八十年前、生まれてすぐ精霊にさらわれた王子がいた。王子は精霊に育てられた後、野に放たれ、盗賊に拾われた」

 

 突然の昔話に、グブザフはなぜか父を思い出した。寝たきりだった父が寝台から手を伸ばし、グブザフの頭を撫でたときのことを。

 あのとき父はハルンタ語でなにかを言った。内容はおぼえていないけれど、こそばゆくなった感覚はおぼえている。

 ハルンタ人はギレン語で働き、ハルンタ語でくつろぐという。昼はギレン語で過ごし、夜はハルンタ語で眠るともいう。あるいは、建前はギレン語で、本音はハルンタ語で話すのだとも。

 

「王子はあるとき、お腹をすかせた乞食をかわいそうに思って、食べ物を分けてあげた。その乞食の正体は聖なる賢者でね。彼はお礼として王子にあるものを与えた。そなたに必要なものだ、と言い添えて渡したそれが、あの水盤だ」


 やがて王子は腕に怪我を負い、水盤の水で傷口を洗った。すると水が白く濁り、『この水盤を持って王宮に行け』という不思議な声も聞こえた。かつて共に過ごした精霊の声に似ていたため、無視できずにそのとおりにした。

 その水盤は、国王が賢者に製作を依頼したものだった。消えた王子を捜すため、自分たちの血に連なる者にのみ反応する道具を作ってほしいと。そうしてできた水盤を、王宮に持っていく途中で賢者は王子に与えたのだ。

 事の経緯を聞いた国王夫妻は王子の到着を心待ちにし、ようやく親子は再会を果たす。

 王子は国王となって、国を豊かに導いた。その子孫による王権も盤石であり、国は栄えた。

 

「小刀じゃありませんでしたか?」


 グブザフは困惑気味に口を挟んだ。

 とてもよく似たおとぎ話を知っている。いつもハルンタ語で聞いた物語だったし、エマシュもハルンタ語で話しているから、引きずられるように自然とハルンタ語が出た。


「ぼくが知ってるお話だと、巨人の爪でできた小刀です。神獣の角でできた鞘に収められていて、王族の血筋じゃないと抜けないんです。それで王子だってわかって……」

「ああ、それはまた別の伝説だ。精霊にさらわれた王子とは違う話だね。でも民間では混ざっているのかもしれないな。水盤より小刀のほうがかっこいいからねえ」


 グブザフは首をひねる。

 二つの伝説が混ざった、と言うわりには『水盤』の存在が不自然なほどきれいに消えている。『水盤』が出てくる昔話をグブザフは一つも知らないのだ。

 どうしてなのだろう。

 思いついた答えは、幼名と同じ、ということだった。『賢者の水盤』が国にとって大切な宝物だから、それを隠すために実在しない武器と入れ替えて話を広めた。そう考えれば納得できる。ただ、そうなると……

 視線を感じた。エマシュが真っ直ぐに自分を見つめていることに気づいて、体がこわばる。よけいなことを考えていたから怒らせてしまったのかもしれない。そう思えるほど真剣な眼差しだった。

 謝ろうと口を開きかけたとき、エマシュはなにかを理解したようにふっと微笑んだ。そうしてひときわ重みの増した声で、再び語り始める。

 

「三十年前、ギレン人の侵略を阻止するのが難しくなったとき、私の父は陛下と密談をし、決断を下した。この国を戦場にするくらいなら、先に明け渡してしまえ、とね」


 戦場。

 その言葉を聞いたとたん、グブザフの脳裡に知らないはずの光景がひろがった。馬が嘶き、剣がぶつかり、矢が無数に飛び交って、血飛沫が舞う。誰かの泣き叫ぶ声まで聞こえてきて、鳥肌が立った。


「結果、王族や貴族の一部は命を落としたが、民衆に犠牲は出なかった。民を損なわないこと。これは国王陛下と父との間で交わされた、最後の約束だ。そして父の意志は、アラニア家全体の意志となった」


 グブザフはエマシュから視線を外した。それを引き留めるように声が追いかけてくる。

 

「約束は、それ一つではない」


 再びエマシュを見る。茶色い瞳は熱を帯びて輝き、その奥にちらりと覗くのは、鋭く冷たいなにかだった。


「アラニア家は必ずギレン人の王を廃し、旧王朝を復活させる。ハルンタの民に元の暮らしを取り戻させる。そのための布石を打ってきた。平民が騎士になれる道を開いたのもその一つだ。反発はあったがね。ギレン人の王も貴族も、我々アラニア家を……というより、お金の力を無視できない」

 

 そう言って茶目っ気のある笑い方をする。グブザフは眉根を寄せたが、エマシュは気に留める様子もなく話し続けた。


「賢者の水盤で騎士の資質を見極められると説明し、面接に使うように推し進めたのは私の父だ。精霊との関わりから来ている幼名をギレン人は馬鹿にしているね。だが彼らはけっして精霊を否定しているわけではない。知っていたかい?」


 グブザフがかぶりを振ると、エマシュはにこやかに頷く。

 

「彼らの故郷にも精霊がいるそうだ。もっともこの国の精霊とは違って、子供をさらうことはないらしい。彼らの国の精霊は、非常に特殊で強力な剣を王家に授けたという。それと同じ類いの宝物だと話して説得した、と父は言っていた」


 すっと笑いを収めたエマシュが姿勢を正す。たったそれだけで周囲に氷が張ったような緊張感が漂った。グブザフは身をすくめる。

 

「水盤はアラニア家の秘宝だということになっているが、正しくは国王陛下のもの。三十年前に陛下からお預かりした、王権の象徴だ。この事実がギレン人の耳に入らぬよう、細心の注意を払ってきた。それから、もっと大きな秘密もある。わかるかい?」


 問われたグブザフは顎を引いてエマシュの顔色を窺う。なにも返事はしなかったのだが、エマシュは満足そうに頷いた。


「察しているようだね。そう、ギレン人が与える死から逃れた王族がいる。一人や二人ではないよ。当時の王族は民に愛されていた。側に仕えていた者たちが喜んで身代わりを引き受けたそうだ」


 それは本当にその人たちの意志だったのだろうか。胸に浮かんだ疑問をエマシュの言葉が追い越していく。


「身分を隠した王族をアラニア家でも匿おうとしたが、残されたのは賢者の水盤だけだ。だがそれで充分。ハルンタの王族の血は強く、けっして失われない。たとえ平民と交わろうと、一滴でも王族の血が流れているなら、それを証明できるなら、王族を名乗れる。賢者の水盤は、王族の血の濃さも教えてくれる。どれほどの白さで水が染まったか。白く濁れば濁るほど、王族の血が濃いことを示している」


 グブザフの鼓動が速くなる。知らず視線は床に落ちていたが、ゆったりとした声は遠慮なく耳に滑りこんできた。


「騎士になって、貴族になりたいと言っていたね。騎士は一代限りの貴族だ。だが王族は違う。わざわざ貴族にならずとも、それを飛び越えて王族を名乗れる血を、君は受け継いでいる」


 グブザフは唇を引き結ぶ。首に下げた骨を服の上から無意識に押さえた。

 

「強制はしない。断ってもかまわない。水盤の前に立つ王族の末裔は、おそらく君一人ではないからね。君が先に辿り着いて証明したに過ぎない。だが、だからこそ先んじて選ぶ権利が君にあるのだ。どうか選んでほしい。王族の血を継ぐ者として我々とともにギレン人を追い出すか、今までと変わりなく過ごすか」


 沈黙が落ちる。グブザフは視線をさまよわせ、遠慮がちに口を開いた。


「もし……断ったら? その、こんな重大な話を聞いてしまった、ので……」

「どうもしないさ」


 エマシュはあっさりと、冷たい響きのギレン語に戻して答えた。


「君は元の暮らしに戻るだけだ、グブザフくん。なにも変わらない。たとえ君が誰になにを言おうとね。夜中にどこかで犬の遠吠えが聞こえるのと同じだ。朝には皆、忘れている」


 グブザフは息が詰まるのを感じながら、同じくギレン語で声を絞り出す。


「でも、ギレン人を追い出すなんて……そんなこと本当に、できるんですか?」


 もし失敗したらぼくはどうなるんですかと尋ねたかったのだが、どうにも口に出しづらくて、質問は核心からわずかにずれた。

 エマシュはグブザフと目を合わせて、頼もしげな笑みを浮かべる。

 

「準備を怠らない、とだけ言っておこう。確実な未来などこの世のどこにもない。あるのは、不確実な未来を確実なものにするための努力と、覚悟だけだ。君が玉座を取り戻す覚悟を決めてくれるなら、我々は全力で道を切り拓く。君がその道を堂々と歩く姿を見て、きっとたくさんのハルンタ人が喜ぶはずだ。フィヤン地区の人たちも貧しさから解放してやれる」


 グブザフはゴクリと喉を鳴らした。はい、とも、いいえ、とも言えず押し黙る。


「すぐに答えを出さなくていいよ。今夜は泊まっていくといい。明日の昼に答えを聞かせてくれ」


 温和な口調で語りかけたエマシュは、機敏に立ち上がって扉へと歩き出した。


「あの!」

 

 グブザフは慌てて呼び止める。どんな話よりもまず先に言わねばならないことがあったと、今ごろ気づいて早口になった。


「あの、ごはん、おいしかったです。ありがとうございました」

「ああ、どういたしまして。ちょうど昼食の時間に差し掛かっていたからね。遠慮せず夕食も食べてくれ」

「あ、えっと……ありがとう、ございます」

「そういえば」

 

 ふと気づいた様子でエマシュが尋ねる。


「君の目は灰色なんだね。あまり見ない色だ。ご両親も灰色だったのかな?」

「いえ……ちがったと思います」

「そうかい? 父が言っていたのを思い出したんだが、三十年前に殺された王様も、灰色の目をしていたそうだよ」


 その瞬間、首に下げている骨がかすかに震えたのをグブザフは感じた。

 

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