第10話:雪辱の戦場、血と涙の再起

袁紹の大軍が迫る中、公孫瓚は冷静だった。十万を超えるという敵の兵力は確かに脅威だが、その統制の甘さと兵站の脆弱さは、既に荀彧と郭嘉によって見抜かれている。


「殿、袁紹軍は、この平原で我らを包囲する構えです。その数に圧倒され、我らが戦意を喪失するのを狙っているのでしょう」


荀彧が、戦場の地形図を広げながら言った。彼の冷静な声は、周囲の緊張感をわずかに和らげる。


「奴らは、我らを正面から叩き潰すつもりだ。だが、それは傲慢の極み」


俺は、地形図の要所を指でなぞった。この平原には、わずかながら起伏があり、それをどう利用するかが鍵となる。


郭嘉が、不敵な笑みを浮かべた。


「数の暴力には、奇策で応えるのが定石。しかし、今回はそれに加えて、奴らの『驕り』を逆手に取ります」


郭嘉は、詳細な作戦を説明し始めた。それは、白馬義従の機動力を最大限に活かし、敵の兵站を奇襲するという大胆なものだった。さらに、袁紹軍の一部を意図的に誘い込み、そこに罠を仕掛けるという、危険な陽動も含まれている。


「董卓戦での失敗を繰り返すわけにはいかぬ。今回の策は、綿密な情報収集と、正確な判断が命だ」


俺は、二人に念を押した。あの時の慢心は、二度と繰り返さない。


そして、開戦の日。


袁紹軍の号令とともに、十万の兵が地鳴りのような響きを立てて進軍を開始した。地平線を埋め尽くすほどの兵士の群れは、まさに圧倒的だ。公孫瓚軍の兵士の中には、その数に恐れを抱き、顔色を変える者もいた。


だが、公孫瓚は、その中央で悠然と構えていた。彼の傍らには、白い鎧を身につけた趙雲が、まっすぐな眼差しで敵を見据えている。


「趙雲、お前には重要な役割がある。郭嘉の指示に従い、敵本陣の陽動と、兵站奇襲の道を切り開け。危険ならば、決して無理はするな」


「はっ!この趙子龍、殿の命とあらば、いかなる困難も乗り越えてみせます!」


趙雲が、力強く返した。彼の声は、兵士たちにも響き渡り、わずかながら士気を高めた。


そして、公孫瓚の号令とともに、白馬義従が白い嵐となって駆け出した。彼らは袁紹軍の側面を突き、その統制を乱す。敵の騎兵が迎撃に出るが、白馬義従の練度と速さには敵わない。


戦場は、たちまち混乱の渦に包まれた。


郭嘉の指示に従い、趙雲が白馬義従の一部を率いて、袁紹軍の深くへと切り込んでいく。彼の槍が閃くたびに、敵兵が次々と薙ぎ倒される。その武勇は、まさに鬼神のごとし。


しかし、袁紹軍も、ただ数を頼りにしているだけではなかった。彼らは、その圧倒的な数を活かし、公孫瓚軍を徐々に包囲していく。特に、袁紹が送り出した猛将たちが、趙雲の行く手を阻んだ。


「趙雲、そこを退け!貴様ごとき、我らが相手ではない!」


袁紹軍の武将が、大音声で叫んだ。


趙雲は、沈黙したまま、ただ槍を振るう。しかし、敵の数が多すぎる。いくら趙雲が強くとも、四方八方から押し寄せる敵兵に、少しずつ疲労の色が見え始める。


郭嘉からの伝令が届いた。


「殿!趙雲隊が、敵の包囲網に深く入り込みすぎました!予定よりも敵の抵抗が強く、孤立する危険があります!」


俺の顔から、血の気が引いた。まさか、郭嘉の予測以上に敵の動きが速いとは。董卓戦の悪夢が蘇る。あの時、俺の慢心が兵を危険に晒した。


「呂布はどこにいる!?」


俺は叫んだ。呂布は、別働隊として、敵の別の側面を突く指示を出していたはずだ。


「呂布殿は……敵の武将と一騎打ちを始めてしまい、命令を無視しております!」


幕僚の報告に、俺は歯ぎしりした。呂布め!やはり、制御不能な暴威か!


趙雲のいる地点では、敵の増援が集中し、白馬義従の動きが鈍り始めていた。彼らは、まさに袋の鼠にされようとしていた。


「くそっ!このままでは、趙雲が……!」


俺は、焦燥に駆られた。あの純粋な「義」を持つ男を、この手で失うなど、あってはならない。しかし、俺自身が動けば、本隊の指揮が乱れる。


「殿、ここは総退却を!このままでは、全滅もあり得ます!」


荀彧が、冷静ながらも、苦渋の判断を迫った。彼の顔には、この状況の厳しさが色濃く浮かんでいる。


「退却など……っ!」


俺は、一瞬、拒絶しかけた。また退却か?また敗北を認めるのか?あの時の無力感が、再び俺の心を締め付けようとする。


しかし、趙雲が、董卓軍の猛攻の中で、かすかに苦悶の表情を浮かべたあの瞬間が、脳裏に蘇る。彼を失うわけにはいかない。


「……全軍、撤退準備!趙雲隊を援護し、被害を最小限に食い止めろ!」


俺は、血を吐くような思いで命令を下した。これが、俺にとって二度目の、そして最大の「挫折」となるだろう。完璧なはずの未来知識が、またしても俺を裏切った。呂布の制御不能さ、そして袁紹軍の予想以上の粘りが、俺の計画を狂わせたのだ。


白馬義従が、趙雲を援護するために敵陣へと突っ込んでいく。彼らは必死に戦い、趙雲を袁紹の包囲網から引き剥がそうとする。趙雲もまた、孤軍奮闘し、殿の命令に応えようと、血みどろになりながら戦った。


結局、白馬義従は趙雲を救い出すことには成功したものの、撤退戦の最中に多くの兵を失った。負傷者も続出し、彼らの白い鎧は、返り血と泥にまみれて、見るも無残な姿となっていた。


本陣へと戻ってきた趙雲は、全身に傷を負い、その顔は土気色だった。


「殿……申し訳ございません。この子龍の不甲斐なさゆえに……」


趙雲が、悔しそうに顔を伏せた。


「何を言うか、子龍。お前はよくやった。これは、私の采配のミスだ。呂布の制御も、私の責任だ」


俺は、彼の肩を強く掴んだ。その拍子に、趙雲の傷口から、血がにじんだ。


「……この殿がもし、義ではなく力のみに傾けば、それは董卓と何が違うのだ?」


あの時、趙雲の瞳の奥によぎった微かな陰りが、現実のものとなったかのように、俺の胸に重くのしかかる。


「殿……」


趙雲が、痛みに顔を歪めながらも、俺を見つめ返した。彼の目は、疲労困憊の中でも、まだ曇っていなかった。


「……殿は、民を、見捨てなかった」


趙雲が、かすれた声で呟いた。その言葉に、俺はハッとした。


そうだ。俺は、撤退を選んだ。兵士を、そして趙雲を、犠牲にする道を選ばなかった。あの列車事故で、何もできなかった、ただ怯えていた自分とは、違う。


「うむ。私は、民を見捨てぬ。そして、お前たち、私の兵も、決して見捨てぬ」


俺は、趙雲の傷ついた顔をまっすぐに見つめた。


「この敗北は、決して無駄にはしない。必ず、この雪辱を晴らし、民が心から安寧を得られる世を築く。この誓いは、決して揺るがない!」


俺は、力強く宣言した。その言葉は、傷つき疲弊した兵士たちにも届き、わずかながら、彼らの瞳に光が戻るのを感じた。


夜の闇の中、満身創痍の白馬義従が、静かに傷を癒やしていた。彼らの白い鎧は、血と泥にまみれても、なお誇り高く見えた。


遠く、袁紹軍の陣営から、勝利の雄叫びが聞こえてくる。


それは、俺の心に深く刺さる楔となった。


白馬のたてがみが、戦の傷跡を刻む風に、静かに揺れていた。


この敗北は、俺の「驕り」を打ち砕いた。だが、同時に、俺の「善政」と「民を救う」という信念を、より強固なものにしたのだ。


この屈辱を、必ず、勝利に変えてみせる。

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