第9話『濡れた制服の少女』

雨の夜だった。

アスファルトを叩く粒が、風に流されて蛇のようにうねっている。

午後11時──バイト帰り、いつもの坂道を自転車で下っていたそのとき。


ふと、視界の隅に、人影が見えた。


傘も差さずに、じっと立っている──制服姿の女子高生。



びしょ濡れだった。

髪もスカートも水を吸って重たそうに垂れている。

肩から滴る水が舗道に小さな水たまりをつくっていた。


こんな時間に、こんな場所で──

その異様さに、自転車のブレーキをかける。


「……大丈夫っすか?」


声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。


白い肌。濡れた前髪の奥から覗く、黒くて大きな目。

どこか“生気のない”表情なのに、その唇だけが、微かに笑っているように見えた。


「……さむい……」


小さくそう言った彼女に、俺は咄嗟に自分のパーカーを脱いで差し出した。


「とりあえず、うち来ます? 近いんで……」


自分でも、なんでそんなこと言ったのかよくわからなかった。

でも、少女はすぐに、こくんとうなずいた。


「……はいって、いい……?」


そのとき、背筋がなぜか、ぞわりとした。


けれど、俺はそのまま少女を自宅アパートの部屋に連れて帰った。



タオルを渡し、ドライヤーを差し出し、温かい缶コーヒーを手渡した。

少女は、ほとんど何も喋らなかった。


ただ、濡れた制服を脱いでパーカーに着替え、ソファに小さくうずくまる。


その体からは、どこか妙に甘い匂いが漂っていた。


……花のような……いや、芳香剤のような、人工的で、甘ったるい香り。


「名前とか……学校、どこ?」


「……わかんない」


「……家は?」


「……思い出せない……」


質問するたびに、少女は曖昧に笑うだけだった。



そのまま、夜が更けた。


俺がベッドに入り、灯りを消すと、いつのまにか彼女も布団に潜り込んできた。


「ちょ、ちょっと待って……」


「さむいの、やだ……ぬくもり、ほしい……」


その声があまりに寂しげで、俺は拒めなかった。


濡れた髪が首筋に触れるたび、背中に鳥肌が立った。


けれど、彼女の体はふるえていて、肌はとても冷たくて──

俺はそっと、彼女の肩を抱いた。


しばらくの間、ふたりは何も言わずに、ただ静かに寄り添って眠った。


……はずだった。



朝。目覚めると、彼女の姿は消えていた。


玄関の鍵は内側からかかったまま。窓も閉じられている。


そして、部屋の隅に──

昨日、少女が着ていた制服だけが残されていた。


それは乾いていたが、触れた瞬間、俺の指が凍えるほどに冷たかった。


さらに、制服の襟元から、白く濁った液体のようなものがにじんでいた。


甘い香りはそのまま。

けれど、その香りの奥に、生臭さが混じっていた。


ぞくり、と寒気が走った。


(……あれ、本当に“人間”だったのか……?)



だが、それだけでは終わらなかった。


その夜。


布団に入ると──

また、彼女がそこにいた。


髪は濡れたまま。制服も着ていない。

裸に、俺のパーカーだけをまとって、布団に潜り込んできた。


「……会いにきた……また、ぬくもり……ほしい……」


指が俺の胸を撫でる。


冷たい。だけど、肌は柔らかくて、反応してしまう自分がいた。


「おまえ……誰なんだよ……」


問いかけても、彼女は微笑むだけだった。


「……ここ、落ち着くの。……ここにいれば、ずっといられる……」



翌日、怖くなってネットで調べた。


「〇〇町 女子高生 行方不明 雨」


ヒットしたのは、6年前の記事だった。


【帰宅途中の女子高生、雨の夜に行方不明】

【目撃証言:傘も差さずに濡れたまま歩いていた】

【遺体は見つからず、制服だけが川岸に流れ着いた】

【性的いたずらの痕跡が残されていた疑いも】


……その制服の写真は、俺の部屋に置き去りにされたものとまったく同じだった。



今も彼女は、夜になると布団に入り込んでくる。


何も言わず、ただ静かに寄り添い、

ときどき、俺の首筋を舐めるように、濡れた髪で肌をなぞってくる。


「……まだ、ぬくもり……もらってもいい……?」


あの夜、彼女を“拾ってしまった”ときから、

俺は、もう独りで眠ることができなくなった。


生きているか、死んでいるかすらわからない少女と──

“毎晩、添い寝している”という、現実と共に。


【完】

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