第2章~近づく距離~

2-1 買い物袋とブランコと、君のまなざし

九月三日 放課後


 学校での授業を終え、イオリは通学路を歩く。夏の香りはまだ残っているが、街に吹く風からどことなく秋の気配を運ぶ。


 未来では温暖化が進み、季節の変化をあまり感じられなくなった。四季を感じるこの瞬間が、少しだけ羨ましく思えた。


 本来なら自宅に真っすぐ帰るつもりだった――だが今日は遠回りをして帰る。この街の喧騒や、現代の人の営み。来る災害で消え去ることを知っているからこそ、記憶に留めておきたい。そう思ったからだ。


 近所のスーパーに差し掛かった時、美月から届いた昨日のメッセージを思い出した。


「ゴハンちゃんと食べたほうがいいよ!未来人くん!」


「……調査の一環だ」そう呟き、店内へ入る。


 新鮮な野菜が並べられたコーナー、総菜売り場で悩む主婦、親にお菓子をねだる子供。食糧が厳しく管理された未来では見ることができなかった、過去の煌めきがそこにはあった。ふと立ち止まったイオリの目に、棚の端に置かれた惣菜のパッケージが映る。


 「肉じゃが」――聞き覚えのある名前だった。たしか、昨日屋上で美月が話していた、料理のひとつ。


 そのとき、背後から聞き慣れた声が聞こえた。


「……あっ! 一之瀬くん?」


 振り向けば、制服姿の美月がレジ袋を手にして立っていた。軽く息を弾ませながら、こちらに駆け寄ってくる。


「えっうそ、また会えた! 昨日も一緒に帰ったのに、こんな偶然ってある?」


 頬を紅潮させた美月の顔には、驚きと、それ以上に嬉しさがにじんでいた。


「買い物とかするんだ? 意外〜! なんか、お菓子ばっかり選んでるイメージあった」


 イオリは、咄嗟に言い訳の言葉を探す。


「……調査だ。あらゆる文化的資料の収集を任されている」


「はは、それっぽい言い方。つまり、お腹すいて寄ったってことね?」


 笑う美月に、イオリは言い返せずに目をそらす。


 レジを出たところで、自然な流れのように一緒に並んで歩き始めた。美月が持っていた袋の中には、インスタント味噌汁や牛乳、冷凍チャーハンが見えた。


「お母さん、今日は仕事だから、ちょっとだけおつかいね。あ、そうだ。一之瀬くん、これからヒマ?」


「特に予定はない」


「じゃあさ、ちょっとだけ寄り道しない? この近くにね、いい公園があるんだ」

その誘いに、一瞬だけイオリは迷った。だが――


(任務の接近として不自然ではない。対象の観察を続けるには好機だ)


 そう判断し、小さく頷いた。


 公園へ向かう道は、住宅街の中を抜ける細い歩道だった。アスファルトに落ちる夕陽が、足元の影を長く伸ばしている。蝉の声がわずかに残り、秋の虫がその隙間を埋めるように鳴いていた。


「このあたり、昔からあんまり変わってないんだよ。小学生の頃、よく走り回ってたよ」


 美月がふと足を止め、指を差した先には、古びた時計屋があった。ショーウィンドウには振り子時計やゼンマイ式の目覚まし時計が並び、ガラス越しにゆっくりと時を刻んでいる。


「ここね、おじいちゃんに連れられて来たことがあるの。音が心地よくてさ、時間が止まってるみたいに感じたんだ」


 イオリはしばらく無言で、そのガラス越しの景色を眺めていた。未来には、こうした「思い出」を手にする場所がほとんど残っていなかった。


 やがて公園に着くと、美月はベンチに買い物袋を置き、迷いなくブランコに向かった。ギシリ、と金属の軋む音がする。夕陽がちょうど背後から差し込んで、彼女の影が地面に細く伸びた。


「……こういう時間ってさ、特別だと思わない?」


 揺れながら、美月はぽつりと言う。


「風が涼しくなって、空がちょっとずつオレンジになっていく感じ。なんにも言わなくても、ただ一緒にいられると落ち着くんだ。そして今日は日記に、転校生と遭遇!ってかけるかな」


 イオリはベンチに腰を下ろし、その言葉を静かに受け取る。目の前で揺れる美月の髪が、夕陽に照らされて柔らかく光っていた。


「……君は、毎日を記録しているのか?」


「え? うん、日記の事? 小さい頃から書いてるよ。癖みたいなもんだけど、読み返すと、なんだか面白いよ。今朝どんな夢見たとか、明日何を食べたいとか。つまんないことばっかりだけど」


 イオリはその答えに、どこか胸の奥がざわつくのを感じた。 

未来において「記録」はすべてデジタルで、効率的で、無味乾燥だ。感情の揺らぎが残るような記録方法など、非効率として排除されていた。


 だが美月の語る「日記」は、無駄で、無意味で、しかし確かに彼女という存在の時間を刻んでいた。


「……それは、残すためか?」


「ううん。忘れるため、かな」


「…え?」

思いがけない言葉だった。


「全部覚えてたら、つらいことまで引きずっちゃうでしょ? でも書いておけば、安心して忘れてもいい気がするんだ」


 イオリは小さく息を飲んだ。未来にはない考え方。けれど、それが妙に心に響く。


 そのとき、遠くから声が聞こえた。


「おーい、美月ー!」


 明るくはじける声。振り向けば、三好カレンが公園の入り口に立っていた。制服の上にパーカーを羽織り、スマホを片手に笑っている。


「えーなーに? 放課後デート? ブランコで青春してんじゃーん!」


「ち、違うよ! たまたまだって!」


「ふーん? そういうの、だいたい嘘だよねー。……ま、じゃましないで帰るけど。お幸せに〜!」


 カレンはニヤニヤしながら、手を振って去っていった。去り際、「いいなぁ」とぽつりと呟いたのが、イオリには聞こえた。


「……ああいうの、ほんと困る」


 美月が頬を赤らめて言った。照れ笑いがこぼれて、イオリの胸にまた何かが灯る。


 夕暮れの空が、だんだんと紫に染まり始めた。


「……一之瀬くん」


「……なんだ?」


「来てくれて、嬉しかったよ。偶然でも、ね」


 イオリは一瞬だけ彼女の顔を見る。その視線が、言葉よりも多くを語っていることに、まだ気づくには早かった。


 彼はそっと立ち上がる。


「……そろそろ、帰ろうか」


「うん。帰ろっか」


 並んで歩き出す二人の影が、ゆっくりと夜の街に溶けていった。

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