4章 舞うならば
4-1 病床
熱が出た日の夜。部屋の中は真っ暗になっていた。首から背中にかけてびっしょりと濡れている。
「う……」
蓮は、人の気配で目を覚ました。
「蓮、大丈夫?」
茶色の長い髪を一つに束ねた姿。母の友子が、ベッド際に膝をつき、蓮の額に手を当てていた。
「…夕方より楽」
「そっか。熱、何度かな」
友子に手渡された体温計で熱をはかる。夕方より下がっていたが、まだ微熱があった。
「微熱かぁ。咳とかは?」
「無さそう」
「雨で身体が冷えたのかな」
友子の言葉に頷いてから、蓮は一息ついて、天井を見上げた。身体の輪郭がじわじわと戻ってくるような感覚。ピントが合うように、五感が戻ってくる。
蓮は腹を擦った。
「なんか……お腹すいた」
「食欲があるならよかった」
微笑む友子に頷き、蓮はゆっくりと起き上がる。相変わらず寝汗はじっとりとしていたが、夕方に比べて身体は軽かった。うぅ、と呻く。
「シャワー浴びたいし、でもお腹もすいてる……」
友子はふふっと笑った。
「先にご飯食べようよ。私もさっき帰って来て、今から食べるところだから」
リビングのテレビの画面を見ると、時刻は夜の8時を過ぎた頃だった。地元のローカルニュースが、「まだ暫く雨が続きそう」という天気予報を報じている。
リビングを見回し、蓮が言った。
「あれ、父さんは?」
「出張。明日帰ってくるって」
友子が冷蔵庫を開けながら言った。
「蓮、お粥なら食べれそう? 冷凍のきつねうどんもあるよ」
「お粥がいい」
「オッケー」
応じながら、友子はフフッと笑った。
「え、なに?」
怪訝そうな蓮に、友子は「ごめんごめん」と応じる。
「ちょっと、小さい頃の蓮を思い出しちゃって。風邪ひいた時にね、何食べたい? 何なら食べれそう? って聞いたら、『よもぎ餅!』って大きな声で……」
「もう、やめてよ」
苦い顔をする蓮に、友子はもう1度「ごめんごめん」と言って笑った。
「よっぽど好きだったんだねぇ、よもぎ餅」
それから少しの間、蓮は居間の椅子に座ってニュースを見ていた。
「長い雨」の原因は分からない。気象予報士も、「こんな雲の動きは珍しい」と話している――
「雨、随分長いんだねぇ」
友子が、蓮の前にお粥の入った丼を置いた。
「あ、ありがとう。そうだね、長いね」
蓮はそう頷いてから、改めて――自分たちのしている事、目標を思い出し、ふっと顔を曇らせた。だがすぐに、ぺんぺんと頬を叩き、気を晴らす。
「がんばらなきゃ、とにかく」
「え、何を?」
「あ、あぁっ、えーっと」
蓮は咄嗟に言った。
「ぶ、部活!」
「あぁ、なるほど」
うんうんと友子は頷き、蓮の対面の椅子を引き、座った。母の前には、深皿に盛られた麻婆豆腐と白ご飯、春雨サラダ、麦茶の入ったグラスが置いてある。
友子がふと、蓮を見た。
「蓮、なんかさぁ」
「え? う、うん」
「学校で何かあった?」
「えっ!?」
思わず、大きな声が出る。
「そ、そう? 全然、そんなことないけど」
「えーそうかなぁ。なんか、蓮って、うーん……ここ2,3日……かなぁ、なんか……」
友子は「うぅん」と考え込みながら、麦茶を一口飲んだ。そして、「あぁ」と手を叩く。
「ここ最近の蓮、なんか『目標に向かってがんばるぞ』って感じがしてるよ」
そう言って友子は、にこにこと笑った。
蓮は、ぽかん、と口を開ける。
「え、俺そんな感じしてる?」
「してるしてる」
「そ、そっか……」
「だから、学校でなんかあったのかなぁって」
蓮は暫し、お粥の丼に目を落としていた。知らず知らず、手で丼の淵をなぞり、その温かさに感じ入る。やがて、意を決したように蓮は顔をあげた。
「……うん、そうなんだ。ちょっと今、部活で――どうしても、やらなきゃいけないことがあって」
「わ、そうなんだ。新しいフォトコンテスト?」
「っていうわけでもないんだけど……自分たちに今、何ができるかを試す、みたいな」
「へぇー。よくわからないけどすごいんだねぇ」
感心した、と目を輝かせる友子。
「うん」
誤魔化している罪悪感を胸の底に沈めて、蓮は頷き、そして言った。
「本当は、ユキ先輩から……この課題は、取り組んでも、参加を見送ってもいいって言われたんだけど」
「うんうん」
友子は、柔らかい眼で息子を見つめながら、相槌を打つ。
「俺、その……できることをがんばろう、って思って」
「そっかぁ」
友子は、まるでテレビドラマに感動したような顔で、麻婆豆腐を口に運ぶ。
「すごいねぇ、チャレンジしてるんだ。なんか賞品とかあるの?」
「えっ、えーっと賞品……は、ないんだけど」
賞品は無いけど。その続きの言葉は、不思議と蓮の口をついて出てきた。
「その、部活の皆が好きだから」
「ああ、なるほど。皆となら頑張れるってことだね」
「うん」
蓮は頷き、お粥を口に運んだ。じんわりと温かい。部活の誰にも聞かれていないはずなのに、照れくさくて鼻が熱くなる。
「いいなぁ。私、高校の吹奏楽部は先輩とソリがあわなくて大変だったから……いい人たちに巡り合えて、よかったねぇ」
「うん」
「でもね、うーんなんだろう」
友子は、じっと蓮を見た。
「蓮の、がんばるぞ、って感じ。すごくいいと思うんだけど、無理とか無茶はしてほしくなくて」
その声に滲む心配に、蓮は真面目に頷いた。
「うん」
「『夢中になって頑張る』ってことと、『ただめちゃくちゃに頑張ってる感じの無茶をする』ってことは、似てるけど全然違うと思うから」
蓮は黙って頷いた。労わるような母の声は、蓮を包み、心の内側へと沁みていく。何度も頷く息子に、友子はにこりと微笑みかける。
「何よりも蓮自身を大事にしながら、目標に向かって頑張ってね」
「……うん」
蓮は、れんげを手に持ち、お粥を口に運んだ。とろりとやわらかな卵粥の風味が、口と鼻とを満たした。
***
「あ、そうだ母さん」
「うん?」
お粥を殆ど食べ終えた頃、蓮は友子に尋ねた。
「母さんって、足立先生って知ってる?」
「足立先生?」
「あ、なんか昔のうちの教頭先生らしいんだけど。定年後に、児童クラブとか作った」
「ああ! あの足立先生か。そりゃ知ってるよ、有名だもの」
「そっかぁ」
「うちの大学も、確かどこかが足立先生の寄付活動で出来てるんだよね。私が入る前のことだけど。えーと……あ、そうだ。体育館の大きい時計と、正面の大鏡だ。うんうん」
「へえー」
蓮の母は、四三樹市から電車で30分ほどの聞戸市にある大学で非常勤講師をしている。足立先生という人の評判はどこまで知られているのだろう、という好奇心で尋ねてみたことだったが、その功績は蓮の予想以上のものだった。
蓮はもぐもぐとお粥を食べ終えた。
「ごちそーさまっ!」
「あら、完食。よかったぁ」
それからまた、もうひと眠りをした夜中。検温してみると熱はすっかり下がっていた。
「ふぅ……」
気を張っていた疲れが出てしまったんだろうな。蓮はそう思いながら、枕元のスマホに手を伸ばした。
「うん?」
珍しい相手からメッセージが来ていた。初穂だった。いつも不愛想な初穂が、わざわざメッセージをくれるとは。そんなに心配をかけてしまったんだろうか。
そう思いながらアプリを開いた蓮は、「えっ」と、思わず小さな声をあげた。
「学校に来れるようになったら話したい。狩馬京平の事で、内密の話」
<続>
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