影姫綺譚:雪に咲く白椿 ―上杉謙信と名もなき姫の継承譚―
五平
第1話 雪解けの目覚め、神の残響
神は人となった。それは名なき契りのため。
白椋とは、雪が落ちるたびに目覚める記憶。
誰かの祈りが、名もなく咲く樹──。
永い眠りから覚めたかのように
雪が陽光に溶け
雫となって大地に染み込む
その水滴の一つ一つが
凍てついた記憶を呼び覚ますかのようだ
遠くの山々には
陽光を浴びて白く輝く
一本の白椋の木が立つ
その枝は天を指し
まるで世界の始まりから
そこに存在し続けたかのように
男は冷たい雪の中で目覚めた
全身を襲う倦怠感と
どこか遠い場所から響くような頭痛
自分が何者なのか
どこにいるのか
まるで靄がかかったように思い出せない
ただ胸の奥に
ある一つの名だけが刻み込まれていた
「……綾丸」
それは自分の名なのか
それとも失われた誰かの名なのか
名が彼の心を揺らすたび
幻影がちらつく
白い椿
それだけが
彼の意識を現実へと繋ぎ止める
唯一の光だった
身体を起こそうとすると
酷使されたかのように全身が軋む
まるでこれまで自分の身体ではなかったかのような
奇妙な違和感が彼を包み込む
薄い衣一枚の身に
冷気が肌を刺し
雪の深い匂いが鼻腔を満たす
視線を彷徨わせると
あたり一面
白い雪に覆われた山々が
連なり
どこまでも続いている
彼はゆっくりと立ち上がった
足元から伝わる雪の冷たさが
わずかながら意識を覚醒させる
しかし記憶の欠落はあまりに深く
自分がなぜここにいるのか
ここがどこなのか
一切の手がかりもない
ただ確かなのは
生きているという感覚と
そして胸に去来する
得体の知れない
喪失感だけだった
まるで大切な一部が
ごっそりと抜き取られたような空虚感
その喪失感が
なぜかひどく
心地よいようにも感じられた
自分が何かを終え
そして何かが始まった
そんな漠然とした感覚が
彼の心を支配する
風が吹き
雪が舞い上がる
その中に
かすかに鈴の音が混じるように感じた
耳を澄ませるが
それはすぐに消え去り
再び静寂が訪れる
彼は空を見上げた
鉛色の空から
雪がちらちらと舞い落ちてくる
雪はただ落ちてくるのではなく
まるで何かを囁きかけるかのように
彼の頬をそっと撫でては消えていく
その白い結晶の一つ一つが
記憶の断片であるかのように
彼の心に微かな波紋を広げる
しかしそれはすぐに消え去り
何も残らない
その時
遠くの雪原に
人影のようなものが動いたのが見えた
男は思わず身を固くする
本能的な警戒心が
彼の全身を駆け巡った
自分が武器を持たないこと
身を守る術がないことに
無意識のうちに気づく
しかしその人影は
彼に気づいた様子はなく
ゆっくりとこちらに近づいてくる
近づくにつれて
それが数人の人であることを認識した
彼らは
冬の装束に身を包み
腰には刀を差している
武士であろうか
男は身を隠すこともせず
ただそこに立ち尽くした
記憶がない
自分が何者か分からない
ならば
彼らに接触するしかない
そう本能的に判断した
彼らの目が
彼を捉えた瞬間
その足が止まる
彼らは警戒しながらも
ゆっくりと男に近づいてきた
その中の一人が
恐る恐る口を開く
「おお…これは、謙信公…?」
その言葉に男は戸惑った
謙信公
それが自分の名なのか
それとも
別の誰かの名なのか
彼の心に
新たな疑問が生まれた
しかしその言葉は
どこか遠い過去から響くような
ひどく懐かしい響きを持っていた
まるで自分が
その名を
永い間待ち続けていたかのような
不思議な感覚
男は言葉を発することなく
ただ彼らを見つめ返した
彼らの顔には
驚きと安堵と
そして深い悲しみが混じり合っていた
彼らはすぐに
男の元へと駆け寄り
その体を支えようとした
一人の武士が
男の顔を覗き込み
震える声で尋ねた
「謙信公…ご無事でございましたか…
皆様、どれほどご心配されたか…」
彼らの目に宿る真摯な光に
男は偽りがないことを感じた
しかし彼が「謙信公」と呼ばれることに
やはり違和感が拭えない
自分の内側に響くのは
あくまで「綾丸」という
小さな響きだけだ
それはかつて
彼の影に寄り添った者が
どんな運命にも屈せず捧げた名だった
「……会いたい」
心に浮かんだ想いに
自分自身が驚いた
彼は彼らの手を借りて
よろめきながらも立ち直った
その時
彼の脳裏に白い椿の幻が
鮮明によぎった
その椿は
かつて契約を交わした姫の面影を宿し
彼の失われた過去と
自らが「影」として存在していたという
漠然とした記憶の扉をわずかに開く
過去の自分と周囲の期待との乖離に
戸惑いながらも
なぜか越後の雪景色に
抗いがたい安らぎを覚える
白い椿は、綾姫の愛が顕現した姿
その椿の幻が
彼に語りかけてくるようだった
*その白い椿は、彼が遠い過去に交わした、ある「契り」の残滓のように、彼の魂に触れた。*
「…契り…」
男の唇から
かすかにその言葉が漏れた
しかしその言葉は
誰にも届くことはなかった
武士たちは
彼を心配そうに見つめ
「お疲れでございましょう」
と声をかける
その声に
男は自分が
ひどく疲労していることを
自覚した
まるで遠い戦場から
ようやく戻ってきたかのような
肉体の疲弊
しかし彼は戦った記憶を持たない
では
この肉体は誰のものなのか
この疲労は誰のものなのか
疑問が渦巻くが
答えはどこにもない
武士たちは
彼を囲むようにして歩き始めた
雪を踏みしめる音が
静寂の中に響き渡る
彼らは彼を
丁重に扱っている
その様子に
自分が彼らにとって
重要な存在であることを悟った
しかし彼が
その「謙信公」という名に
どのような責任を負っているのか
彼はまだ知らない
ただ
彼の魂の奥底で
遠い記憶の残響が
静かに響いている
それは
これから始まる
物語の始まりの音だった
そして
その契りが
どれほどの重みを持つのか
彼はまだ知る由もなかった
雪は降り続く
彼の足跡を
静かに覆い隠しながら
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