5-4 夢の中
やがて。
「見て」
少女の声が耳に届き、蓮は顔をあげた。
赤い着物を纏った少女が、蓮の前に立っていた。その指が、空の一点を指した。
「ほら、あそこ」
空は真っ黒な雲に覆われていた。
だが、その分厚い雲が裂け、その向こうから光が差し込んでいる。眩しくて、みていられない程の青空。
たった一週間のことなのに、何年も見ていなかったかのように懐かしい、青く、澄んだ空。
「あ……」
あまりの眩しい青色に、ぽかん、と口を開ける蓮。
そんな蓮に、赤い着物の少女は嬉しそうに微笑んだ。
「よく頑張ったね」
陽だまりのような笑顔。
蓮は。
温かいものが、胸の中に拡がるのを感じた。
と、同時に、冷たい風雨にさらされ続けた身体は、限界を迎える。
どしゃり、と音を立て、泥を跳ねさせ。
蓮はその場に倒れた。
***
―—それは祭りの時期。
蒸し暑い土曜日の朝の事だった。
小さな少年——蓮が、木の下でしょぼくれていた。
そんな蓮を、赤い着物の少女、イナは遠くから見ていた。
ふと、蓮が顔をあげる。ぱちり、とイナと目があった。
「あら、見える子なんだ」
イナはそう察すると、蓮に近づいた。
「どうしたの」
「お神輿、中止になった」
と、蓮は唇を尖らせた。ビー玉のような涙がぽろぽろと頬を伝う。
なるほど、流行り病のせいで子ども神輿が中止になったらしい。
「悲しいんだね」
とイナが同情すると、蓮は言った。
「御神輿、楽しいから! 1年に1度しか見れないし」
「そっか」
イナの心は揺れた。祭りを愛してくれるなら、同胞だ。この少年を慰めてやりたい。そう思った。イナは赤い着物を翻すと、
「ねえ、見て」
そう言って、舞を歌い、踊った。
蓮は暫くそれをぼーっと見ていたが、やがて、楽しそうにはしゃぎ、共に歌い、踊ってくれた。
彼なりに、歌と舞を一生懸命に踊ってくれたことが、イナの心を嬉しくさせた。
機嫌をよくしたイナは、神社の供え物の中にあったよもぎ餅を一つ拝借してきた。
そして、先程教わった歌と踊りを何度も反復している蓮に、
「よもぎ餅、一緒に食べよう」
そう言って、よもぎ餅を半分に割って渡した。蓮は、
「ありがとう!」
目を輝かせ、よもぎ餅の半分を受け取った。
蓮は目を真ん丸に見開き、言葉もなく、無心によもぎ餅を食べた。それがどれほど彼にとって美味しかったかは、彼の表情や挙動を見ていれば一目瞭然だった。
イナは笑う。
「この御神輿を、お祭りを、神社を、大事にする気持ち。どうか、長く持っていてね。未来永劫じゃなくていいから」
「みらいえいごう?」
「この先ずっと、ってこと。ずっとじゃなくてもいいから、長く持っていてね」
イナはそう言って、にこりと微笑んだ。
どうか、出来るならばいついつまでも、と願いながら。
蓮は暫く、もぐもぐと丸いほっぺたを動かし、よもぎ餅を食べていたが。ゴクリと飲み込むと、パッと顔をあげ、言った。
「ううん、ずっと大事にするよ」
「えっ?」
「ずっと大事にする! だって」
「だって、こんなに美味しいよもぎ餅、ぜったい忘れないから!」
イナは、一瞬とてもおかしな顔をして、それから弾けるように笑った。
「あはは、あははは」
「どうしたの?」
「ううん。それでいい、それでいいよ」
イナは目尻から落ちた涙を指で拭いながら、言った。
「それでいいよ。今日のこと、お祭りのこと、美味しかったよもぎ餅の味、忘れないでね」
「うん!」
***
——あれは、小さい頃の景色。
蓮は、そんな幼い自分とイナのやり取りを、離れた場所から見ていた。
だが、次第に背景の色が薄くなっていく。意識が夢の中から遠のくのを感じる。
その時。ちらり、とイナが「こちら」を見た気がした。蓮は小さく手を振った。すると、イナが立ち上がり、こちらを向き、手を振り返してくれた。
イナは手を振りながら、蓮に言った。大きな口を開けた、いっぱいの笑顔で言った。
「ありがとう。龍を――彼を、止めてくれてありがとう」
そしてイナは言った。
「どうか、このお祭りの事、この場所の事、忘れないでね」
景色が揺らぎ、遠のいていく。夢の世界が終わっていく。感覚が消えていく。それでも、イナは懸命に想いを言葉にした。
「ずっとじゃなくていいから、未来永劫じゃなくていいから」
明るくよく通る声で、それでいて寂しそうな目で。イナはそう言った。
「時々でいいから、思い出して――」
「俺、また思い出します!」
蓮は、大きな声で叫び返した。目を丸くして言葉を失うイナに、蓮は「えっと」と口ごもり、やがて一つ決意をしたように、再びイナを見た。
「あのっ、忘れるかもしれないんですけど、また思い出します! 一生の中で、何度でも!」
イナは暫く、呆けた顔で蓮を見ていた。
やがて、くしゃくしゃに笑ったその白い頬に、涙が落ちる。
「……ありがとう」
***
「う……」
五感が、ゆっくりと戻る。
蓮はうっすらと目を開けた。耳の中は水の膜がはったようにぼーっとしている。だが、そんなぼんやりした膜の向こうから、
「蓮ちゃん!」
「こ、声でっか……」
蓮は思わず呻いた。ぎゅっと目を閉じ、再び開ける。
「あ……」
まず、蓮を覗き込む京平の顔が見えた。
その隣に、唇をぎゅっと噛み締め、目を真っ赤にして蓮を見下ろしている初穂。さらに、安堵した表情でため息をついている葵がいた。
眩しい。
もう1度目を閉じ、そして――眩しい理由に気づく。
「空、だ……」
目を丸くして、呟く。
蓮を見下ろす写真部の仲間たちの向こう。
先程まで黒く分厚い雲に覆われ、雷鳴と風雨が吹き荒んでいた空には今、雲一つない。絵画のような、澄み切った青空が広がっていた。
頬にあたる風も、そよそよと柔らかい。
先程までの暴風雨など嘘のような、快晴の昼間であった。
「そうだよ、雨、止んだよ……」
京平が声を詰まらせる。蓮はゆっくりと起き上がろうとして、
「……身体重い」
ずしゃ、と頭を戻した。貴重な4つの道具の衣は、プールにでも浸かっていたかのようにずぶ濡れである。この分だと、扇もだろう。もしも努武さんが見たら、あまりの惨状に悲鳴をあげるかもしれない。
「蓮、ちゃん……あの、えっと……」
京平が心配そうな声で言った。
「その、蓮ちゃんは蓮ちゃんのまま……? 何も、変わってない?」
雨に濡れた、震える柴犬のような京平を見て。
ぱっ、と。スイッチが灯るように、蓮の記憶が開いていく。そうか。そうだった。
「ははっ」
蓮は気合を入れて上半身を起こし、京平に向かって言った。
「なぁ京平。確かにあれ、人面犬だったな。うん、じいちゃんみたいなしゃがれ声の、ヒトの顔みたいな、不気味な模様の犬」
「え?」
きょとん、とした京平に、蓮は笑いかける。
「んで、京平が泣いてるから俺が棒を振り回してあの犬を追い払おうとして、でも俺がむしろ棒に振り回されて転んだんだ。俺、ちっちゃい頃から運動音痴だったもんな。そしたらさ、京平がさ。『レンちゃんが犬にやられたぁ。死んじゃったぁ』ってめちゃくちゃ泣いて、そんで、大人が駆け付けたんだよな」
「……もう」
京平の顔が、くしゃりと崩れ、笑う。
「そんなことまで、思い出さないでよ」
<続>
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