第3話:蠢動する闇、予見の焦燥
劉備が去った後も、俺の心には言いようのないざわつきが残っていた。彼の「義」に触れ、その純粋さに敬意を抱いた一方で、やはり俺の「未来知識」と「合理性」からすれば、彼の道はあまりにも非効率に見える。
「殿、劉玄徳殿は、いかなる返答を?」
趙雲が、いつも通りの涼やかな声で尋ねてきた。彼の目には、かすかな期待が宿っているように見えた。もしかしたら、劉備の「義」に、趙雲の中の何かが共鳴していたのかもしれない。
「明確な返答はなかった。だが、いずれは私の元へ来るだろう」
俺は、そう断言した。内心では、まだ迷う劉備の姿を思い浮かべていたが、趙雲の前では確固たる態度を示す必要があった。
趙雲は、静かに頷いた。彼が何を考えているのか、その表情からは読み取れない。ただ、その揺るぎない忠誠心は、俺にとって何よりも心強いものだった。
数日後、俺は幽州の地図を広げていた。未来を知る俺にとって、この地図は単なる紙切れではない。そこに記された地名の一つ一つが、血塗られた歴史の舞台となる。
特に、洛陽の状況が気がかりだった。史実では、董卓は混乱に乗じて洛陽を制圧し、天子を傀儡にする。その後の彼の暴政が、まさにこの乱世を決定的に泥沼化させることになるのだ。
「董卓……」
俺は、地図上の洛陽の文字を指でなぞった。
今の洛陽は、何進(かしん)と十常侍(じゅうじょうじ)の内乱で大混乱に陥っているはずだ。そして、その混乱に乗じて、涼州から董卓が兵を率いて上洛する。彼が帝都を掌握する前に、俺が動かねばならない。
だが、幽州から洛陽までは遠い。地形を考えれば、並大抵の行軍では間に合わないだろう。それに、董卓の兵力は、数万とも言われている。今の俺の兵力では、正面からぶつかるのは得策ではない。
「だが、それでも、行かねばならぬ」
俺は、己に言い聞かせた。現代で、あの時、何もできなかった後悔。その苦い記憶が、俺を突き動かす。
白馬義従の機動力を最大限に活かす。そして、董卓が完全に帝都を掌握する前の、混乱の隙を突く。これが唯一の道だ。
俺は、地図を睨みつけ、脳内で詳細な行軍ルートをシミュレートした。兵站は、現地調達を基本とするしかない。だが、民を飢えさせ、略奪することは、俺の目指す「善政」に反する。
「食料は……どうする」
額から冷や汗が流れた。理想を掲げるだけでは、兵は動かせない。現実的な問題が、次々と頭をよぎる。転生者だからといって、全てが万能なわけではない。
その時、一人の幕僚が戸を叩いた。
「殿、袁紹(えんしょう)殿より、書簡が届いております」
袁紹。史実では、公孫瓚を滅ぼす最大の敵。彼もまた、董卓討伐の旗を掲げ、諸侯に檄を飛ばしているはずだ。
書簡を開くと、袁紹の傲慢な性格が滲み出るような、大仰な言葉が並んでいた。董卓の暴虐を非難し、彼こそが漢室を救う唯一の器であると主張し、公孫瓚にもその義挙に加わるよう促す内容だった。
「ふん」
俺は鼻で笑った。知っている。この男が、結局は私利私欲に走り、天下を混乱させることを。彼が主導する連合など、烏合の衆に過ぎない。
未来の史実は、すでに血で染められている。だが、それはまだ乾いていない。俺がこの手で、その血を拭い去ってみせる。
「幕僚を呼べ。そして、白馬義従の精鋭を集めろ。これより、全軍、洛陽へ向けて出立する」
俺の言葉に、幕僚は驚きに目を見開いた。
「洛陽へ、でございますか?しかし、殿、董卓軍はすでに……」
「わかっている」
俺は幕僚の言葉を遮った。
「故に、今、動くのだ。彼奴(きやつ)が完全に牙を剥く前に、天子を救い出し、洛陽を抑える。それが、この乱世を終わらせる、最短の道だ」
俺の言葉には、迷いはなかった。公孫瓚という存在に課せられた、血の代償。それを払う覚悟は、すでに出来ている。
「白馬義従は、最速で行軍する。兵站は最小限とし、各地の民には、協力を仰ぐ形とする。略奪は一切許さぬ。我らは、民を救うために行くのだと、心に刻め」
「は、ははっ!」
幕僚は、俺のただならぬ決意を感じ取ったのか、震える声でそう答えた。
その夜、月明かりの下、白馬義従の精鋭たちが静かに出立準備を進めていた。彼らの白馬のたてがみが、月の光を受けて輝いている。
趙雲が、俺の傍らに寄ってきた。
「殿、まことに洛陽へ向かわれるのですか?それは、あまりにも危険では……」
彼の声には、心配の色が滲んでいた。
「危険など、承知の上だ、子龍。だが、このまま座して見ている方が、よほど危険だ。民が苦しむのを、黙って見過ごすことなど、私にはできぬ」
俺は、趙雲の肩に手を置き、空を見上げた。
「お前が望む、弱き民が安心して生きられる世。それを実現するためならば、どんな苦難も乗り越えてみせる。これは、私がお前と交わした誓いだ」
趙雲は、無言で頷いた。その目には、再び揺るぎない決意の光が宿っていた。
白馬のたてがみが、夜風を斬り裂き、月の光を浴びて白く躍った。それは、希望か、それとも血の未来か。
俺は、馬に跨り、洛陽へと続く暗い道を見据えた。
俺が目指す“善政”の道は、劉備の掲げる“義”よりも、この乱世の現実には即している。そんな確信が、俺の背中を押していた。
蠢動する闇の中へ、白馬の王子は駆けていく。
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