11-2 薄氷の恋

 re: 十二月十一日


 文化祭の熱気がまだ冷めきらない教室は、いつもより少し浮き立っていた。机の上には片付けきれなかった小道具の残骸が転がり、紙吹雪の切れ端やガムテープの跡があちこちに残っている。黒板の隅には「最高!」とか「ありがとう!」なんて落書きがまだ白く残り、昨日の喧騒をそのまま封じ込めたみたいだった。


「ねぇユウヤ、アンタの顔、やばかったよ!」

 カレンがいきなり声を上げる。箸を止めたユウヤが「は? なんの話だよ」と眉をひそめた瞬間、彼女は得意げにスマホを掲げてみせた。


「ほらこれ!」


 わっと数人が集まり、覗き込んだ途端に笑いが弾けた。

 画面には舞台のクライマックスシーン。イオリ君と私が手を取り合った瞬間――その後ろで、ユウヤが口をぽかんと開けて、完全に見とれている姿がしっかり映っていた。


「ちょ、やめろって!」

「主演より目立ってんじゃん!」

「しかも完全に観客モード!」


 矢継ぎ早に飛んでくる声。ユウヤは耳まで真っ赤にして手を振るけれど、カレンはお腹を抱えて机に突っ伏して笑い続ける。周りもつられて笑い、教室の空気は一気に文化祭の延長戦みたいに賑やかになった。


「ほんと漫画みたい」

 輪の中にいたヒナが、笑いを堪えきれずに小さくつぶやく。その声は軽やかだったけれど、私の視線は彼女の横顔に釘付けになった。

 ふっと春樹君の方を見て、ほんの一瞬だけ目を伏せる。その小さな仕草を、私は見逃さなかった。春樹君は知らん顔でノートをめくっていたけれど――気づいている。気づいていながら、あえて言葉にしないでいるのだと、なぜか確信できた。

 そんな二人の間に漂う甘酸っぱい空気が、私の胸をきゅっと締めつける。


 ――そのとき。


〈警告:世界線同化率80% 臨界値70%へ接近〉


 冷たい電子音が、頭の奥で低く響いた。思わず息を止める。昨日までは83%だった。下がった理由は、きっと春樹君とヒナが近づいたから。本来の「私と春樹君」という線が少しずつ逸れ始めているのだと、数字が告げている。


 胸の奥がぎゅっと掴まれる。世界が少しずつ壊れていくようで、怖い。けれど同時に、ほんの少しだけ安堵している自分もいた。

 笑い声が重なり合う教室。みんなが昨日の舞台の話で盛り上がっているのに、私の心は別の場所を探していた。


 ――イオリ君。


 窓際の席で、静かにノートを開いている彼。賑やかな輪の中にいながらも、どこか別の世界にいるようで、光に縁取られた横顔がひどく遠く感じた。ページをめくるその仕草ひとつまで目を追ってしまう自分が、少し情けなくなる。


 思い出すのは、昨日の舞台のクライマックス。

 彼と手を取り合った瞬間、指先から伝わった確かな熱。演技のはずなのに、芝居の境界線なんて一瞬で溶けて、心臓が張り裂けそうなくらいに高鳴った。あの手の温もりを知ってしまったから、もう簡単には忘れられない。


 そして、もっと前――横断歩道で彼に名前を呼ばれた日のこと。

 短い言葉ひとつ。それだけなのに、今も心の奥底に深く残っている。あの日からずっと、私は彼の何気ない仕草ひとつに振り回されている。


 近づいているのか、それとも私が勝手にそう思いたいだけなのか。確かめるのは怖い。

 けれど、昨日ほんの一瞬、彼の頬が赤く染まったのを私は確かに見た。それだけで、世界が少し明るくなった気がした。


 ……それでも。

 タイムリミットは、確実に迫っている。あと十三日。考えれば考えるほど胸が痛むのに、願わずにはいられない。


 もし運命を変えられるなら、私は何を願うんだろう――と。


【美月の日記 12月11日】


 文化祭の熱気は終わったはずなのに、心の中はまだ静かにざわめいている。みんなが笑っていて、私もその輪にいながら笑っている。


 でも、気づけばまたイオリ君のことを探してしまう。昨日の舞台で手を握ったときの感触が、まだ離れない。芝居の一部のはずなのに、あんなに胸が熱くなったのは初めてだった。


 世界線同化率が80%に下がったって警告が響いたとき、怖いと思った。もう元には戻れないかもしれないって。運命がまた少しずれたんだってわかった。春樹君とヒナが近づいたからだけじゃなくて、私のイオリ君への想いも、きっとその数字を動かしてる。でも、ほんの少しだけ嬉しいとも思ってしまった。

 だって、ズレていく線の先で、イオリ君と心が通じ合えるかもしれないから。


 もし、ほんの少しでもいいから、この世界でイオリ君ともう少し一緒にいられたら――そんな小さな願いを、心の奥でそっと抱いてる。

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