4-4 100年前の出来事
部活棟の廊下は、床も壁もほの白い。経過した年月と取り切れない埃とで、どこかくすんでいる。
蓮は廊下と部室の境界に立ったまま、先に部室へと入った京平の背中を見ていた。白いシャツに僅かに滲んでいるのは雨か、汗か。
京平は言った。
「100年前、確かに龍は収まりました。でも、多分儀式としては失敗――だったんだと思います」
「どういうこと?」
ユキが眉をひそめる。
「そもそも――そもそも、4つの道具に関しての認識が違うんです。数え方が違う。腕輪は、二つで一つなんです。」
「え……?」
驚くユキ。蓮もまた驚いたが――脳裏に何か、引っかかるものを感じた。4つの道具の数え方が違う。
確かそれは――それは以前、どこかで聞いた気がする。
京平は言葉を続けた。
「資料にはこうありました、4つの道具とは、衣、腕輪、扇。そしてもう一つ、って」
ユキが目を大きく見開いた。
「そんな」
「でも、100年前はその4つ目が用意できなかったんです。資料が――部分的に喪失してしまっていて、4つ目が何なのか、分からなかったから」
「なのに、儀式はできたのか」
葵が段ボールの上に頬杖をつき、不思議そうにつぶやく。京平は頷いた。
「道具が3つしかなくても、それでも舞は完成できた。だから、龍の脅威自体は去った。でも――4つ目の道具は、踊り手を守るためのものだったんです」
「守るため?」
「はい。……資料には、龍の怒りは去った。四三樹の地に注いだ雨は止まった。だが、舞い手は、龍に気に入られた、と」
「気に入られた、って……えっ? どういうこと?」
動揺する蓮。京平は静かに言った。
「舞い手は龍に気に入られ――連れ去られた、って」
***
絹を引きずるような雨が、窓の外で振り続けている。
ユキによって初穂と亜弥羽が呼び出され、部室の中は人で一杯だった。当然椅子は足りず、亜弥羽は葵の隣の段ボールを椅子として、長い足を投げ出して座っていた。
ユキによって簡潔にまとめられた、「京平の情報」の共有が進む。だが、「舞い手が龍に連れ去られたくだり」になると、亜弥羽は、
「どういうことォ!?」
と声をあげた。
「ここです」
京平は、机の上に置いた本を指し示した。
亜弥羽と初穂が部室に来るまでの間に、京平が自身の家に一度戻り、持ってきていた本である。京平の祖父の家から持ってきた、実物の『馬谷家の手記』だ。
ユキが落ち着いた声で読み上げた。
「4つ目の道具が何か、喪失により分からず。道具揃わぬまま、衣、腕輪二つ、扇を用いて舞を執り行う」
「腕輪二つ……」
蓮が呟いた。
「やっぱり、右と左で1セットなんだ……じゃあ、4つ目の道具って一体なんなんだ」
ユキは唇を噛むと、続きを読んだ。
「舞は順調に進む。舞い終わった途端、雨、風、共に止む。だが――最後の一陣と共に、舞い手の娘、消え去る」
「消える……」
「娘は龍に連れ去られたもの、と、見た者たちは言う」
亜弥羽が電子タバコを取り出そうとして――
「姐さん、流石に喫煙はマズイっすよ」
葵に肩を叩かれ、止められた。
「あ、すまんすまん」
「あの、よかったら飴あります」
蓮がポケットからべっこう飴を取り出すと、亜弥羽は「ありがと」と言って受け取った。そして飴を口に放り込むと、亜弥羽は「ンンー」と唸った。
「どう捉えても神隠しだよなぁ、これ」
「ですねぇ。あ、レンレン。ボクにも飴ちょうだい」
「どうぞ」
葵がべっこう飴の包みをぺりぺりと剥がす音だけが、しんと静まり返った部室に響く。
ユキは言った。
「だが、この後の記述も不可思議なんだ」
「え、続きがあるの?」
亜弥羽の素っ頓狂な声に応じ、ユキは読み上げた。
「10年後、娘は帰ってきた」
「えぇーっ」
亜弥羽が声をあげる。蓮もまた呟く。
「不思議だよなぁ、これ……」
亜弥羽が言った。
「てかさ、帰ってきたんならなんか……ハッピーエンドじゃない?」
「そういうわけでもないんです」
蓮が首を振り、ユキが再び続きを読む。
「娘は帰ってきた。だが――元の娘ではなかった。形だけが、元の娘であった」
改めてそれを聞いて、蓮はハッとする。
以前、京平に言われた言葉が、耳の奥に響く。
『もしも全く違う自分に変わってしまうとしたら、それって恐いことなのかな』
あれは、そういうことだったのか。
蓮は手の中でべっこう飴のフィルムをくしゃくしゃに丸めながら考えた。
全く違う自分。
龍に浚われて、全く違う自分になってしまう。
蓮の視線は自然と、ユキに向かう。ユキが、形だけはユキのまま、中身が全く違う人になって帰ってきたら?
ユキの豪快な笑い方、意地悪な無茶ぶり、それでいて気前のいいところ。全部、違う人になっていたら。
蓮は、手の中のべっこう飴のフィルムをギュッと握りしめた。
やがて亜弥羽が再び、唸りながら電子タバコをポケットから取り出そうとして、
「姐さん、やっぱりやめときましょうよタバコは。学校ですよ」
葵が低い声で留めた。
「んぁああー」
亜弥羽が頭を抱え、叫んだ。
「どういうことなのよぅ!?」
音波のような叫びがビリビリと、埃まみれの棚を揺らす。ユキがこめかみを抑えた。
「アタシも知りたいよ……」
蓮は隣に座る初穂を見た。
初穂はじっと、古い手記を眺めている。その目は何を考えているのかは分からないが――真剣に何かを考えている横顔だった。
蓮の正面に座っている京平は、顔色が悪い。痛みに耐えるような顔で、真っ白い机を見つめている。
蓮は小声で言った。
「京平、ありがとな。この事、ちゃんと教えてくれて」
京平は、腹を殴られたような顔で、ぶんぶんと首を振った。
「いいや、もっと最初に言うべきだったんだ」
「ま、それも正論」
葵が、心なしかいつもよりも低い声で言い放った。蓮は葵の方を振り返る。
「そんな、でも……」
蓮の何か言いたげな顔を遮って、葵は両手を広げる。
「だって、隠す理由無いでしょうよ、こんな重要なこと。言いづらい気持ちは分かるけど、隠して得にならんくない?」
「それはだって」
「その通りです」
京平が頷き、深く頭を下げた。
「知ってしまったうえで、皆に言う勇気が無かっただけなんです。だからギリギリになって言うことになってしまった。……本当に、すみません」
のっぺりした蛍光灯が、京平の広い背中を照らしている。その背中を、ユキがトントンと叩いた。
「気持ちの上で言いづらいも分かる。でも、葵の『大事な事なんだからタイミング見計らわずに早く言え』も分かる。……両方トントンで分かるよってことで、もうここの謝罪はここまでにしよう」
「……」
京平は暫し頭を下げていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。ユキが言った。
「ここからは、引っかかる事はなんでも言ってほしい。言うのが難しい事もあるだろうし、アタシたちも100%受け止められるとも限らないけど……頑張るからさ」
強く、優しくかけたその言葉には。
現状、目の前に立ちふさがった課題への、隠し切れない動揺もまた含まれていた。
***
ユキが静かに、いつもの自身の席に着席した。
「元の娘ではなかった、ってどういうことなんだろうね」
ユキは、誰かに問いかけたというよりはむしろ、自分自身に問うたかのようだった。
「もしも今のままイナの舞を舞ったら……どうなってしまうんだろう」
初穂が言った。
「……舞い手、やります」
「え?」
「……ユキさんに替わって、私が」
「初穂。馬鹿な事を言わないで」
ユキは強い口調で言った。だが、初穂もまた揺らがなかった。背筋を伸ばし、じっとユキを見ている。
「ユキ先輩が違う人になってしまうの、嫌です。私が、役目を変わりたい」
「いいや、アタシがやると決めた事だから。今更怖気づいて、誰かに替わってもらおうなんて――」
ユキの声が意図せず震える。一瞬下を向いたユキは、しかしすぐに姿勢を立て直した。顔にかかった髪の毛を手で払い、はっきりと言った。
「誰かに替わってもらおうなんて、思わない。……アタシがやるって決めたんだから」
強気な眼は、変わらない。
だが。
その声の震えを止める事は、ユキ自身にもできないようだった。
<続>
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