3-3 予測できない心の距離

十月一日 朝、教室


 十月に入り、秋の気配が教室にも漂い始めた。窓の外には薄曇りの空が広がり、微かに乾いた風がカーテンを揺らしている。


朝のホームルーム。担任の辰巳先生が教卓に立ち、プリントの束を手にしたまま話し始めた。


「はい注目。来週の水曜日から、中間テストが始まるぞー。範囲はこのプリントにまとめてあるから、ちゃんと確認しとけよ。後は、文化祭も控えてるから委員長の飯田中心に何やるかまとめるように」


教室中が一気にざわつく。


「マジかよ、来週って早すぎ!」

「全然準備してないんだけど……」

「今からやって間に合うの?」


そんな声の中、一際大きく響いたのはクラスのお調子者、田中孝介だった。


「先生ーっ! 一之瀬と東雲は大丈夫なんすか? 転校生って、テスト勉強間に合ってないんじゃない?」


クラスがどっと笑いに包まれる中、先生は半笑いで肩をすくめる。


「確かに転入時期は不利かもしれんが……この二人は、転入試験でけっこうな点数叩き出してたぞ。正直、お前よりはよっっぽど大丈夫そうだ」


「うわっ、公開処刑……!」


孝介が机に崩れ落ち、周囲が笑い声に包まれる。


その後ろで、美月がヒナと顔を見合わせながらため息をつく。


「やばい……英語も数学もボロボロなんだけど」


「私もピンチ……誰か教えてほしいよ〜」


ユウヤが苦笑しながら頭をかく。


「俺も赤点の予感しかない。誰か助けてくれ……」


そんな中、カレンがさらっと言った。


「私はたぶん大丈夫かな。理系科目は好きだし、去年と傾向似てるから」


「えっ、カレンって頭良かったんだ……!」


ヒナが驚いた声をあげると、カレンは胸を張るように言う。


「そりゃあもう、見た目に騙されちゃだめよ? 私、才・色・兼・備なんだから」


そこで、美月がふと顔を上げる。


「じゃあさ……今度、うちで勉強会しない? みんなでやれば、集中できるかもしれないし。イオリ君とハルキ君も呼ぼう!」


「いいね! それなら分かんないとこも聞けるし!」

「美月んちってどこだっけ? 地図送ってー」

「俺も参加するわ。ノート貸してくれー!」


次々とヒナ、カレン、ユウヤの賛同の声が上がり、既存のグループLINEに「勉強会@美月ん家」の予定が立っていった。

イオリと春樹は半ば強制的な参加になり。


あっという間に、メンバーは6人になった。


 土曜日の午後。美月の家のリビングに、低めのテーブルを囲む6人の姿があった。

ヒナ、ユウヤ、カレン、春樹、イオリ、美月。


ノートや参考書が散乱し、テーブルの上はまるで小さな図書館のようだ。


「はぁ……無理……英語の長文読解、まったく意味わかんないんだけど」


ヒナが頭を抱えると、すかさずイオリが横からノートをのぞき込む。


「ここ、助動詞の後に動詞の原形を使うんだ」


「えっ、すごっ! 一之瀬くん、めっちゃ教え方うまい!」


「イッチーやるじゃん」向かいに座るユウヤの声。


「イッチー?」


イオリが首をかしげると、ユウヤが笑いながら割って入る。


「だって一之瀬って長いじゃん。イッチーの方が呼びやすいだろ?」


「……まあ、いいけど」


口元がわずかに緩むイオリ。その様子に、ヒナが嬉しそうに笑った。


一方、ユウヤは英語のプリントを前にため息をついていた。


「うーん……この時制って現在完了?」


「違う。これは過去完了形。文脈で判断しないと」


カレンがさっと解説し、ノートに丁寧にポイントを書き足していく。


「なんか……カレンってほんと頼れる先生だよな」


「でしょ? 将来は家庭教師とかしようかな」


その隣、美月と春樹が一冊の問題集を見ながら楽しそうに話している。


「この数列の問題さ、式の変形で詰まったんだけど……」


「あ、それはこういう風に整理すると楽かも」


「えっ、ハルキ君めっちゃ凄いじゃん」


美月が身を乗り出し、春樹のノートに指を差す。近い距離に、イオリがふと視線を落とす。


(……幼馴染、か)


言葉に出すことなく、視線だけがその光景に向けられる。




 夕方、美月の母が用意してくれた夕飯をみんなで囲み、笑い声の絶えない時間が過ぎた。


そして、玄関先。


「今日はありがと。また勉強しようね!」


美月が笑顔でみんなを見送る。


「うん、次はテスト前日にでも! また連絡するー!」


ヒナが手を振りながら先に出ていく。


「ユウヤ、ノート忘れてる」


カレンが軽くつつき、ノートを渡すと、


「お、サンキュー。まじ助かるわ〜。じゃあ、また明日な、イッチー!」


とイオリに向かって指を振る。


「……その呼び方は……まあ、いいか」


イオリはわずかに眉を下げながらも、口角を少しだけ上げる。


「呼びやすいって、大事だろ?」


ユウヤは気にせず、カレンと並んで歩いていった。


最後に春樹が靴を履き、玄関の扉を開ける。


「今日はありがと、美月。おかげでだいぶ進んだよ」


「こちらこそ、来てくれて嬉しかったよ。じゃあ、気をつけてね」


美月がそっと手を振る。


玄関の外に出た春樹を、数秒後に続いたイオリが追う。

二人並んで住宅街を歩き始めた。


しばしの沈黙ののち、春樹がぽつりとつぶやく。


「……一之瀬、お前ってあんま感情出さないよな」


「……そうかもしれない」


「でも、今日ちょっとだけ顔に出てた」


イオリは歩きながら、ちらりと春樹を横目で見る。

春樹は口元にかすかな笑みを浮かべ、前だけを見つめていた。


「……美月と、仲良さそうだったな」


「まぁ、幼なじみだからな。でも今の美月は……なんか前より、なんか楽しそうだよ」


イオリは言葉を返さず、ほんの少しだけ視線を伏せる。


春樹が続ける。


「お前、何考えてんのか分かんないって言われるタイプだろ?」


「……そうかもな」


「でも、今日の表情でちょっと分かった気がしたよ」


そう言って、春樹はにやりと笑う。

イオリは反応せず、わずかに首を横に振っただけだった。


「一之瀬、実は俺さ…いや、やっぱなんでもない」

「…そうか」

意味深な春樹の言葉が少し気になった。

街灯がぽつりぽつりと灯り始める帰り道、二人の影が並んで伸びていた。


──それは、どこか微妙な距離を保ちながらも、交わり始めたふたりの心の形のようでもあった。



【任務報告書】


任務日:2025年10月1日

記録者:一之瀬イオリ

対象:白波美月(17歳/高校生)

任務内容:保護対象の観察・対人関係の動向確認

任務コード:T-2025-Operation-α


【観察メモ】

• 中間テスト告知を契機に、学内交友関係が活性化。

• 対象を含む6名(生田ヒナ、高橋ユウヤ、三好カレン、東雲春樹、一之瀬イオリ、白波美月)で自主勉強会を実施。

• 美月の家庭環境・人間関係ともに安定状態。

• 春樹との距離は物理的・心理的に近く、観察者として要注意。


【主観的所感】

• 対象と春樹の関係性が観察者の心理に影響を及ぼしつつある。

• 感情干渉レベルは上昇(前回:3→4.2)。

• 教室外での協調行動(共同学習)を通じ、対象の表情・感情変化が顕著。


【補足事項】

• 対象からの直接的関心の表出は未確認。

• 観察記録の正確性維持のため、感情制御機能の再調整を提案。

• 次回観察は春樹との今後の動向に留意しつつ実施予定。


【未提出用・自由記載欄】

…美月笑ってた。

ノートに夢中で、楽しそうに。

みんなで問題集を囲んで、肩を寄せて——


あの表情を見ると、正直、揺れる。

「この未来を守りたい」って言葉が、どこかで「この時間を壊したくない」に変わりそうで怖い。

そんなふうに思った。


俺は任務をこなしている。使命を果たすためにここにいる。

でも、その使命が、彼女の“今”を脅かすものだとしたら……俺は、どうすればいい?


春樹が言っていた。

「今の美月は、前より楽しそうだよ」って。


もしそれが俺のせいだとしたら——

俺は、存在していていいのか?


それとも。


俺が、守るって決めたんだろ。

なら、最後までやり遂げろ。


……この感情は、未来に持って帰れない。

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