第9話『濡れた制服の少女』
雨の夜だった。
アスファルトを叩く粒が、風に流されて蛇のようにうねっている。
午後11時──バイト帰り、いつもの坂道を自転車で下っていたそのとき。
ふと、視界の隅に、人影が見えた。
傘も差さずに、じっと立っている──制服姿の女子高生。
*
びしょ濡れだった。
髪もスカートも水を吸って重たそうに垂れている。
肩から滴る水が舗道に小さな水たまりをつくっていた。
こんな時間に、こんな場所で──
その異様さに、自転車のブレーキをかける。
「……大丈夫っすか?」
声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。
白い肌。濡れた前髪の奥から覗く、黒くて大きな目。
どこか“生気のない”表情なのに、その唇だけが、微かに笑っているように見えた。
「……さむい……」
小さくそう言った彼女に、俺は咄嗟に自分のパーカーを脱いで差し出した。
「とりあえず、うち来ます? 近いんで……」
自分でも、なんでそんなこと言ったのかよくわからなかった。
でも、少女はすぐに、こくんとうなずいた。
「……はいって、いい……?」
そのとき、背筋がなぜか、ぞわりとした。
けれど、俺はそのまま少女を自宅アパートの部屋に連れて帰った。
*
タオルを渡し、ドライヤーを差し出し、温かい缶コーヒーを手渡した。
少女は、ほとんど何も喋らなかった。
ただ、濡れた制服を脱いでパーカーに着替え、ソファに小さくうずくまる。
その体からは、どこか妙に甘い匂いが漂っていた。
……花のような……いや、芳香剤のような、人工的で、甘ったるい香り。
「名前とか……学校、どこ?」
「……わかんない」
「……家は?」
「……思い出せない……」
質問するたびに、少女は曖昧に笑うだけだった。
*
そのまま、夜が更けた。
俺がベッドに入り、灯りを消すと、いつのまにか彼女も布団に潜り込んできた。
「ちょ、ちょっと待って……」
「さむいの、やだ……ぬくもり、ほしい……」
その声があまりに寂しげで、俺は拒めなかった。
濡れた髪が首筋に触れるたび、背中に鳥肌が立った。
けれど、彼女の体はふるえていて、肌はとても冷たくて──
俺はそっと、彼女の肩を抱いた。
しばらくの間、ふたりは何も言わずに、ただ静かに寄り添って眠った。
……はずだった。
*
朝。目覚めると、彼女の姿は消えていた。
玄関の鍵は内側からかかったまま。窓も閉じられている。
そして、部屋の隅に──
昨日、少女が着ていた制服だけが残されていた。
それは乾いていたが、触れた瞬間、俺の指が凍えるほどに冷たかった。
さらに、制服の襟元から、白く濁った液体のようなものがにじんでいた。
甘い香りはそのまま。
けれど、その香りの奥に、生臭さが混じっていた。
ぞくり、と寒気が走った。
(……あれ、本当に“人間”だったのか……?)
*
だが、それだけでは終わらなかった。
その夜。
布団に入ると──
また、彼女がそこにいた。
髪は濡れたまま。制服も着ていない。
裸に、俺のパーカーだけをまとって、布団に潜り込んできた。
「……会いにきた……また、ぬくもり……ほしい……」
指が俺の胸を撫でる。
冷たい。だけど、肌は柔らかくて、反応してしまう自分がいた。
「おまえ……誰なんだよ……」
問いかけても、彼女は微笑むだけだった。
「……ここ、落ち着くの。……ここにいれば、ずっといられる……」
*
翌日、怖くなってネットで調べた。
「〇〇町 女子高生 行方不明 雨」
ヒットしたのは、6年前の記事だった。
【帰宅途中の女子高生、雨の夜に行方不明】
【目撃証言:傘も差さずに濡れたまま歩いていた】
【遺体は見つからず、制服だけが川岸に流れ着いた】
【性的いたずらの痕跡が残されていた疑いも】
……その制服の写真は、俺の部屋に置き去りにされたものとまったく同じだった。
*
今も彼女は、夜になると布団に入り込んでくる。
何も言わず、ただ静かに寄り添い、
ときどき、俺の首筋を舐めるように、濡れた髪で肌をなぞってくる。
「……まだ、ぬくもり……もらってもいい……?」
あの夜、彼女を“拾ってしまった”ときから、
俺は、もう独りで眠ることができなくなった。
生きているか、死んでいるかすらわからない少女と──
“毎晩、添い寝している”という、現実と共に。
【完】
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