ここは江戸時代かも
その頃、江戸の旗本屋敷へ続く藪の多い歩道で一人の青年武士が襲われていた。
「なに奴! 名を名乗れぃ!」
暗殺者二人と青年武士である青木重治郎は互いに距離を取りつつ刀を上方へ向ける。刀の切っ先が月明かりに照らされ不穏な光を宿した。
「名など不要!」
「なにが望みか!」
「武士は侍道にあり、貴様のような外国かぶれには死んでもらう!」
二回目のペリーの来航が近いと言われているこの江戸。少しでも外国を知ろうと勉強する者も少なくない。
重治郎も勝海舟こと麟太郎やアメリカ在住が長かった中浜万次郎ことジョン万次郎と共に勉強することも多い。
「外国かぶれではない! 敵を知るには敵を知らないとどうにもならないだろう! それがお主達にはわからぬか!」
「分からぬわああぁぁぁぁ――!」
互いの怒声が飛び交う中、重治郎は死を覚悟していた。二人の持つ雰囲気といい、多数に無勢という状況を総合的に見ても自分は殺されるだろう。
(無念……志半ばで私は……玉城さん、後は頼みます……)
「しぃねえぃ! 青木重治郎ぉぉぉぉ! キィィエエエエエエエィィィィィィ!」
一人の暗殺者が謎の奇声を発して重治郎に向かってくる。
「でぃぃぃぃああああああああっ――!」
重治郎は一撃目を刀で止めると後ずさる。剣の重さといい俊敏さといい、自分はやはり殺されると実感した瞬間であった。
「無駄なあがきを! うりゃぁぁぁぁあああ――!」
無様なほどに足掻いても人は生に執着する人とはそんな物である。目を瞑る暇もない。しかしそんな重治郎は目の錯覚かと思える物体を見た気がした。それは暗殺者の背後からなにか人のような物が飛んできた気がしたからだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおっっっ――!」
暗闇から猛スピードで突っ込んでくるのは白石であった。白石は神速とも言える速度で暗殺者二人の首を両手で掴むと懸命に止まろうとする。これも白石の生存本能が成せるわざと言えるのかもしれない。響く轟音に重治郎は目を丸くした。
「と、止まれええええええええええええええ――!」
料理をしているだけに白石は筋力はある。白石は掴んだそれを人とは思わず、大きな木かなにかと思ったようだ。二人の首を持ち、白石は二人の顔を地面に叩きつける。
二人は気を失い、そして白石も同時に激しい衝撃によって気を失ってしまった。
「な、なにごとか……」
重治郎は倒れる二人の暗殺者と白石を見ながら額の汗を拭った。
「大拳法家とはこのような者を指すのか」
まるで暗殺者など赤子の手を捻るように叩き倒した白石のことを重治郎はそう評価したが、白石は大拳法家でもなんでもない。
刀を鞘に戻し、重治郎は命の恩人である白石を見て一息ついて彼の元へと歩んでいくのであった。
「た、助かった……危ないところを助けて頂いた。なにがなんでも、この御仁をなんとかせねばな」
白石は不思議な感覚にとらわれていた。何度か目を覚ましたときに異様に枕が高く眠りにくかった感じがするが、それでもまるで田舎に住む祖母の家のように畳の香りがしたせいかなんとも言えない落ち着いた気分にもなった。
ベッドではなくゆったりとした布団にその身を包まれて、惰眠をむさぼりたくなる。
「ううん……」
何回か寝返りを打ち、微睡みの中へ誘われるが、そこで井上に襲われたことを思い出し、ハッと覚醒するように目を見開く。
「……俺はあれからどうなったんだ……」
何度か瞬きをした後に周りを見やる。
「和室?」
自分が居た場所はこんな田舎風な部屋とは無縁の無骨な鉄骨の集合体の中だった筈だ。畳に白を基調とした布団。明らかに古風と感じさせる室内。畳の良い香りに少し体が軽くなる錯覚を覚える。
部屋の隅を見やると机の上に文鎮と硯、そして筆と手鏡があった。
「本当に古風なところだな。ここはどこなんだ……」
顎に手を当てて考えてみる。こんな田舎は自分の祖母の家ぐらいのものだろう。しかし内装を見てもどうにも祖母の家ではない。それどころか圧倒的に古風といっても差し支えない。
自分の服装を見やると服は変わらず純白のコック服である。
考え込んでいると一瞬襖が少しだけ開いた気がした。襖の隙間から幼さの残る女性と目が合った。
「うん?」
目が合うと女の子は襖の影にまた隠れてしまう。少し開いた襖を白石はじっと見ているとまた女性がちらりと室内を覗き込んでくる。
「あのー」
「きゃっ!?」
とても可愛い声だなと思いつつ、年頃の子の反応かな、なんて思って再度隙間に向かって声を掛ける。
「あのー」
「春野、きゃではありません!」
「は、はい。姉様」
一人は可愛く、もう一人は凜とした元気あふれる声だと白石は思った。顎に手を置くと考える。
「こんな声、聞いたことないぞ」
自分の知り合いで結婚し二児の父になり、娘二人を授かったものもいるが、声質から聞くにどう考えても自分の知り合いの娘ではない。
「そもそも俺はイタリアにいたんだ。日本家屋にいることさえおかしい」
イタリアに仲の良い料理人はいるが、まさか西洋の町並みの中に日本家屋を作るとも考えにくい。それこそ物好きというものだろう。
ぶつぶつと一人で状況を考えていると、襖を隔てた向こうから声が掛かる。
「申し訳ございません。開けてもよろしいでしょうか」
「そもそも、ここはどこなんだ……それになんか寒くね?」
顎に手を置く、自分は寒い日などは毛布などを重ねてかぶって寝る。しかしこれでは寒くてしかたがない。いや、それとも自分の服装が夏様式なのか?
「寒い……いやまて俺が昨日までいたのは夏だぞ。これじゃまるで秋か冬じゃないか」
「あのー」
「いやいや待てこれは夢なのか。季節が起きたら変わっていたなど聞いたこともない。超常現象でもあるまいし」
「はい。開けますね」
襖がするりと横に開いた。思案にふけっていた白石は物音で襖の方を見やると目を見開く。そこには信じられない光景が映っていた。
「う、うそだろう……」
「なにがうそなんですか」
「なにって……」
あなたの存在がだよとは言えない。襖を開けた先から一瞬見えた彼女の姿。
恐らく身長は160 cm前後という普通な身長だ。美しい肢体に透き通るような肌にマッチするかのように少し丸めの顎から額まで卵形の輪郭と言っていいのだろう。そこにはぱっちりとした目、そんな目には輝く日本人生粋の瞳の色があった。やぼったような可愛い鼻梁に小さな口がその美しさを際立たせた。年齢は16である。白石は27なので一回りも若い。
問題はここからだ。赤を基調とした着物。それには花の模様が入っている。とてもよくできた着物なのだろうなと素人の白石ですらわかった。
「イタリアで着物……いや」
「着物がなにか?」
「あたまが……」
漆黒の髪質。その髪は時代劇で見る人のようにしっかりと結われている。髪に刺さっている簪の装飾品がゆらりと揺れる。
「あたまがどうかしましたか」
とても元気な声だ。にっこりと微笑むその笑顔に白石はノックダウンされそうになった。
「結ってらっしゃる」
「え?」
その白石の返答に逆に彼女の方が怪訝な表情になった。なにを当たり前のことを仰っているのでしょうという呟きが聞こえた。
(イタリアに来ている時代劇の劇団員。そうだ、なんか歌舞伎スタイルの公演かなにかあるのかもしれない。昨日のことは忘れているが、俺は嬉しさのあまり酒を飲んで全てを忘れてここにお邪魔をしているのかもしれない」
「いや待てよ。そもそもコンテスト自体が夢だったのか」
そこで白石の背にぞっとした寒気が走る。井上の二つの眼だ。あの殺意に満ちた目は忘れるわけもない。その寒気はこの寒さとは別に来る殺意から来るものであった。
「じゃあ、これはなんなんだ」
白石は顎に手を置いた後に女性に質問をする。
「失礼ですが、大道芸人かなにか職に就いてらっしゃる方ですか?」
「な!? 失礼です。私は武家の娘です」
「す、すみません。あまり見たことがないお姿でしたので」
「見たことがない?」
その白石の言葉に女性と少女が目線を合わせ、こそこそと喋り始めた。
「ひょっとして記憶が」
「そうかもしれません、姉様」
「なんと、おいたわしや。兄をお救いになったときにきっと……」
そう女性が言うと、女性は覚悟を決めたかのようにして、優しい微笑を浮かべた後に彼女は腰を折って正座してから着物を正し、両手を廊下につけてから深く頭を下げた。女性が動くと着物の衣擦れの音がし、更には僅かながら化粧の良い香りがして白石はドキリとした。
「昨晩の夜に兄である重治郎が襲われた折に、大拳法家様にそのお命を助けていただいたと聞き及んでおります」
白石は部屋の隅の隅まで見やるが誰もいない。一体この娘は誰に向かって喋っているんだと首をかしげながら話を聞く。正直、相づちも打てないとはこのことをいうのだろう。
「父は既になくなっており、兄が亡くなればお家の相続も危なくなるところでした。誠に感謝致します。そして本当にありがとうございます、大拳法家様」
失礼な奴だな、その大拳法家とかいう人。返事ぐらい返してやれよと思った刹那、彼女は頭を上げるとはっきりと白石の瞳を見据えてそう言った。大拳法家とは自分のことを言っているのだなと白石は否が応でもここで自覚せざるを得なかった。
そんな彼女に白石は疑問口調で言葉を向けた。
「あのー」
つい質問したい気持ちになった白石に彼女は制止のサインをする。
「はい、ここで一度お話は終わりに致しましょう。腹が空いては戦はできぬといいますし、落ち着いた話はゆっくりと朝餉の後にでも致しましょう」
「は、はい」
確かに布団の中に入って聞く話でもないなと思い、白石は彼女の言葉に従うことにした。着物を再度正し、立ち上がろうとする彼女に白石は一つだけ質問した。
「まだこちらも名乗っていないし、名前もお聞きしていませんね」
「まあー、そうでした。私ったら柄にもなく緊張しちゃって。お恥ずかしいです。基本中の基本を忘れておりました」
彼女は布団から立ち上がる白石を見て、八重歯を見せて微笑みながら自分の名前を告げた。
「私の名前は青木木乃葉と申します」
「あ、俺の名前は白石弦といいます」
「名前は覚えていらっしゃるんですね」
「え?」
「いえいえ」
白石の名前を聞いた瞬間、彼女は顎に手を置いた後に微笑みを浮かべながら、言葉を選ぶようにして言った。
「それでは私は白石様とお呼びします。大拳法家様という名前はなにかおかしいですし」
「全くです。私は木乃葉さんとお呼びします。それでよろしいでしょうか?」
「はい! よろこんで、あ、そういえば」
「はい?」
「襖の上に気をつけて歩いてください。白石様はとても身長が大きいので恐らくそのまま部屋から出ようとすると頭をぶつけちゃうかも」
「あ、そうですね」
「私も低い方ではないですから、人事ではないのかもしれませんね。うふっ」
確かに異様な低さの上桟だ。近頃の建築物ではお目に掛かることはないだろう。一つあるとすれば戦国時代の城や江戸時代に建てられた建造物になんかを見学するときにその低さに気づく程度だろう。
「戦国時代や江戸時代か……まさかな……」
白石を先導するようにして先を歩く木乃葉の後ろについて歩くようにしていた白石は、末恐ろしいと思える疑問を述べるのであった。
台所周辺に着くと、白石は驚きのあまり間の抜けた声を出してしまった。
「おおっ……」
きれいに掃除された木製の廊下から続く先には台所に続いていた。廊下から台所に続く段差にはかなりの高低差があった。現代のように人に優しく設計してあるようには見えない。
「かまどとか七輪とかいろいろある」
正直に言えば時代劇のセットにしか見えない。今時こんな古風なものを使っている人は物好きな人かなにかだろう。
かまどとか七輪があるという白石の言葉を聞いて木乃葉は再度顎に手を置いた。
「やはり記憶が……」
そしてかまどの前では先ほどの可愛い女の子が動いていた。一度動きを止めると木乃葉のところに駆けてきて、少し困った表情をする。
「あの姉様」
「どうしたの」
「えーと、今、加納屋さんがお越しになって、そのー、この鶏肉で朝食を食べようと仰られて」
「ご公儀で禁じられているけど、養生用ということにしましょう」
「それはいいのですが……どうにも美味しくないんですよね。鶏肉」
「うちは料亭やもももんじやではないですから上手く料理はできませんからね。経験不足から来てるので。味付けとか色々。兄の西洋に対する勉強のために加納屋さんが捌いて持ってきてくれるのですが」
「はい……」
小さい体を春野はさらにしゅんと小さくさせた。
春野は漆黒の髪質をしており背中まで流麗に髪を伸ばしている。身長は150㎝前後非常に小柄な少女だ。透き通るような白い肌に、いい具合に痩せた体。リスのような顔立ちに可愛い柔和な目。その目の瞳はこれもまた生粋の日本人色であった。整った鼻梁に小さな口。まるで人形といってもいいぐらいだった。年齢は12である。
身に纏っている藍色の着物の袖口や脇の方をタスキで上げている。
(この子は頭を結わなくていいのか。それにしてもこんな幼い子が料理か……まあ一宿の恩義はあるし、こうしよう」
「もしよろしければ一宿のお礼として俺が作りますよ。こう見えて料理は得意なんですよ」
竈へ目を向けていた木乃葉が、隣に立つ白石へ視線を向ける。その瞳にはやや困惑した色が見受けられた。
「ですが、命の恩人に料理を作らせたとあってはこの青木家の面目が……それに記憶が……」
「記憶?」
「い、いえ」
聞き返した白石に木乃葉は目を背けたが、白石は木乃葉に向かってこう言い切った。
「正直、俺はあなたのお兄さんを助けたかどうかも分からないんです。その話は美味しい朝食を食べた後にしませんか? 人間腹が減っていては戦ができないといったのは木乃葉さん、あなたの筈ですよ」
「そ、そうですが……」
内心白石は心の中に生じた不安を料理で払拭したいという気持ちがあった。
(まさかな……本当にタイムトラベルはしていまいに……)
台所のまな板に置かれている鶏肉は既に捌かれていた。現代でも庭で締めるなんてことも偶にあるので羽根つきかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
(養生用ね……まるで江戸時代のような言い回しだ。特に推定すると幕末辺りになるのか)
白石は目を閉じて鶏肉を最高に旨いものにして食べられる調理法を考える。
(蒸す、焼く、揚げる、炒める。いや揚げるはないな。こんな慣れていない竈に油をつかったら火事になる。もし万が一映画セットであれば新聞記事を飾るニュースになる。ここは幕末なのかどっきりなのか分からないからな)
「オリーブオイルとマヨネーズはありますか?」
春野にそう聞くと春野は困ったような表情をした。
「おりーぶおいる……まよねーずとはなんですか……」
どんどん反応が幕末コースになっていっているなと白石は内心冷や汗をかき始めた。
「勿論、冷蔵庫もあるわけもないかな?」
「れいぞうことはなんでしょうか?」
後ろに立つ木乃葉に聞くと、さも当たり前のように素晴らしい文明の利器を知らないという反応が返ってきた。
(これはまじでタイムトラベル説が濃厚になってきたな……これどうすんだやばいぞ……)
「ど、どっきりとかじゃないないですよね」
「どっきりとはなんですか? 姉様、どっきりって聞いたことがありますか?」
「な、ないです。うううっ……お労しや」
「うっ……そんな目で見つめないでくれ」
春野と木乃葉の瞳に一筋の涙が浮かんでいた。完全に病人お労しやの視線だった。木乃葉がぐすりという鼻を啜る声を出していた。
ぽちょんという水滴が石の床に落ちる。静寂が場に満ちたが白石は気を取り直すようにして言った。
「ではなんの調味料があります?」
「えーと」
調味料という単語は通じるらしい。
「あるのは、えーっと。お醤油、酢、ごま油、お砂糖、塩、味噌、お酒、胡椒、唐辛子、生姜、長ネギ、みりんです」
(醤油があるということは江戸時代の可能性濃厚だな。それにしても、なんか思い切って一宿の料理とかいったが、え? というほどの素朴な料理が出来上がりそうな調味料の揃い方だな……でも、もしここが過去の世界なら案外行けるかもしれない)
白石はそう思うと、隣の春野に頼んだ。
「調味料の場所とかわからないから、俺の言うものを持ってきて下さい」
「は、はい」
春野は頷くと小走りに動き、台所から調味料を集めてくる。木乃葉は料理を作るときの白石の表情を見てこう呟いた。
「先ほどから見るととても楽しそう」
こうして白石の異世界での調理が始まった。この男、後にこう呼ばれるとはこの時誰も思っていなかった。
それは徳川幕府の料理人と。
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